さよなら地下鉄梅田駅・ アーチ空間のシャンデリア 2月8日にインスタグラムにアップした写真です。 このときはアーチ天井の改修工事としか貼り紙には書かれていなかったのですが、2月17日に大阪市交通局からアーチ空間が刷新するという報道発表がありました。 →「御堂筋線梅田駅のアーチ空間を刷新します」大阪市 大阪市交通局の募集要項の配布資料より ↑従来のこの空間が ↓このように変わります。 蛍光灯照明(シャンデリア)がなくなっている! 天井もすごいことに! (※蛍光灯照明(シャンデリア)は「大阪市地下鉄建設五十年史」ではシャンデリアと記されていたため、以下「シャンデリア」とします) もう、びっくり! あのシャンデリアって、レトロだけどモダンな感じがしてかなりよかったんですよね。でもそれほど古いものだというイメージはなかったのですが、ネット上では結構不満の声が上がっていたように思います。そんな中で工
十三のランドマーク さよならタケダの看板 梅田方面から十三大橋を渡って来ると見えるタケダの看板。 長い間、十三の街のランドマークとして存在していたタケダの看板がなくなるかもしれません。 タケダタケダタケダ〜のあの看板です。 というのも、この看板が設置されている建物の解体が決まり、現在解体準備に入っているからです。 十三の街は、武田薬品工業株式会社の成長とともに発展したと言っても過言ではありません。 この建物には研究所が入っていた様ですが、研究所の移転(神奈川県の湘南研究所)に伴い多くの人が移動したと聞いています。 この研究所は住宅地のすぐ近く、 これほど住宅地に隣接していた薬品会社の研究所も少ないかもしれません。 どちらかというと住宅地の方が工場の近くまで寄って来たという方が正しいかもしれない。 薬品会社の研究所ってどんなことをしていたのでしょうね。 だいたい想像はつきますが… この複雑に
空気が違う、神宮の早朝参拝。 神宮式年遷宮を終え、現在、内宮(ないくう)、外宮(げくう)とも新旧の御正宮(ごしょうぐう)が並ぶという、20年に一度の珍しい光景を見ることが出来ます。いつまでこの状態が続くのかはわかりませんが、早速新しい御正宮に参拝してきました。 まずは外宮から。 私は早朝参拝が好きなので、この日も日の出前に行って来ました。まだ真っ暗な参道の森の中を歩いていると木の上から奇妙な鳴き声が聞こえてきます。おそらくムササビだと思いますが、ちょっと独特の空気が漂っています。 手前は旧御正宮、奥が新しい御正宮です。 旧御正宮は御門が閉ざされていて中を見ることが出来ません。 ただ、横の隙間から少しだけ見ることが出来る。 こちらが新しい御正宮。 鳥居の中は撮影禁止なので隙間から。真新しい金の千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が美しい。 手前にあるのは雑誌などでもよく取り上げられている三つ石。
さよならイーゴス108 解体が進む「イーゴス108」を見てきました。 ここに来るのは20年ぶりくらいでしょうか。 私がまだ若かった時に一度だけこれに乗っています。見晴らしが素晴らしかったことを今でもかすかに覚えている。 遠くからは何度か見ていたのですが、 9月から解体が始まったという事で、ずっと気になっていました。 カニとのツーショットもこれが最初で最後かも。 真正面にまわってみた。わずかにかつてのカラフルな色が残っている。 琵琶湖大橋の西のたもと、ここにかつてびわ湖タワーという遊園地がありました。その場所に当時世界一の高さ(108m)を誇る大観覧車「イーゴス108」が完成したのが平成4年(1992)。いまから21年前です。 来るのが少し遅かったようでゴンドラはすでに取り外されていました。 カラフルな色でかわいかったのに。 どこかの倉庫に運ばれたのでしょうね。 2001年にびわ湖タワーは閉
