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ブックマーク / brighthelmer.hatenablog.com (37)

  • マスコミュニケーション論で語る「桃太郎」 - 擬似環境の向こう側

    今を遡ること数年前、「桃の鬼退治」が世間の注目を集めるという出来事があった。 以下は、一人のマスコミュニケーション研究者として、それを記録しておかねばならないという義務感によって書かれた文章である。ただし、多くの部分を知人からの伝聞情報に依拠していることを最初に明記しておかねばならない。現場の状況を知ることが難しい研究者としての限界である。 モラルパニックとしての「鬼の襲撃」 この出来事の発端を求めるならば、出来事そのものからさらに20年ほど遡らねばならない。当時、知名度の低いある週刊誌が「特集ワイド 桃から人が生まれた?寂れた山村で老夫婦が奇怪な証言」という記事を載せたことがあった。雑誌記事アーカイブで私も読んでみたが、川に流れてきた桃から男の子が生まれたというキワモノ系の記事でしかなく、当然、他のメディアに波及することはなかった。影響力の小さなメディアにこうした記事が載ったところで、メ

    マスコミュニケーション論で語る「桃太郎」 - 擬似環境の向こう側
  • 牛丼福祉論再訪 - 擬似環境の向こう側

    ちょうど去年のいまごろ「牛丼は福祉か」という話題が盛り上がったことがあった。そのきっかけになったのが、若手論客である古市憲寿さんが対談で語った次のような言葉だ。 【古市】なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華ランチを2人でべて1万円くらいかかっちゃう。一方、日は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる。 (出典)「ネット新時代は銀行不要」の現実味【2】 この発言には多くの批判が行われたわけだが、このエントリでも触れられているように、一般的な「福祉」という言葉のイメージと乖離している点を除け

    牛丼福祉論再訪 - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2016/08/18
    "日本で、公的な福祉制度が急激に拡充することを期待するのは難しい。となると、結局は「家族」ということになるんじゃなかろうか。”
  • 伊織とアスカ - 擬似環境の向こう側

    40歳をとう過ぎたオッサンがこんな話をブログに書くというのはいかがなものだろうか。そう悩みつつも書かずにはいられない。それが今回のエントリである。 『ココロコネクト』というアニメがある。原作はライトノベルでアニメは2012年7月から9月にかけて放送された。男子高校生2人、女子高校生3人をメンバーとする文化研究部なるグループが登場し、その唾棄すべきリア充的展開が数十年も前の不毛な高校時代をぼくに想起させるというトラウマ的作品である。いやまあ、面白いことは面白いのだが、ぼくのようなオッサンが熱く語る作品ではないと思う。 …という、どうでもいい感想は措くとして、先日、その14話から17話を見るという機会を得た。それは実に社会学的に解説してみたくなるエピソードなのだが、残念なことにその解説を聞いてくれる人がぼくの周囲にはいないし、授業でも取り上げづらい。そこで、いつものテーマとは大きくずれることは

    伊織とアスカ - 擬似環境の向こう側
  • 言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側

    ネット上ではやたらと攻撃的なひとが少なくない。 とにかく他者や他集団に対して攻撃的な書き込みをする。それも一つの芸風だと言ってしまえばそこまでだが、そういうひとは防御力が弱くなることも多い。 というのも、誰かを攻撃するためには何らかの理由が必要だからだ。「こんなに酷いことをする(言う)なんて」という理由によってひとは他者や他集団を攻撃する。だが、攻撃をする回数が増えるほどにその理由づけも増えていく。結果、自分自身の行動がそれに当てはまってしまう可能性がどんどん上がっていくのだ。そうなれば、自分自身の言葉がブーメランになって返ってくることもそれだけ多くなってしまう。言論戦において「攻撃は最大の防御なり」は必ずしも妥当しない。 もっとも、言動の一貫性など最初から気にせず、他人からそれを指摘されたとしても無視すればよいだけなのかもしれない。しかし、そういう人は他人からも「そういう人」だと見なされ

