カツカレーブームが英国で拡大 在英邦人がSNSで拡散も 日本食糧新聞1384英国でのカツカレーブームの拡大が続いている。日本食レストランはもちろん、日本食以外のレストランやスーパーマーケットでも販売され、2021年初めには英マクドナルドでもカツカレーナゲットが期間限定販売されるなど、カツカレーブームが収束する気配はない。
6枚切りかと思ったら5枚切りの食パンだった。 神よ。贅沢を許し給え。
チャンスは思いがけず早くやって来た 三都主アレサンドロが鈴木啓太の引退試合で日本に帰ってきたのだ うなぎが大好きな三都主と向かった先は約束していた老舗の「近三」 前回の記事ではSNSで異例の大きな反響があった。 そこで読者からの言及が多かった話題について アレックスにその内容を伝えコメントしてもらった r.gnavi.co.jp アレックスはメニューを見て「白焼き」を選んだ このシリーズの中でも一番しっかりとした 渾身のグルメレポートをアレックスにお願いしよう 日本に来てうなぎや刺し身が好きになった 蒲焼きは静岡も有名ですよね。掛川にもすごくおいしいウナギ屋さんがありました。エスパルスにいたころ、奥さんのご両親が来たときは掛川まで行って食べていたくらいでした。静岡で食べていたのは「うな重」でしたね。 浦和に行って、「白焼き」というメニューを見て、ちょっと食べてみようと思いました。カリカリと
現役を終えた後の安永聡太郎は 論理的な分析と明快な言葉でサッカーを語ってみせる だが現役時代はどうだったのだろうか 頭の回転は速かったが感情的でもあった 現役時代を振り返って 「面倒くさい選手」と自己分析する 今になってわかった自分の欠点は 若手に赤裸々に伝えている 豪放磊落、自由奔放に生きたように見える中で どんな後悔を持っているのか 現役生活の中で誇れる瞬間はいつだったのか 家族で行く飲食店とともに聞いた サッカーに対して純粋であり続けることができなかった 中学時代まで山口県にいて、そこから清水商業高校に行ったんです。ところが高校1年のときは1回も全国大会に出られなくて。世代的には、3年生に平野孝さんとか興津大三さんとかがいて、決して弱くなかったんですけど。 ただその前が、三浦文丈さんの代、藤田俊哉さんの代、名波浩さんと山田隆裕さんの代、望月重良さんの代と続いてて。 高校サッカーって、
2000年にプロデビューした佐藤寿人は 市原、C大阪、仙台、広島、名古屋、そして再び千葉と 多くのチームで印象的なゴールを残してきた 記憶に留まる得点だけではない J1通算ゴール数は歴代2位という高成績 いつも前線の頼れる選手になる だが日本代表に招集されても なかなかチャンスは巡ってこなかった 常に「ジョーカー」という立場でもあった そんな佐藤に苦しかったとき 日本代表での後悔 そして愛するものについて語ってもらった 「サッカー人生は終わったかな」と思った瞬間 僕は苦しいって思うことってあんまりないんですよ。辛いってケガとか病気のときとかには思いますけど。 ケガで1番辛かったのは、広島にいたときの2010年のヤマザキナビスコカップですかね。準々決勝で肩にケガして、決勝の前に復帰できたんですけど、決勝ではピッチに立てなくて。僕が広島に行ってから、まだリーグタイトルを獲ってない状況だったんで
この1年間で一番激動の人生を送ったのは誰か。 もしかしたら石井正忠監督かもしれない。 2016年12月はクラブワールドカップで準優勝に輝いていた。 だが2017年5月、鹿島の監督を解任されると 11月には残り3試合で大宮の監督に就任。 しかし2試合を戦ったところでJ2降格が決定した。 もっとも鹿島の監督に就任した2015年7月も トニーニョ・セレーゾ監督から急きょ引き継いだ座だった。 そこから2016年、チャンピオンシップを制して王者に輝いたのだ。 人当たりがよく常に落ち着いている監督だが キャリアはいつも荒波の中にある。 数カ月にわたる取材の中で自身を振り返ってもらった。 チーム状況が良くないときに監督をやる…これが自分に課された人生 大宮からオファーをいただいたのは本当に急でして、決断までにも時間がありませんでした。もしこれが、まったく関わったことのないチームだったら躊躇したかもしれな
