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  • 今のアナウンサーは言えないことが増えている……元NHK・山本浩が振り返る日本代表とマラドーナ伝説 - ぐるなび みんなのごはん

    1985年10月26日、曇天の国立競技場で日ワールドカップ初出場をかけ、韓国と対戦することになった。チアホーンが鳴り響く中、アナウンサーはこう言って放送をスタートした。 「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」 1986年6月22日、ワールドカップメキシコ大会の準々決勝、アルゼンチン対イングランド戦、伝説のディエゴ・マラドーナ5人抜きを実況はこう伝えた。 「マラドナ、マラドーナ、マラドーナ! 来たー!! マラドーナー!!!」 山浩アナウンサーはその後も、ジョホールバルの歓喜、日が初めて出場したワールドカップなどを伝え続け、数々の名台詞を残した。その裏話と、そこに至るまでにどんな苦労があったのか、今の実況の難しさを聞いた。 プロ野球の実況がアナウンサーのステータスだった時代 変化の多い時代だったですね。たまたまといいますか。

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  • なぜ普段はしないミスを日本代表戦でしてしまったのだろう……突然の代表入りから5年、坂井達弥はいまも戦い続けている - ぐるなび みんなのごはん

    ちょっと想像してみてほしい 今、あなたのラインにメッセージが来る そこには「日本代表に選ばれた」と書いてる 試合は1週間後、相手はフルメンバーのウルグアイ 大卒2年目でチーム先発入りを狙っていた坂井達弥は 青天の霹靂(へきれき)に驚いた しかも試合では先発起用される ところが自分のミスで先制点を献上した その後、坂井は日本代表に呼ばれていない 急に来た幸運はすぐに走り去った だが今も坂井は戦い続けている サッカーにかける夢を忘れたわけではない 練習で自分がスタメンだと気づいたときの驚き 初めて日本代表に選ばれる直前のリーグ戦はアウェイの大宮vs鳥栖だったんです。久しぶりの試合で、自分ではそんなに悪くはなかったと思うんですけど、大宮FWのムルジャが結構強くて、僕がPK与えたりしたんです。 GKのアキくん(林彰洋)が頑張って止めて、いい感じで勝ったと思います。ただ、そんなに手ごたえがあったとは

    なぜ普段はしないミスを日本代表戦でしてしまったのだろう……突然の代表入りから5年、坂井達弥はいまも戦い続けている - ぐるなび みんなのごはん
  • 迷いっぱなしな私の人生ではあるが、それでも前には進めている(と思う)|寄稿・河相我聞(かあいがもん) - りっすん by イーアイデム

    文 河相我聞(かあいがもん) 10歳で子役デビューし、現在に至るまで芸能界で活躍する俳優・河相我聞(かあいがもん)さん。2人の子どもを持つ父親でもあります。芸能界で30年以上のキャリアを持つ河相さんは、これまでさまざまな「迷い」と「決断」を繰り返してきたそう。「迷い」と「決断」をテーマに、寄稿いただきました。 ***自分にとっては良い決断と思っても、人にとってはそれで良かったのか、と考えてしまうことはある。 ただ、自分が「経験していないこと」に対する迷いや決断は沢山あればあるほど良いと思う。 似たような経験ばかりでは、その範囲内での選択肢しか思いつかないし、ずっと同じようなことで悩むことになる。仮に人から自分に合ったアドバイスを受けてもそれに気がつかなかったりする。経験したことのないことへの決断を重ねていくと、直感的なことも磨かれるようになると思う。 そして、同じくらい自分の当の気持ちを

    迷いっぱなしな私の人生ではあるが、それでも前には進めている(と思う)|寄稿・河相我聞(かあいがもん) - りっすん by イーアイデム
  • 【土井敏之アナの転機】転職するか悩んだとき、決断を後押ししてくれた人物 - ライブドアニュース