弾丸列車から新幹線へ(4) 新大阪駅ができるまで 「東海道新幹線工事誌」より 戦前の弾丸列車計画のルートです。現東淀川駅北側に新大阪駅を設置する予定で、現東淀川区豊新付近には貨物駅を、鳥飼付近には貨車操車場を、立花付近には客車操車場が予定されていました。 「東海道新幹線工事誌」より 昭和34年頃、東海道新幹線の新大阪駅の計画において4つの案が検討されていたようです。(※ 図には3つしか入っていませんでした) (1)現大阪駅併設案 大阪駅北側に併設する案です。ただ、周辺の交通マヒにさらに拍車をかけることや、用地取得の難しさ、工事費の増大等が大きな課題でした。 (2)東淀川案 戦前の弾丸列車計画のルートを踏襲する案で、東淀川駅の北約200メートルの位置に設置する案です。この案は用地取得の点から見て、小住宅が雑居しており、大阪駅併設案についで難しいとされていたようです。 (3)宮操付近案 実は2
弾丸列車から新幹線へ(3) 東海道新幹線計画のはじまり 「東海道新幹線工事誌」の写真を加工。東海道新幹線開業当初の新大阪駅です。 戦後の日本経済は朝鮮特需などにより国力が急速に回復、更なる高度経済成長を迎えようとしていました。昭和31年、国鉄は輸送量の伸張に伴い東海道線の現状を分析。その結果、昭和36、37年度には輸送力が限界に達すると予想されました。 国鉄は輸送力の行詰りの打開策を樹立するため「東海道幹線輸送増強調査会」を設置、そこでの報告に基づき昭和32年7月2日、十河総裁は運輸大臣に対して国家的観点からこの問題に対処するよう要請しました。 昭和32年8月30日、閣議決定をもって運輸省に日本国有鉄道幹線調査会が設置され、昭和33年7月に調査会から東海道新幹線建設の必要性に関する答申を運輸大臣に提出、同年12月に閣議承認され、昭和34年4月新幹線建設工事が運輸大臣によって認可されたのです
弾丸列車から新幹線へ(1) 弾丸列車計画と新大阪駅 昭和31年発行の東淀川区史にとても興味深いことが書かれています。 戦前に計画・着工されていた東京・下関間を高速列車で結ぶ「広軌新幹線」、通称「弾丸列車」のことです。 弾丸鉄道について 戦時中鉄道省において弾丸鉄道の計画があり、この実現をみていたら確かに本区の様相も一変していたことと思われる。いまこの計画のあらましを述べると昭和十三年鉄道省企画委員会において、輸送力の拡充ならびに内地・大陸間の交通幹線として、東京・下関間に「広軌新幹線」の敷設が具体化し、昭和十五年の第七十五議会で工費約五億六千万円、十五年度以降十五ヵ年計画として可決された。 本計画による大阪附近の状況を示すと、まず現京都駅より東海道線に沿って南下、大山崎附近より東海道線と淀川の間を淀川沿いに南西進、三島郡鳥飼村を経て当区井高野町に入り、江口町より大道町に至り西転、上新庄・國
女神のレリーフは 左右対称ではないのですね。 私が「さよなら宇治電ビル」の記事を書いたのは2009年9月。 当時から解体の噂がありましたが、正式に発表されたのは今年に入ってからでした。 5月11日現在の状況です。 西側はフェンスで囲われ、正面にも足場が組まれている。 この数日が見納めですよ。 裏側もこんな状況。 これは東側です。 新しいビルは今年10月から着工して平成26年4月に完成予定です。地上13階、地下1階、塔屋2階。ビルの名称は仮称ですが宇治電ビルとなっています。 ビル正面の左右にあるレリーフは保存されると聞いています。 宇治電ビルディングは、関西電力の前身会社のひとつ宇治川電気の元本店ビルです。ですので、レリーフのモチーフも電力に関係するモノになっている。 建築のことはよくわかりませんがどのように設置しているのでしょうか。 タイル面の上からレリーフを取り付けている感じでもないんで
「牧神、音楽を楽しむの図」ふたたび 中之島フェスティバルタワーに牧神のレリーフが復活しましたね。 正確には「牧神、音楽を楽しむの図」といいます。 朝日新聞にも載っていました。 横から見ると結構立体感がある。 色も鮮やかなブルーです。 これらはあらたに製作されたものです。 以前のレリーフがどんなものだったか昔の写真を見てみましょうか。 タ~イムスリ~ップ! ジャン! こんな感じでしたね。 ライトアップの日。 レリーフを撮影している大阪好きの人らしき人物… この風景が、 今はこのような風景に変わっています。すごいなぁ。 以前のフェスティバルホールをちょっと見てみましょうか。 正面です。メタリック感たっぷりでしたね。 アルミとステンレスによる素材感がかっこよかった。 館内です。 赤い階段。 で、2009年に解体が始まりました。(※) 解体時、レリーフはどうなったかというと、(※) 部分的に壁ごと