ロックバンドのギターとボーカル 司会者やコメンテーターとしてのタレント活動 役者としても活躍している うじきつよしは影のないキャラクターとして広く活躍している そんなうじきだがワールドカップの時期になると周囲を困らせる パッと一人で現地まで出かけてしまうので マネジャーが大慌てするのだ 観戦歴も四半世紀を超えた 「昔ほど通っていない」というが 今もうじきの姿はしばしばスタジアムで目撃される 自分でチケットを買ってニコニコと座っている そんなうじきに日本代表を振り返ってもらった かつて「Jリーグ A GOGO!!」という番組があった 日本代表の試合を見始めたのは1993年からだから、そこからだと26年。当時はそのころサッカーを見始めた人を、新参者扱いというか、「お前たち、日本のサッカーのこと全然わかってないだろう」的な、そういう感じで扱うおっかない人がたくさんいたよね、まだね。 「何でお前が
いつも陽気で朗らかな岡野雅行は 明るく自分が苦しかった時期を振り返ってくれた。 自分のことを否定してきた言葉は忘れていないという。 誹謗をどうやって乗り切ったのか それは岡野らしい明るい発想だった。 考え方を少し変えるだけで人生は変わる。 鳥取で最初は誤解されていたという。 その場所に現役を終えた後 留まろうと思ったのはなぜだったのか。 ガイナーレを売り込むために 日々各地を飛び回っているそうだ。 現役のような日焼けがその活躍ぶりを物語っていた。 人生とは辛いときをどうクリアしていくかという作業 人生って辛いことが多いと思ってるんですよ。いいときってあんまりなくて。そして人生って、その辛いときをどうやってクリアしていくかという作業だと思うんです。だから僕はあまり何かを「辛い」とは思いたくなくて。楽に、全部前向きに思いたいなって。そして辛いときって「オレって鍛えられてるじゃないかな」と思いた
どれが一番辛かったのだろう。 2000年、アジアカップの決勝で途中出場したものの7分で交代させられた。 2002年、ワールドカップの前にはFWではなく右ウイングで起用される。 本大会では初戦で首を痛め第3戦で動けなくなった。 2006年、ワールドカップの前に右足を骨折する。 本大会ではクロアチア戦でゴールを外し、 その後の「急にボールが来たからビックリした」というコメントの一部が一人歩きした。 2007年、10年間在籍した鹿島を離れて京都へ移籍。 2011年、契約満了となった京都から仙台へと移る。 そして2014年シーズンを最後にユニフォームを脱いだ。 「オレが」という我の強いプレーよりも 味方のチャンスを増やすスタイルだった。 それゆえに誤解を生みやすく、謂れなき非難もあったに違いない。 もともとあまり饒舌なほうではない。 辛く見えた過去を寡黙なストライカーは、 じっくり考えながら丁寧に
石川直宏はこの連載をよく読んでくれていた。 「いつか引退したときは出てね。ずっと先に」 「そうですね。まだまだ先ですね」 そんな言葉を交わし合っていた。 選手にとって引退の日はいつか来るものだが そんなときはずっと来ないでほしいと思う ましてケガで引退を決意するなんて 本当に無念だったことだろう。 だが石川には引退を発表し 最後に試合に出ることまでに特別な思いがあった 最後のJ3ではCKから決勝点のアシストを決め 石川は勝って現役を終えた それは石川が見せたかった生き様そのものだった ケガとリハビリ……このままでは終われなかった この連載に登場することになったの、意外に早かったですね。2016年も引退を考えてて、結構切羽詰まってたんですけど。だけど、もう1年続けてプレーしてる姿を最後に見せないとというのがあったので。 2016年は覚悟を自分でもしてたし。そのときは自分がこのクラブにいてもい
2017年10月、ワールドカップを翌年に控え 調子を上げていた倉田秋は日本代表でも結果を出した 途中出場で代表初ゴール、続く試合でも得点 この好調ぶりが続けばロシア行きが近づくかと思われた だが同世代の香川真司や乾貴士が輝く中 倉田は選考から漏れてしまった 監督交代は倉田にどう影響したのか 自分に足りなかったものは何だと思っているのか 「あの、好感度上がるように書いてください」 そう笑いながら現れた人懐こい選手の 自分が感じているウィークポイントと 現在を作り上げた経験について聞いた 西野さんにふて腐れた態度を出してしまった プロになって3年目ぐらいは辛かったですね。1年目でちょっと試合に出てたけど、3年目になったら試合にも出られなくて。紅白戦にも出してもらえてなかったんですよ。「やんちゃ」じゃないですけど、態度には出しちゃってたんで。たぶん。ふて腐れるというか。 そういうのって、当時ガン