    TBSサッカー実況の顔としてすっかり定着している土井敏之アナウンサーだが、実は大学卒業時に別の放送局に入社していた。将来が見え始めたとき、「転機」がすごいスピードで訪れたのだという。 何が起きてTBSに入ったのか、後押ししてくれたのは誰だったか、転職のときの失敗とは何か。そしてTBS入社2年目で巡ってきた日の命運がかかった試合、1998年フランスワールドカップ予選、ホームの日韓戦では何を見たのか。 自分の実況に対する視聴者からの厳しい声も届いているという。その声に対してどう思うのか。どんな気持ちで実況席に座っているのか。忌憚なく語ってもらった。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】 まさかあのチームがこんなに強くなるとは思わなかった 私、最初に入ったのがNHKなんですよ。最初の配属が佐賀支局でした。1994年入社で1995年までいました。 実は大学のアナウンサー研究会の一つ先

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  • 【佐々木則夫の転機】迷っている背中を押してくれた大病の妻 - ライブドアニュース

    2011年、日はFIFAの国際大会で初めて優勝を遂げた。なでしこジャパンがドイツワールドカップ決勝でアメリカをPK戦の末くだしたのだ。指揮官は佐々木則夫。2007年12月、監督に就任して4年で世界の頂点に立った。 高校時代は帝京高校のキャプテン。明治大学時代は、後に日本代表の10番を背負う木村和司と同期。だが大学を卒業するときはまだ日にプロサッカーは誕生しておらず、佐々木は社会人サッカーの道に進む。 そこではサッカー部存続の危機もあった。チーム作りに奔走する時期もあった。そして家族の病気で心を痛める日々も続いた。そんな大きな「転機」をいくつも乗り越えながら先に進んだ佐々木だからこそ、幸運が微笑んだのかもしれない。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】 「1シーズンだけサッカーをやらせてくれないか」 私は現役を33歳までやってたんですよ。大学を卒業して日電信電話公社に入社し

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  • 【松木安太郎の転機】初めは揶揄されていたテレビの仕事 - ライブドアニュース

    2019年5月5日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 松木安太郎氏がインタビューで、「大成しない選手」について語った 移籍した後に前のチームのことを忘れられないようでは大成しないという 「もう1回勝負しなきゃいけない」「そこでがんばんなきゃ」と述べた サッカー番組や情報番組のコメンテーターとして大人気のは、サッカーで数々の栄光を手にした。ラモス瑠偉など個性派の多かった読売クラブ(現東京ヴェルディ)でキャプテンを務め、日本代表にも選ばれた。監督になっても初年度、翌年と最初から栄冠を手にし続けた。 いつでも華やかな松木だが、実は苦労人でもある。高校時代には中高一貫校からサッカーのために転校しなければいけなくなった。監督を辞め、始めたテレビ仕事は朝の情報番組のコメンテーター。非難も浴びつつ分野の違う世界に挑戦しなければならなかった。 松木の激動の人生の中には何度も転機

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  • 【永島昭浩の転機】テレビもストライカーはゴールを取らなければならない - ライブドアニュース

    スポーツキャスターとして活躍している元日本代表のFW、永島昭浩は、生まれるのが早すぎた。高校を卒業して松下電器(現ガンバ大阪)でプレーを始めたころは、まだ日にプロリーグができる気配すらなかった。 それでもプロサッカー選手になりたいという気持ちは収まらず、永島は会社の協力者の尽力で、ついにオランダ留学を果たすことになる。結局プロにはなれなかったが、思い切って日を飛び出し勝負したことは永島にとって「転機」だった。 「転機」で学んだことは現役を終え、新たにメディアの仕事をしても役になっているそうだ。野心家が海外で学んできたことは何か。そして今、キャスターとストライカーの共通点をどこに見出しているのか。いつもの笑顔で語ってもらった。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平】 自分の日頃の行動を見ていた上司の応援でオランダへ 転機と言えば、日韓戦が絡んでるけどな私は小

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  • 【前園真聖の転機】訪れた栄光の「後」の日々 - ライブドアニュース

