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戦史に関するmaroon_lanceのブックマーク (3)

  • 靖國偕行文庫|靖國神社

    靖國会館一階にある靖國偕行文庫は、靖國神社御創立130年を記念して平成11年10月7日に開館しました。当文庫は、靖國神社に鎮まる英霊の戦歿された当時の調査資料を整備し、その御遺徳を顕彰するとともに、後世の研究に資することを目的とした図書館で、財団法人偕行社より建物と蔵書が奉納されたことから、この名が付けられています。 靖國偕行文庫には現在、靖國神社の蔵書を併せ約14万冊の図書資料が収蔵されています。神道関係の資料をはじめとして、蔵書の多くは戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日近代軍事史関係資料です。 当文庫内には、閲覧室が設けられており、どなたでもこれら図書資料を利用することができます。 詳しくは「ご利用案内」をご覧ください。 靖國偕行文庫からのお知らせ・開館日スケジュール

  • マニアックなブログ ‐日中戦争について語る‐: 中條山会戦(中原会戦)

    中條山会戦(日名中原会戦、百号作戦) 1941年山西省西南部、黄河の北にある中條山周辺で行われた会戦において衛立煌指揮下18万の中国軍 が10万の日軍に包囲せん滅され、日軍の統計によれば4万以上の戦死者と35000人の捕虜を出した。蒋介石が「抗日戦争中最大の屈辱だ」と述 べるなど、のちの大陸打通作戦に匹敵する惨敗でった。 日中戦争勃発後華北はほとんど日軍に蹂躙され、中條山付近は西南に西安、東南に洛陽を睨む要所 で黄河以北で唯一の中国側の拠点であった。1938年日軍が最初にこの地域に進攻した際、洛陽に第 一、第二戦区の指揮官を集めた蒋介石は「黄河を背に半歩も引くな。黄河を渡って逃げたら銃殺だ」 と死守を厳命している。 蒋は第一戦区司令長官に衛立煌を任命。山西省は太原会戦の際も書いたが、閻錫山の晋軍や共産党の 八路軍もおり混沌としていた。このことは中條山の防衛に悪影響をあたえていた。

  • 鋼棺戦史(第1部ノモンハン・第4章・中編) - 山猫文庫第3版

    4.フイ高地の死闘(承前) 7月10日、第23師団捜索隊に対する新たな任務として、ノモンハン北西に15km以上と大きく離れたフイ高地(721高地)の占領が命じられます(地図はこちら)。師団の翼端援護という騎兵らしい任務です。日軍は7月7日から歩兵夜襲を主力とした攻撃を実施中で、戦闘は峠を越えたと楽観視しており、捜索隊への命令は国境線確立のためのいわば「掃討戦」の一環でもあったと思われます。フイ高地は、7月初旬の渡河作戦に先立って、他の歩兵部隊によって一旦は占領されていましたが、渡河作戦中止のために放棄されていました。その後にモンゴル第6騎兵師団の一部がハルハ川を渡って再進出していたようです。 将軍廟付近にいた師団捜索隊は、井置中佐の指揮の下で全力出撃します。このときに撮影されたらしい写真があり、それが左掲のものです(注1)。95式軽戦車(北満型)1両と92式重装甲車3両が写っています。毎

    maroon_lance
    maroon_lance 2009/12/13
    毎日フォトバンク
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