2003年、高校3年生でG大阪のトップチームに帯同 2004年、そのまま無事プロ選手として契約を結んだ ところが最初の3年間は1試合も出場できない 2007年には出場の場を求めてJ2の徳島に移籍する 2008年はJ1の大宮に移籍したがここでも出番に恵まれず 同じ年にJ2の福岡へと活躍の場を移した 2011年まで所属した福岡ではJ1昇格とJ2降格を味わい 2012年、J1のG大阪に復帰する ところが同年G大阪がJ2に降格 2013年は3度目となるJ2でプレーすることとなった そして2014年、J1に復帰するとともに三冠達成 2015年には日本代表に選ばれる 2017年と2018年はシーズン途中で広島とFC東京に移籍 丹羽大輝のサッカー人生は大きな変動を繰り返している 解任後のヴァイッド・ハリルホジッチ監督に会いに行った話とともに 激動の中で何を思ったか語ってもらった 苦しい経験が自分を強くす
いつも「みんなのごはん」をご覧いただきありがとうございます。 2013年2月に産声をあげ、約6年間運営をしてまいりました「みんなのごはん」ですが、諸事情により2019年6月27日をもちまして更新停止とさせていただくことになりました。 また、「みんなのごはん」と並行して運営してまいりました「ぐるなびWEBマガジン」に関しましても、「みんなのごはん」と統合したうえで、更新停止とさせていただきます。 読者登録をしていただいているユーザー様、ならびに常日頃ご愛読いただいている皆様方におかれましては、突然のご報告となったことを深くお詫び申し上げます。何卒ご理解のほどよろしくお願いいたします。 更新停止後も当面はサイトの記事はアクセス可能な状態を維持し、有益なグルメ情報アーカイブとしてユーザー様と飲食店様の出会いを創出することに貢献し続けます。 約6年間のメディア運営では、SNSなどでシェアされる読者
小学校から高校まで全国大会で優勝し、 法政大学ではキャプテンとして総理大臣杯に優勝。 その後、日産自動車、横浜マリノスで活躍する。 1979年ワールドユースでは日本の唯一のゴールを決め 日本代表としても印象深いゴールを決め続けた。 水沼貴史氏の経歴は栄光に満ちている。 飄々と輝かしい日々を語ってもらえるのか。 そんな予想とはまるで違った話が出てきた。 信じられない苦行と燃え尽きてしまった日々。 華々しく活躍する同期の選手を見ながら 唇をかんだ日々もあったそうだ。 そんなところからどう立ち直ったのか。 決してスパルタを肯定しているのではない。 だが水沼氏が激しい時代を過ごしながら 感じていた2つの本質は記録しておきたい。 練習が苦しかったユース代表時代 僕が過ごした一番辛い時期は、間違いなく、1979年、日本で開催されたワールドユースのときです。それしか出てこないです。日本代表選手になって、
現役時代の森岡隆三は研ぎ澄まされていた いつも気を張っていたというべきか 本来の人の良さは隠せないのだが それでもときには酷く素っ気なかった ところが今はまるで様子が違う すっと美しい言葉が溢れてくる それだけ選手時代は緊張し続けていたということだし それだけ自分の傷を隠してきていたということだろう キャプテンとして出場した2002年ワールドカップは 初戦で負傷しその後ピッチに戻ることはなかった それでもチームメイトたちを鼓舞し続け 個性の強いメンバーをまとめていた そんな森岡だったが日本代表に入ったときは 馴染めず疎外感があったようだ そんな森岡をチームに引き入れてくれたのは誰だったのか 今も森岡は忘れていないと言う。 フランス戦で5失点し「やり直さなきゃダメだ」 DFはボールを奪う。ゴールを守る。ゴールを守ることになったときは失点の確率を減らす。相手がどんなにいい状態でボールを持ったっ
ちょっと想像してみてほしい 今、あなたのラインにメッセージが来る そこには「日本代表に選ばれた」と書いてる 試合は1週間後、相手はフルメンバーのウルグアイ 大卒2年目でチーム先発入りを狙っていた坂井達弥は 青天の霹靂(へきれき)に驚いた しかも試合では先発起用される ところが自分のミスで先制点を献上した その後、坂井は日本代表に呼ばれていない 急に来た幸運はすぐに走り去った だが今も坂井は戦い続けている サッカーにかける夢を忘れたわけではない 練習で自分がスタメンだと気づいたときの驚き 初めて日本代表に選ばれる直前のリーグ戦はアウェイの大宮vs鳥栖だったんです。久しぶりの試合で、自分ではそんなに悪くはなかったと思うんですけど、大宮FWのムルジャが結構強くて、僕がPK与えたりしたんです。 GKのアキくん(林彰洋)が頑張って止めて、いい感じで勝ったと思います。ただ、そんなに手ごたえがあったとは