    言葉のブーメランが返ってくるとき - 擬似環境の向こう側
  • 大阪を蝕むシニシズム - 擬似環境の向こう側

    「既得権」をめぐる報道 時期を逸してしまったが、大阪都構想に関する話だ。 といっても、都構想の賛否について論じたいわけではない。その賛否に関する報道や文章にはそれなりに目を通しているものの、賛成や反対を明確に論じられるほどの知識があるわけではない。ぼくが生まれ育ったのは大阪市旭区だが、そこを離れてずいぶん経つし、大阪市の現状について詳しいわけでもない。 それよりも気になるのが、都構想にまつわる「語り」だ。その語りを見る限り、維新の会的なものは実質的な「勝利」を収めたのではないかと思う。 維新の会はこれまでしばしば既得権の破壊をその目標として掲げてきた。これは新自由主義的な方針を掲げる政党によく見られる特徴であり、さまざまな規制や制度によって守られてきた既得権を破壊し、競争を促進することで社会は効率化できるという発想がその土台にある。 実際、既得権の破壊を叫び始めたのは維新の会が初めてという

    大阪を蝕むシニシズム - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2015/05/23
    「政治家官僚は自分の利益のことしか考えていない」と見なすのが典型的なシニシズムであるが「高齢者や生活保護受給者が自分の既得権だけを考えて都構想に反対した」という主張もシニシズムの発露と考えてよいだろう
  • 二つの自己責任論(追記あり) - 擬似環境の向こう側

    では自動車に乗るさい、シートベルトの着用を義務づけられている。近年では後部座席に座るさいにも義務づけられるようになった。 考え方によっては、これは非常にお節介な話である。シートベルトをするかしないかというのは基的に個人の選択の問題であって、もし事故にあって自分の体が車から飛び出すようなことになっても、それは人が死ぬだけの話だ。だから、国があーだこーだ口を出すような問題ではない。これは「自己責任」の問題なのだから。 ケント・グリーンフィールドは著書『<選択>の神話』のなかで、このような自己責任の考え方とともに、もう一つの考え方を紹介している。 シートベルトの例を再び用いると、それをしないことによって害を被るのは決して人だけではない。車を飛び出した自分の体が誰か別の人にぶつかるかもしれない。あるいは車から体が飛び出す瞬間を目撃させることでたまたま周辺にいた人にトラウマを与えてしまうか

    二つの自己責任論(追記あり) - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2015/01/24
    エホバの証人の交通事故被害者、輸血すれば助かるのに、輸血しなければ、運転手が業務上過失傷害から過失致死へランクアップしてしまう(から輸血したわ)…というエントリを想い出した>分別的自己責任論と()
  • 領域侵犯のモラル - 擬似環境の向こう側

    著名な社会学者である大澤真幸さんの文章が、多くの人によって批判されている。 大澤さんがどれぐらい有名な社会学者かと言えば、人気アニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』でその言葉が登場人物に引用されるほどなのである。これを書きながら、ぼくの論文もいつかアニメで引用される日が来るのだろうかと一瞬だけ夢想したが、そもそも他の研究者からすらもほとんど引用してもらえないので、その夢はきっと叶わないだろう。 いきなり話が逸れた。 批判を浴びているのは、今度の選挙にまつわるこの文章である。このなかで大澤さんが日経済の現状について詳細に論じていることが、おもに経済学に強い人たちから厳しく非難されている。 この際だから、もう一言、付け加えておこう。ほとんどの論者が、増税は、消費意欲を低下させ、経済成長に対してマイナスだ、という趣旨のことを述べている。ほんとうなのか、私は疑問に思っている

    領域侵犯のモラル - 擬似環境の向こう側
  • 「階級小説」としてのハリー・ポッター - 擬似環境の向こう側

    小説映画もずっと前に完結したハリー・ポッターについて、なんで今さら書くのか。はっきり言って特に理由はない。あえて言えば、今日読んでた論文に“scrounger”という単語が出てきて、「ああ、これハリポタでも出てきたなあ」と思いだしたというのが最大の理由だ。 さて、エントリのタイトルの通り、ハリポタは階級小説である。階級小説というのは、要するに社会階級の存在を中心的なテーマとして描く作品で、イギリスに数多く存在すると言われる。日のマンガでも、金持ちのボンボンとメイドとの恋を描いた『エマ』は階級マンガと言えるのではあるまいか。そして、ご多分に漏れず、イギリスで生まれたハリポタという作品も階級小説として読むことができる(たぶん)。 というわけで、以下はネタバレ満載なので、これからハリポタを読もう(見よう)と思っている人は止めておいたほうが無難だし、そもそもハリポタに興味がないという人にとって

    「階級小説」としてのハリー・ポッター - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/11/17
    コミュニケーションの成就
  • 新聞記者とツイッター - 擬似環境の向こう側