    2019年5月3日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 前園真聖氏は引退すると決めて、最初にサッカー教室を始めたという 解説者としての仕事もあったが、スケジュールが埋まらず一日中家にいる日も 現役時代のサイクルとの違いに、心が落ち着かない時期もあったそう 1992年、高校を卒業してJリーグの横浜フリューゲルスに入団するときからはスターだった。1994年元旦の天皇杯決勝には先発出場し、チームの栄冠に貢献する。1996年には日にとって28年ぶりとなる五輪にキャプテンとして出場し、ブラジルを破るという「マイアミの奇跡」を起こした。 だが念願のスペイン移籍が破談に終わってしまう。またドリブルで突っかけていくスタイルは、止められないと思った相手からの反則を招き、ケガを負わされることが相次いだ。 失意や痛みに耐えつつピッチに立ち続けたが、31歳のとき、ついにスパイクを脱ぐ決断

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  • 【木村和司の転機】日本の転機はあの試合 - ライブドアニュース

    2019年5月1日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと サッカー日本代表は1986年・W杯アジア最終予選で、韓国相手に連敗した 元代表の木村和司氏は「日サッカーの転換期はそこだもん」とコメント 日にもプロリーグがないとダメだという話になり、変化していったという 日ワールドカップ初出場を決めた1997年11月の12年前、日韓国ワールドカップ出場をかけて戦い、そして敗れた。当時、日の攻撃を指揮していたのは。大学時代から日本代表としてプレーし、正確なFK、意表をついたパス、ここぞというときのフィニッシュで10番を背負い、日サッカーの中心人物だった。 その後代表から遠ざかり、クラブでは突然引退する。監督としてのチーム復帰したが、失意のうちにクラブを去ることにもなった。そして2015年には脳梗塞で倒れ、誰よりも繊細だった黄金の右足は思うように動かなくなった

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  • 【中西哲生の転機】二度と縁起を担がなくなった理由 - ライブドアニュース

    2019年4月30日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 中西哲生氏が、1998年のJ1参入決定戦・1回戦が人生一の転機だったと語った 試合は2−1でリードしていたが、自身のミスで敗戦に繋がりチームはJ2に降格 言い訳を探していた自分を戒め、うまくいく方法を探す考えに切り替えたそう 今はテレビのコメンテーターとして活躍するが、現役プロサッカープレーヤーだった1998年、日で初めての試合がおこなわれた。負けると次年度からスタートするJ1リーグに参加できなくなるという試合だった。 中西の所属するは前半に先制したがすぐに追いつかれた。それでも後半追加点を挙げアディショナルタイムに突入する。そんなとき、相手のクロスが中西めがけて飛んできた。競り合う相手はいない。このボールを処理すれば、すぐにタイムアップになるはずだ——。 20年以上経っても、中西哲生はその試合のことが忘れ

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  • 【福西崇史の転機】悔やみつつ幸いだったと思う「移籍」 - ライブドアニュース

    2019年4月29日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと いくつかのクラブを渡り歩き、2008年に引退した福西崇史氏 「自分の選手寿命を縮めたのは『移籍』だったと思う」と語っている 最初のジュビロ磐田にずっといた方が現役生活は長く続いただろうと話した 1995年、ジュビロ磐田に入団したときのはFWだった。そこからボランチにコンバートされると才能が一気に開花。一気に日本代表にまで上り詰め、2002年日韓、2006年ドイツと2大会連続でワールドカップ出場も果たす。 福西は黄金期の磐田を象徴する選手だった。だが2007年以降、FC東京、東京Vと渡り歩き、2008年でプロ選手生活に終止符を打った。プロ生活最後の3年で福西には何が起きたのか。当時の移籍に今、何を思うのか。 いつも自信満々に見えた福西だったが、心の内は違ったという。日本代表に初招集されたフィリップ・トルシエ監督

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  • 27年間、J1リーグでぶつかり合う、伝統の一戦。The CLASSIC | 横浜F・マリノス 公式サイト