アルベルト・ザッケローニ監督に呼ばれ続けた ヨーロッパでは尊敬する監督の信頼もつかむことができた 細貝萌のサッカー人生は人の信頼を得続けてきた 実直なプレーぶりはそんな人柄を表している だがもちろん苦難のときが無かったわけではない 自分の願うポジションで勝負できなかったときも長い 監督が代わったことで悲哀も味わった ワールドカップには行くことができなかった 苦しい状況に陥ったとき 細貝は何を思って抜け出したのか 今でも言葉が詰まる一番辛い体験は何だったのか オススメの高級店とともに聞いた チームを陰で支えていくのが自分の役割 僕のことを「労を惜しまないタイプのプレーヤー」って言ってくれる人がいるんですけど、そこがやっぱり自分のストロングポイントだと思うし、そういった献身的で泥臭いプレーをやらないと自分じゃないのかなと思ってます。自分の調子がいいとき、うまくいってるときほど、そう思うことがで
現役時代は威圧的だった 松原良香の目はいつもギラギラしていた 話を聞こうと思っても 人を寄せ付けない空気を漂わせていた ところが現役を終えて久しぶりに会うと まるで別人ではないかと思うほど変わっていた 笑顔を絶やさず温厚で 話し方も朗らかになっていた 人がここまで変わるというのは それだけ大きな経験をしたからだろう 松原が恥ずかしそうに語った昔話と 変化した食事の風景を聞いた 出場して3分で退場、大学は2日で辞めた ホントにね、昔はツンケンしてて、バカやってました。タチが悪いんじゃないんですけど、やっぱり昔の「ワル」って感じだったですね。みなさんにホント、申し訳なかったです。でもサッカーはものすごく好きで、今でも大好きなんで、そこだけはあったんで。 東海大第一高校(現・東海大学付属静岡翔洋高校)のとき、高校サッカー選手権静岡県決勝の静岡学園高戦で、途中出場して3分で退場処分でしたし。蹴られ
土井敏之アナウンサーはこれまでいくつも試練を乗り越えた 北朝鮮からの放送では予想もしないことが起きた イエメンではハプニングでキックオフが遅れた そんな修羅場を土井は笑顔で乗り切ってきた 生放送のフリータイムのために自分で言葉を考える だが実況中にあえて話さないこともあったという 面白くなって選手の名前を言ったこともあったそうだ 様々なエピソードが次々に飛び出してくる そんな土井が大切にしていることは何か どんな「覚悟」を持って語っているのか バランスを気を付けながら話しているのはどんなことか お勧めのレストランとともに聞いた 平壌ではすべての行動が決められていた 過去の実況で大変だったとか苦しかったことって……あんまり苦しかったことはないけれど、2011年11月15日、ブラジルワールドカップのアジア3次予選、アウェイの朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)戦だけはやっぱり印象に残ってますね。
高校に入学してからサッカーを始めた 2年目には全国高校サッカー選手権大会に出た 3年目で偶然スカウトの目に止まり 4年目にはプロサッカー選手になっていた そんなシンデレラストーリーを歩んできた西部洋平だが 20年を超える現役生活で苦しいことは何度もあったという 今でも夢に見るという試合の話や 太公望が勧める寿司の店を聞いた 高校からサッカーを始め、気付いたらプロになっていた 2018年で現役生活20年を迎えました。この前、母親に電話したんですよ。「元気ですか?」って。そうしたら母親もしみじみ言ってましたもん。「よく続いたな」って。 そんなメンタルが強いわけでもないっていう僕の性格もよく知ってるから、そういうのも含めての想いなんでしょうね。自分でもビックリですもん。やれると思ってなかったんで。人に恵まれました。本当に。サッカーを始めてプロに入って、出会う人がみんないい人で。本当に周りの方に育
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