    池上彰さんのコラムが『朝日新聞』にいったんは掲載を拒否されたことをめぐって、同紙の記者の多くが社の方針にツイッター上で反対を表明したことが話題を呼んだ。 ぼく自身はこの動きを好意的に見ていたのだが、批判も少なくない。やらせじゃないのか、自分の会社のことなのに他人事のようだといった批判から、ネット上で社員が会社の方針に反対を表明するなんて企業としてのガバナンスがなっていないというも見受けられる。 ここで考えたいのは、この最後の批判についてだ。たしかに社論の統一や企業ガバナンスを重視するなら、ネット上での記者による実名での意見表明を認めないという方向性もあるだろう。ツイッターが「バカ発見機」とも呼ばれることに示されるように、思わぬトラブルの原因になる可能性もある。実際、どことは言わないが、実名でのSNSの利用を記者に認めていないメディアもあるように思う。 しかし、様々なリスク要因があるとはいえ

    新聞記者とツイッター - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/09/06
    ジャーナリズム
  • 研究者にとっての運、または偶然の出会いについて - 擬似環境の向こう側

    佐々木倫子さんのマンガ『動物のお医者さん』には、菱沼さんという女性が登場する。 手元にないので記憶に頼って書くが、彼女は実用的な細菌を発見するのに長けており、発見が商品化されたこともあるのだという。そのために彼女をライバル視する大学院生もいるほどだ。だが、作中の説明によると発見した細菌が実用的かどうかは多分に運の問題なのだという。もちろん、運を発見に変えるためには、研究者としての実力が必要なのだとは思うけれども。 それに対して、人文社会科学はどうだろうか。史学系だと重要な史料を発見できるかどうかで運に関係しそうな部分もありそうだが、運があるかないかということはそれほど話題にならない気がする。運に関係なく、優れた研究者は優れていて、駄目な研究者はやっぱり駄目という感じではないだろうか。 実際、運ということに関して次のようなブログのエントリがある。 『朝日新聞』天声人語は、なんて偏差値が低いの

    研究者にとっての運、または偶然の出会いについて - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/05/22
    人文社会研究におけるセレンディピティ
  • 「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが電話回線を使ってネットに初めて接続したのは、いまからもう20年近く前の話だ。日でインターネットの商業利用が開始されてからまだ数年しか経っておらず、当時のぼくにとってネットはそれほど面白いものではなかった。 むしろ、ネットに接続するついでに加入したパソコン通信のほうがずっと楽しかった。若い人だと知らない人も多いかもしれない。ぼくが参加していたのはASAHIネットだったが、そこでは様々なフォーラムが用意されていて、関心のあるフォーラムに入れば見知らぬ人と特定のテーマで意見を交換することができた。画像のやり取りはできないので、完全に文字だけのコミュニケーションだ。 実にこっ恥ずかしいことをぼくもいろいろと書き込んだりしていたのだが、そこではどうしても参加者間の衝突が起きた。ASAHIネットでは実名でのやり取りが前提だったが、それでもかなり激しいやり取りが行われることがあった。最大規模を誇

    「話せばわかる」という欺瞞 - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/05/22
    「話せばわかる」ということが欺瞞であり、相手を壊すような議論を続けるための口実でしかなくなっているのなら、学ぶべき教訓は話し合ったところで理解できない相手との共存を図るすべを探したほうがよいということ
  • 分析概念の暴力 - 擬似環境の向こう側

    ぼくが嫌いな言葉の一つに「御用学者」がある。 言うまでもなく、震災後に急速に使われるようになった言葉だ。その意味は、電力会社から研究費を受け取っているがゆえに原発の安全性ばかりを言い立てる研究者ということになるだろう。 もっとも、実際の用途では、その研究者が当に電力会社から研究費を受け取っていたかどうかはさほど問題にならなかった。原発の話題がまだネットを騒がしていたころには、とにかく電力会社や原発に好意的だと見なされるような発言をしていれば「御用学者」だとカテゴライズされてしまっていたように思う。カネを受け取っていないのに、体制に好意的な人を指す言葉として「エア御用」なんてのもあったわけだが。 この手のカテゴライズが問題なのは、たとえ人がどれだけ悩み、考えた上での行動や発言であったとしても、それが全て御用学者というカテゴリーに還元されてしまうからだ。発言者としての主体性は完全に否定され

    分析概念の暴力 - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/05/16
    だが、ミソジニーやレイシズムといった概念を用いずとも、相手の主張のどこに問題があるかは指摘できるはずだ。対話を志向するのであれば、そうしたカテゴリーや分析概念を動員することはギリギリまで避けたほうがよ
  • 子どもを産まないというモラル - 擬似環境の向こう側

