ブックマーク / nekozebito.hatenablog.com (9)

  • 「先生」 - 不適王の再建記                  

    私にとって、学生時代の先生(教師)は、クラスの担任を受け持っているというだけの人であり、近づきがたく、親しみにくい存在であった。 中学校に入ってからは、教科ごとに担当の先生も配属されているのだが、どいつもこいつも(あ、失礼)、まぁ人間なので個性もあるのだけれど、私にとっては間違いなく模範や尊敬の対象ではなかった。 率直に言うと言動が薄気味悪い先生もいた。 先生との思い出など何一つない。 特に、私が入った中学校では変人もいた。 私が適応できなかった野球部の顧問は2人いて、サブの役割であったおそらく定年間近の顧問は、頭のイカれた教師だった。 その小汚ない服装や見てくれだけでなく、生徒の髪の毛にライターで火をつけたりと、今の時代であれば内部告発からの炎上ものの大問題となるような事をしでかす顧問であった。 私にとっては、学校の先生なんて全く無価値の存在だった。 困ったときに助けを乞える存在ではなか

    「先生」 - 不適王の再建記                  
    mamu-petit
    mamu-petit 2023/03/01
    そぉなの (T T)? だとしたら、私はとても恵まれているんだわ、感謝しなくちゃ… (T T)☆
  • 残酷な遊び - 不適王の再建記                  

    mamu-petit
    mamu-petit 2023/02/14
    懐かしい…私の小学校では、男女関係なくやってました。セロテープで補強してる子はいなかったけど、みんな相手の面子にダイレクトにぶつけるやり方だったので、せっかくゲットしても傷が… (T T)
  • トモダチ - 不適王の再建記                    

    いつもありがとうございます。 ________________________________________ 私には「友だち」がいない。 なんて陰キャラなんだ、と思われるかもしれないが、私は陰キャラではないけれど、仮に陰キャラであったとしても全然悪いことではないし、その場合は堂々と陰キャラを宣言する。 そもそも陽キャラに憧れることもないし、なる必要もない。 私 不適王は、幼い時より成人してからも引っ越しが多かった。 地元と呼べる場所も幼なじみと呼べる人もいない。 学生時代は不適応からの暗黒期であったし、また人間不信に陥ったこともある。 職業生活に移行してからも職場では「友だち」なんぞという存在を作ったこともなく、作ろうと思ったこともない。 そもそも、「友だち」と呼べる人がいなくても全く困ってはいないという事実。 人生経験や変化を積み重ねると、度胸もついてきて、人ともうまく関われて、思いの

    トモダチ - 不適王の再建記                    
    mamu-petit
    mamu-petit 2023/01/20
    必要なときに必要なご縁の方と出会うので、いてもいなくても気にしなくていいと思います☆ でも、いると楽しいです♪ いつか不適王さんに、良いご縁のトモダチができるといいなぁと、勝手ながら思いました♪
  • 真の恐怖 - 不適王の再建記                    

    私は恐怖で足がすくんでいた。 住民が町の至る所の家屋の物陰に身を潜めて様子を伺っている。 警察も身をかがめながら対応している。 私も動かない体を必死に動かしながらも、物陰に隠れようとした。 何者かテロリストか誰なのか分からないが、謎の集団がライフルをぶっ放していて、所々で弾が弾ける音がする… これが私の2023年、初夢であった。 __________ もう何年も何年も、かなり前のこと。 こちらは現実の話だ。 私は15歳ぐらいの時に、父と弟と3人で、二十日ネズミが暮らしている某夢の国へ行ってみたことがある。 その某夢の国の道を歩いていたら、見たこともないマイナーのキャラクターを見つけたので、一緒に写真を撮ることにした。 私はそのキャラクターの横に立ち、弟と3人で父が撮る写真に収まろうとしたところ、そのキャラクターから顔に激しいエルボー(肘打ち)をらった。 かなりどぎついエルボーだった。 私

    真の恐怖 - 不適王の再建記                    
    mamu-petit
    mamu-petit 2023/01/04
    ゆるキャラからエルボー?! こわっ!それはトラウマになっちゃう… (T T)
  • 拝啓 中西太コーチ & BWファン - 不適王の再建記                    

    プロ野球 オリックス・ブルーウェーブが優勝した1995年の初夏。 オリックスファンであった当時10代の私は、関西に住んでいたため、大阪の今は無き藤井寺球場へ応援に駆けつけたことがある。 藤井寺球場には、室内練習場が併設されていた。 選手は球場から室内練習場に移動する際、チケット売場のすぐ横の球場出口から一度外に出る仕組みになっていた。 チケット売場辺りにいる私たちのそばを通るので、ファンは選手を至近距離で見れたのだ。 この日、室内練習場には選手がチラホラ出てきていた。 室内練習場は解放されているので中が丸見えだ。 いつも遠目にしか見れなかった選手が、目の前を通り、すぐそこで練習をしている。 現代の球場設備では、おそらくキャンプ地や2軍施設でないと考えられないことだろう。 そしてこの日、室内練習場前には、チームのグラウンドコートを着用した貫禄のある年輩の有名なコーチが、少し時間を持て余してい