  • 【名良橋晃の転機】日本代表の「転機」の夜 - ライブドアニュース

    1997年11月、アジア第3代表決定戦でイランに勝利し、日は初めてワールドカップへの切符を手にした。だがそこまでは平坦な道ではなかった。予選では滑り出し順調に見えたが途中で失速、一時は他力願になる状況にも陥った。そしてそこから盛り返し、ついに悲願を達成した。 名良橋晃は、日が初出場したフランスワールドカップで右サイドの攻守を担った。名良橋にとって「転機」は何だったか。名良橋は大会のことではなく、予選途中のある夜について語った。 いつも笑顔で朗らかな名良橋が、その日のことを話すときは今でも沈痛な顔になる。だがそこまでの思い経験だったからこそ、その後につながったのだろう。あのときがなければ、日ワールドカップ出場はなかったのかもしれない。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】 あの夜がなかったらワールドカップ出場というのはなかった 自分にとっての転機、ワールドカップに向け

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  • 【城彰二の転機】フリューゲルスではなく、「ジェフに行く」と決断した運命の選択 - ライブドアニュース

    意外なことに、城彰二はずっと冷静だった。 選手は持ち上げられると天狗になって足下を振り返らず、いざ引退してから困ることになってもおかしくない。 Jリーグでの華々しいデビュー、1996年アトランタ五輪、さらに1998年フランスワールドカップへの出場と日の当たる場所を歩きつづけた彼ならば、そんな危険性は大いにあった。 ところがプロ入り前のチーム選びから引退後のことまで、常に前もってしっかりとしたイメージがあったのだ。 それぞれの「転機」で城は何を考えていたのか。 ヤンチャそうに見える姿とは裏腹の、鋭い目で己を見つめてきた彼の当の姿を聞いた。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平, (c)J.LEAGUE】 「プロ生活は1、2年で終わりだろう」 1994年に鹿児島実業高校を卒業するとき、一応プロからのオファーはたくさんいただきました。たぶん、4クラブからいただいた

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  • 【澤登正朗の転機】実は永遠のライバル・ジュビロ入りの可能性があった - ライブドアニュース

    1992年、澤登正朗は大学を卒業するとできたばかりのに入団し、2005年にユニフォームを脱ぐまで清水一筋でプレーを続けた。 は発足当時こそ移籍に対してマイナスの反応もあったが、時代が変わってそんな感情が薄れた後も澤登は別のクラブのユニフォームに袖を通すことはなかった。 そんな「一気」の澤登だが、実は清水に入らない可能性もあった。薄々周囲の期待を理解してはいたものの、まだ決断を下しかねていた時期もあったのだ。 ところがそんなとき、新聞を読むと知らないうちにレールが敷かれて発表されている。澤登はさすがに驚きを隠せなかったそうだ。 清水に入った後も、クラブの経営危機から他チームに移籍することも考えられた。年俸減に加え、熱心に誘ってきたクラブもあったという。それでも澤登は清水を離れることなく、クラブへの愛を貫いた。 「転機」にあって澤登は何を思ったのか。今、澤登は指導者として学生を育てながら何を

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  • 【ディエゴ・加藤・マラドーナの転機】SNSが芸人生命をつないだ - ライブドアニュース

    スタジアムに通う人なら、エキシビションマッチなどで現役時代のディエゴ・マラドーナを真似た芸人を見かけたことがあるかもしれない。もじゃもじゃヘア、ピチピチのパンツ、様々な誇張された仕草などがそっくりだ。 ところが、実際にプレーを見ると印象が変わる。大きな太もも、テクニックのある左足などから「ただ者ではない」とわかるはずだ。それもそのはず、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」はかつて帝京高校で「10番」をつけていた正真正銘の選手だった。 その「10番」にも挫折の日々があった。何が中学校時代の彼を救ったのか。そして芸人の道を一度は断念した彼が、どうして「ディエゴ・加藤・マラドーナ」として今も活動しているのか語ってもらった。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:Japan Staff Association】 クラブをクビになったときに救ってくれたのは 僕、中学で横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)

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  • まりびと | コラム | 木村 和司 | 横浜F・マリノス 公式サイト

