中條山会戦(日本名中原会戦、百号作戦) 1941年山西省西南部、黄河の北にある中條山周辺で行われた会戦において衛立煌指揮下18万の中国軍 が10万の日本軍に包囲せん滅され、日本軍の統計によれば4万以上の戦死者と35000人の捕虜を出した。蒋介石が「抗日戦争中最大の屈辱だ」と述 べるなど、のちの大陸打通作戦に匹敵する惨敗でった。 日中戦争勃発後華北はほとんど日本軍に蹂躙され、中條山付近は西南に西安、東南に洛陽を睨む要所 で黄河以北で唯一の中国側の拠点であった。1938年日本軍が最初にこの地域に進攻した際、洛陽に第 一、第二戦区の指揮官を集めた蒋介石は「黄河を背に半歩も引くな。黄河を渡って逃げたら銃殺だ」 と死守を厳命している。 蒋は第一戦区司令長官に衛立煌を任命。山西省は太原会戦の際も書いたが、閻錫山の晋軍や共産党の 八路軍もおり混沌としていた。このことは中條山の防衛に悪影響をあたえていた。