    拝啓 中西太コーチ & BWファン - 不適王の再建記                    
    mamu-petit
    mamu-petit 2022/12/27
    中西コーチも、女性ファンの方も、親切で良かったですね♪
  • 極限の攻防 - 不適王の再建記                    

    【日頃ありがとうございます。お事中の方はご遠慮下さいませ。】 あの日の経緯はよく覚えていない。 急激にやって来たのか、 はたまた我慢していて間に合うと思ったのか、 そのあたりのことをよく覚えていない。 およそ30歳の時であった。 当時、4階建アパートの4階の角部屋に住んでいた。 そのアパートに帰宅するタイミングでのことだった。 私はお腹が緩んでいた。 猛烈な便意を催していた。 アパートまでの帰宅ルートの途中にコンビニが2軒あるので、なんとでもなったはずだ。 なぜコンビニに入らなかったのかは不明だ。 アパートの1階には公共のトイレなど無い。 エレベーターも無く、部屋がある4階までは階段を登らなければならなかった。 その長い長い階段を登っている時点で、1点集中の極限状態。 歯をいしばり、冷や汗をかきながら、呼吸も浅くなり、一歩一歩、4階を目指していたことは覚えている。 (うぅ…これはヤバい

    極限の攻防 - 不適王の再建記                    
    mamu-petit
    mamu-petit 2022/12/27
    あーごめんなさい、笑っちゃった… (^▽^) でもせめて外じゃなくて良かったですね!
  • ある夏の日の運勢 - 不適王の再建記                  

    私は幼い時から和式トイレというものに馴染みがなかった。 物心がついた時には洋式トイレを使用していた。 そのため、小学校3年生の夏の日、かなり久しぶりに祖父母が住んでいる山奥の田舎に帰ったときのこと。 和式トイレはどうやら使い勝手が悪かったみたいだ。 セミが鳴いていたであろう天気の良い素晴らしき夏の日だったことは、かすかに覚えている。 和式トイレには入らず、庭の芝生のど真ん中で、短パンをおろして用を足したのだった。 そして残念ながら、つけた運は幸運ではなく悪運の方だった。 私が短パンを下ろして排せつをしている まさにその場面を、うちに遊びに来るところであった近所の年上双子姉妹と同い年の女の子、計3人に、バッチリ見られてしまったのだ(>_<) なんというタイミングだろうか(>_<) 祖父母の家の芝生と外を区切るものは生け垣だ。 表門と生け垣の間に隙間があった。 そこから既に目視されていた。 あ

    ある夏の日の運勢 - 不適王の再建記                  
    mamu-petit
    mamu-petit 2022/12/24
    すみません、面白すぎて笑ってしまいました… そうですね、ここ30年くらいで随分と環境が変わりましたものね。トイレに限らず、馴染みのない物の使い方がわからないのは当然ですよね☆
  • 拝啓 藤井康雄選手 - 不適王の再建記                    

    mamu-petit
    mamu-petit 2022/12/24
    10代の若者が勇気を振り絞って声をかけたんでしょ?! まっすぐ応援している気持ち、きっと伝わってますよ、藤井選手を信じましょ (^_-)☆
  • 食 - 不適王の再建記                  

    世の中には知らないこともあるものだ。 小学生の時、あれは、S山君の自宅に泊まりに行かせてもらった時のことだった。 カレーべさせてもらった。 S山君宅では、カレーに生卵を入れてべていたのだ。 生卵?! 私の家庭でもカレーは頻繁にべていたが、生卵を入れるという文化は無かったので、かなりのカルチャーショックであった。 とても進んでいるというか、シャレたことをするんだな、自分は何も知らない…と思った記憶がある。 そして、同じく小学生時代。 同級生の誰かが、鮭のこと「シャケ」と呼んでいたこと。 シャケ? 「シャ」ケ? しゃけ…シャケ… 私は一度も聞いたことがなかった。 なんだその、こなれた呼び方は? 甘ったれてそうな、ちょっと生意気な、それでいて少し分かってるその感じ。 しかも旨そうに聞こえる。 これも文化におけるカルチャーショックであった。 ちなみに、私は今でも「サケ」である。 ただ単

    食 - 不適王の再建記                  
    mamu-petit
    mamu-petit 2022/12/14
    カレー生卵も、シャケも、チャンポンも、程よく身近なので、むちゃむちゃ笑ってしまいました (^▽^) 地方で食文化はずいぶん違いますものね。
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