相対的貧困が現状の不幸を説明し遂せているとは、もちろん思っていない。 ・今の日本の貧困は相対的貧困でも体感貧困でもないんだよ - 狐の王国 前エントリでは非コミュ、非モテを取り上げて相対的貧困との構造的な相似を見い出そうとした。本当をいえば、相対的不幸という言葉に敷衍してしまおうかとも考えたのだけれど、あまりに具体性を欠くと思ってやめてしまった。そのことを少し書いてみる。その前に、最低限の前提を。不幸という言葉は幅を持ちすぎている。彼女に三行半を叩き付けられたとか、恋人が事故で死んでしまったとか、暴漢に襲われて半身不随になってしまったとかいうある種非日常的で直截な不幸は、ここではひとまずおいておく。扱うのは日常そのものが不幸だというケースである。 たとえば、孤独は不幸か。不幸だろうと思う。ところが、これには難しい問題がある。少なくともぼくには「孤独ではない人」というのがうまく定義できない。