さよなら旧ホテルプラザ こんな解体方法があったのか! 旧ホテルプラザの解体が進んでいます。 それも結構珍しい解体方法で… 最上部に設置されたクレーンから何か下りてきましたよ。 最上階部分から解体が始まっていているようですね。 そういえば少し高さが低くなっています。 この解体工法は竹中 HAT DOWN 工法というようです。 フェンスに何か書かれているようです。 ちょっと見に行ってみます。 環境にやさしい超高層建物解体技術 竹中 HAT DOWN 工法と書かれている。 要は上からどんどん解体する方法。 大阪タワーの時の「だるま落とし工法」と逆の発想ですね。 和訳すると帽子落とし? そんな遊びがあったような… それはハンカチ落としか… (バコッ) この工法では音やホコリが外に出ないように配慮されているみたい。 解体された廃材は建物の中に穴を開けてそこから下の下ろしているようです。ナイスアイデア
うめきた・梅北(梅田北ヤード)は 文教地区から貨物ヤードに、 そして、森へ。 大阪駅北地区(梅田北ヤード)の新名称が 「うめきた・梅北」に決まりましたね。 ところでこの地域に貨物ヤードが出来る前は どういう場所だったかご存知でしょうか。 また、平松市長は「早く親しんでもらえるように 住居表示の変更も考えたい」と話されていますが、 この土地の地名についても簡単にまとめておこうと思います。 1. 大阪駅が出来る前 大阪駅が開業したのは明治7年です。 当時は、辺り一面が田んぼで水路がいたる所に通っていて、 畑がポツポツ点在する田舎の風景が広がっていました。 その一角には 梅田墓 (梅田三昧)と言われる古い墓地もありました。 現在もコンテナヤードの一角に 掘り起こされた墓石を集めた場所があります。 2. 地名のこと (日文研より) これは明治36年の地図です。 この地域の大部分は北野村の字地で、
梅田北ヤード・工事現場の 微速度撮影動画 3月19日(土)20日(日)21日(祝)に 「大阪キタヤード・アートフェスティバル 2011 春祭 」という とても長いタイトルのイベントが「中津芸術文化村 ピエロハーバー」という これまたとても変わった空間で行われます。 私も参加するのですが、今回は微速度撮影動画を上映する予定です。 で、 今まで試行錯誤しながら作ってきた未熟な微速度撮影動画を 少しずつ見直しながら、現在微調整の作業を行っています。 その中からひとつだけ再アップしました。 以前にもアップしていた工事現場の作品ですが、 カット割りの編集をやめて80秒間の作品にまとめました。 人の動きが結構チャーミングなので、フルスクリーンで観ると面白いです。 で、問い合わせがちょこちょこある 微速度撮影動画の作り方を簡単に。 今回の撮影はインターバル撮影で1秒間隔でシャッターを切っています。 撮影
もうすぐ さよなら 大阪駅・ホーム屋根 大阪駅の大屋根ができてきましたね。 もう雨が降ってもホームで濡れることはありません。 噂では、各ホームの屋根の撤去が年明けから始まるそうです。 このホーム屋根がなくなっちゃうのって結構すごいことかも。 僕的には大屋根ができたことよりも大きな出来事です。 この鉄骨は古くていいですよね。 このぶつぶつがよろしい。これ、リベットといいます。 ところで、この鉄骨はいつからあるのでしょう? 「大阪駅の歴史」より 大阪駅が高架駅になったのは昭和9年(1934)です。 この写真は阪急と省線( 現JR )の上下がひっくり返る時の写真。 高架線だった阪急が地上線へ、地上線だった省線が高架線へ、 一晩で入れ替える工事がありました。 ホーム屋根の古い鉄骨はおそらくこの時のものだと思います。 (関連記事)「阪急梅田駅の歴史2 省線切替工事篇」 一部はすでに切断されています。
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