    一枚の写真がある。 鹿島アントラーズ戦を盛り上げる企画「The CLASSIC」の一環で用意されたポストカード。F・マリノスの「10番」を引き継いだ天野純をバックに、25年前産声を上げたばかりのJリーグでキックを放つ木村和司の姿がモノクロで浮かび上がっている。 樽のような丸々としたぶっとい太腿は、はち切れんばかりだ。トランクスがやけに小さく見える。 60歳になったレジェンドは試作用のポストカードを手にした筆者の声を聞いたのか、つぶやくようにして言う。 「1日、何くらい蹴りよったかの。遊びで蹴って、シゲ(松永成立)を呼んで。200、300……。蹴っとったら、自然とそれくらいの数にはなるんよ」 口数の多くない剛健の人は、決して努力とは言わない。 蹴り込んだその「証」から、人々を魅了するキックは放たれた――。 38年前、日にまだプロサッカーがなかった頃。 明治大学在学中に日本代表でも活躍

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  • 【巻誠一郎の転機】たった一度だけ妻に相談したこと - ライブドアニュース

    2019年、元日本代表FWの巻誠一郎が引退を発表した。巻は2003年、ジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)に加入し、イビチャ・オシム監督の指導を受けた。活動量を要求する監督の方針に巻は合致し、土臭く走り続ける姿で台頭する。 その活躍ぶりに目を付けた日本代表ジーコ監督は巻を招集。さらに2006年ドイツワールドカップのメンバーにも巻を選出し、テクニシャン揃いのチームの中にあって一人だけ異色な存在となった。 だがワールドカップでは惨敗。主力が続々と流出するジェフに残留したものの、2009年にはJ2へと降格してしまう。2010年にはロシア、2011年には中国へと渡り、同年帰国して東京ヴェルディに加入。さらに2014年には故郷・ロアッソ熊に移籍した。 現役生活を振り返った巻が「転機」として思い出すのはどのときか。そして「転機」を支え続けたへの思いはどうなのか。巻はいつもどお

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  • 4月21日でゲームボーイが30周年! 世界で1億台以上を売り上げた偉大なゲーム機を振り返ってみよう

    4月21日でゲームボーイが30周年! 世界で1億台以上を売り上げた偉大なゲーム機を振り返ってみよう 編集部:鼬 2019年4月21日,初代ゲームボーイが発売から30周年を迎える。ゲームボーイは全世界で1億台以上も売り上げた伝説的な携帯ゲーム機で,ここから歴史が始まった現在の人気ゲームタイトルも数多くある。稿ではゲームボーイがどんなゲーム機だったかを振り返ってみたい。 30年前というと筆者はまだ生まれてすらいないのだが,物心ついた時の家にはゲームボーイが1台あって姉弟で取り合いながら遊んでいた記憶がある。そのゲームボーイを探してみても見つからなかったので,秋葉原へ行ったところ,かなり状態の良い初代ゲームボーイを箱付きで入手できた。やっぱり秋葉原は何でもあるなあ。 こちらが初代ゲームボーイ。このグレーの大きいパッケージが特徴で,「ハンディーゲームマシン」とも書かれている 最近のゲーム機では見

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  • 水沼貴史が見せたマリノス愛 最後の日産選手が抱いた葛藤と決断 - ライブドアニュース

    水沼貴史の表情は読みにくい。どんなに辛かった話をしても、いつも笑顔を浮かべているからだ。もしも経験したらとても笑えそうにない場面のこともニコニコしながらあっさりと語ってくる。 現役時代のプレー同様に飄々としている水沼だが、今回のインタビューの様子は少し違った。自身の引退につながった場面について語ったからではない。そこまでは冗談めかした口調で軽やかに語っていた。 表情が変わったのは、自分が引退と心に決めた試合に何をしたかについて話したときだった。水沼は最後に何をしようと思ったのか。それまでと同じように語りながら、瞳は少し濡れていたような気がする。 インタビュー・文/日蹴球合同会社・森雅史 写真/浦正弘 デザイン/桜庭侑紀 水沼貴史(みずぬま たかし) 元プロサッカー選手。1983年に日産自動車サッカー部(横浜マリノスの前身)に入部。木村和司氏らと日産の黄金期を築いた。個人タイトルとしてはア

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