最近世界史に登場する人名が次々と変化しているという。(世界一受けたい授業 3月3日) いったい、日本語はカタカナをどうしようというのだろうか。 人名という固有名詞、特に、なにかを特定するために使用している人名や固有名詞を、 日本の都合で勝手に変えているのは、どうなのだろうか? (全然問題ありません。芥川龍之介も芥川竜之介も、村上龍も村上竜も同一ですよね。) (その意味で、マホメットもムハンマドも、リンカーンも、リンカンも、ヘボンもヘップバーンも同じ、同じ。) そうそう、オサマビンラディンも、各新聞社ごと、バラバラでした。 ちょっと心配。 子供たちが、混乱する。 しません。しません。 問題は、辞典や新聞のデータベースの検索はどうするんだろう。 ウキペディアで、採用され方が勝ちかな。 でも、それでいんだろうか。 音楽図書館によると、チャイコフスキーという作曲家の表現方法は、世界中で77通りもあ
角川春樹自身の出生と戦い、そして復活を描く壮大なインディーズ映画(C) 2007 「蒼き狼 地果て海尽きるまで」製作委員会穿った読みをするまでもない。製作者自らチンギス・ハーンの生まれ変わりであると公言しているのだから、真の原作は自伝「わが闘争」に違いない。舞台がモンゴルであろうが、監督がいようがいまいが、これは紛れもなく角川春樹自身の出生と骨肉の争い、そして復活を描く壮大なインディーズ映画だ。集められた人馬の数は、劇中の戦いよりも製作者の威容を示すために機能する。 どんなスペクタクルよりも似ているものがある。それは、荒野における野生動物の生態を映し出したドキュメントだ。プライドを懸け、家族を守るために戦い、生き残るために殺す。宿命を背負い常に殺気立った反町隆史の雄叫びも、敵の子を孕んでも不機嫌なだけの菊川怜の表情も、観る者を寄せ付けない殺伐とした画面の羅列も、大自然における生殺与奪を切り
都知事選に出馬表明した浅野史郎・前宮城県知事は「市民派」として知られ、今回も市民団体主催の集会に出席したことがきっかけで、出馬を決意した形だ。しかし、応援団として名前を連ねているのは、「プロ活動家」風の人が多く、社民党の応援団と誤解されかねない顔ぶれだ。 浅野氏は2007年3月2日、東京都庁で正式に出馬を表明し、 「その(石原都政の)変革を必死になって願うメールや意見に接するうちに、誰かがこういった都政を変革するために立ち上がらなければならないと思うようになりました」 などと、市民の声をきっかけに出馬を決意したことを明らかにしている。 週刊誌は浅野氏を後押しした市民団体の「素性」を問題視 出馬にいたるまでの経緯を振り返ってみる。2月16日、浅野氏が出馬に否定的な見解を示す中、「政党からの出馬要請ではなく、市民からの要請なら受ける可能性があるのではないか」と、五十嵐敬喜・法政大教授が呼びかけ
ブログ パスワード認証 閲覧するには管理人が設定した パスワードの入力が必要です。 管理人からのメッセージ 公開を終了しました。 閲覧パスワード Copyright © since 1999 FC2 inc. All Rights Reserved.
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く