    <ずっと前に別のところに書いた文章に加筆、修正> 「だいじょうぶよ」というのが、その頃のの口癖だった。つづく言葉は、「なんとかなるって」。そう言って、いつも疲れてはいるけれど屈託のない笑みを浮かべるのだった。(中略) だが、いまのは、めったに「だいじょぶよ」とは言わない。「なんとなるって」が「なんとかするわ」に代わってから、もうずいぶんたつ。(中略) 「俺、7時半に帰ればいいよな」 「だいじょうぶ?」 「なんとかなる」 私もこんなふうに言っていたのだ、確か、昔は。 (出典)重松清『ナイフ』新潮文庫、p.302およびp.378 子どもを産まない理由として、しばしば挙げられるのが経済的要因だ。つまり、「子どもを育てるのにはお金がかかる」というものだ。 ここから、子どもを産まない人々のモラルの欠如を批判する声が噴出することがある。「今の恵まれた日社会で『お金がかかる』などとは理由にならない

    子どもを産まないというモラル - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/04/16
    士気
  • 努力の価値は - 擬似環境の向こう側

    励ましの言葉にはタイミングが大切だ。タイミングを逸した励ましは毒になる。 うつ病の人に「頑張れ」という励ましは禁句だと言われる。うつ病になるのは責任感が強い人が多く、そんな人に努力を促すことはかえって追い込んでしまうことになるからだという。 それとは少し違うが、奥さんの出産に立ち会った旦那さんが「頑張れ」と励ますのも良くないと聞く。鼻の穴からスイカを出すほどの苦しみにあえぐ奥さんからすればお気楽に「頑張れ」と言われても「もう頑張ってるわよ!」とムカつくだけなのだとか。 もう少し言えば、頑張りや努力といった発想は、いわゆる自己責任論との相性が非常に良い。自己責任論は、仕事を失ったり、生活が立ち行かなくなった人に対して「それはお前の努力が足りなかったからであり、社会のせいにしてはいけない」と説く。もちろん、当にそれが事実なこともあるだろうが、どう頑張っても個人では対処しきれないような問題です

    努力の価値は - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/03/31
    ノーベル努力賞
  • なぜ剽窃は起きるのか - brighthelmerの日記  2013-02-01

    (以前のツイートのサルベージ) 論文の剽窃というのは、研究者としてもっともやってはいけない行為だ。見つかれば職を失う。それにしても、なぜ剽窃などしてしまうのだろうか。普通の研究者であれば、剽窃にならない引用の仕方など習得しているはずだ。 ところで、論文を書くというのは、けっこう大変な作業である。そのわりに、僕みたいなへっぽこ研究者の場合、引用されることはまずないし、そもそも読者が存在するのかすら怪しい。実は編集者しか読んでいないのではないかとすら思う。若手のうちはそれでも頑張れるが、歳を重ねてくるとさすがに虚しさも感じる。 「自分が面白いと思っていることは、実は他人にとって面白いことではない」ということも痛感するようになる。一生懸命調べて、面白くなるように工夫をして書いても、反応は皆無。それが延々と続く。延々と、延々と。 そこで、ある考えが脳裏をよぎる。 「どうせ誰にも読まれないんだったら

    なぜ剽窃は起きるのか - brighthelmerの日記  2013-02-01
    maturi
    maturi 2014/03/12
    読まれない論文の大量生産という問題は確かにある
  • ユダヤ人差別とリップマンの間違い - 擬似環境の向こう側

    20世紀のアメリカを代表するジャーナリスト、ウォルター・リップマンはユダヤ系の出自だった。 だが、彼はアメリカのエスタブリッシュメントに加わることに力を注ぎ、自らがユダヤ系の生まれであることにこだわりは見せなかった。むろん、それは個人の生き方の選択なので、そのことで非難されるいわれはない。出自に関わらず、自己がどのように生きるべきかを選択する自由はあっていいとぼくは思う。 しかし、アメリカにおけるユダヤ人への差別について、リップマンの考え方には明らかな誤りがあった。このエントリでは、リップマンの間違いについて考えることで、差別の問題について改めて述べてみたい。 19世紀末から20世紀前半にかけて、東欧からのユダヤ移民が増えたこともあり、アメリカではユダヤ人に対する差別が社会全体で強まっていた。たとえば、ハーバード大学などの私立大学はユダヤ人の入学を制限する動きに出ている。 そうした状況のな

