7世紀ごろまで、大和朝廷の支配が及ばない日本の北方に暮らす人々を蝦夷(えみし)と呼んでいました。渟足柵(ぬたりのき)はこうした蝦夷に備えた防衛施設であるとともに、都から遠く離れた地方を治める行政施設であったと考えられています。 このことは日本書紀に「大化三年(647年)渟足柵を造りて柵戸(きのへ)を置く」と記されており、歴史上、新潟に関する初めての記述とされていますが、このほかにその存在を示すものはなく、日本史上の大きな謎とされてきました。そんな中、平成2年(1990年)に長岡市の八幡林遺跡から「沼垂城」「養老」と記された木簡が見つかり、名前を変えながら養老年間(720年ごろ)に存在していたことを示唆する発見として、渟足柵の信ぴょう性が大きく増しました。 渟足柵の場所はいまだに分かっていませんが、元新潟市歴史博物館の小林昌二館長(新潟大学名誉教授)は、その研究成果から、現在の東区内にあたる