    ユダヤ人差別とリップマンの間違い - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2014/02/25
    同化して目立ちさえしなければ差別はなくなるというリップマンの見解は誤りだということだ。差別する側に動機があるなら、マイノリティへの攻撃はどこででも生じうる。  反ユダヤ主義が生まれる理由などほぼ皆無な
  • マスコミに騙される日本人? - 擬似環境の向こう側

    ロンドンで迎える初めてのクリスマス。だがあいにくの嵐で外出する気にもならない。というわけで、先日の「第三者効果」に関するツイートのまとめ(+加筆修正)だ。 第三者効果とは何か マスメディアの第三者効果仮説については以前から時々ツイートしていたし、このエントリでも書いたことがある。要するに、多くの人はマスメディアのメッセージは自分には影響しないと考える一方で、それが他人(第三者)に与える影響を過大評価する傾向にあるという仮説だ。 たとえば、Yahoo!のリアルタイム検索で「マスコミ 騙され 日人」で検索してみた結果がこれだ(アイコンおよびアカウント名は消去)。 これらのツイートを見ると、「マスコミに騙されている日人」と「騙されていない自分」という構図はそれなりに浸透していることがうかがえる。 第三者効果という概念を提起したのは、W. P. Davisonだが、その論文の冒頭で興味深いエピ

    マスコミに騙される日本人? - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2013/12/29
    第三者効果 ”ドイツ軍の飛行士に投降を促すものであると見せかけつつ、実はそうではなかった。むしろ、ドイツ軍の首脳部に自軍の飛行士に対する猜疑心を植えつけ、ドイツ軍内部での相互監視の強化によって士気が低
  • 物語は人を追い詰めるのか - 擬似環境の向こう側

    『おおかみこどもの雨と雪』をめぐって いきなりで恐縮なのだが、『おおかみこどもの雨と雪』の話だ。何でも12月20日に日テレで放送されるらしい。 この映画が劇場で上映されたさい、以下のブログのエントリが話題になったことがあった。コメント欄を見ても、微妙に炎上している感がある。 映画『おおかみこどもの雨と雪』の母性信仰/子育ては1人では出来ません - デマこいてんじゃねえ! 上のエントリで述べられている主張を一言で言えば、『おおかみこども…』は「母性信仰」が強すぎるということになるだろう。つまり、子育てにまつわる多大な困難が主人公の「母性」によって乗り越えられてしまう、というわけだ。 以下はネタバレだが、主人公の女性は狼男の血を引くこども二人をたった一人で育てることになる。ただでさえ辛いシングルマザーなのに、彼女の子どもたちは人間と狼の中間的存在であり、病院にさえ連れて行くことができない。予防

    物語は人を追い詰めるのか - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2013/12/02
    物語というのは、そもそも「自己責任論」と親和性が強い。主人公の成功や失敗は彼または彼女の意志次第だとされるがゆえに、その背後にある様々な問題がどうしても見えづらくなるからだ。実際、ニュース番組でも物語
  • 何がリフレ政策を実現したのか - 擬似環境の向こう側

    日銀をめぐるネット論争 ネットではかなり前から「リフレ政策」の是非が語られ、時として論争が発生してきた。なかでも、ぼくにとって印象深いのが、匿名官僚ブロガーであったbewaadさんという人の主張をめぐって2010年ごろに起きた論争だ。 bewaadさんのブログには頷けるところが多く、ぼくもよく勉强させてもらっていた。ところが、このbewaadさんがリフレ派の一部から「裏切り者」として批判されるようになった。 この論争の論点は多岐にわたるし、経済学素人のぼくには手に負えないものが多い。ただ、それらの論点の一つは「なぜ日銀は世界標準の経済理論を採用しないのか」というものだった。 この問題について、リフレ派の一部は日銀による言論統制を挙げ、そのなかのさらに一部は陰謀論へと傾いていった。給料が安定している日銀職員にとっては(日経済全体を犠牲にしても)デフレによる物価下落は好ましいというものや、親

    何がリフレ政策を実現したのか - 擬似環境の向こう側
  • ハーフ・アフェー・デイ - 擬似環境の向こう側

    今日、イギリスでのぼくの受け入れ先の大学に行ってきた。ハーフ・アフェー・デーなる教員の会合があるというので、顔を出そうと思ったのだ。 「受け入れ先」と言っても、完全に放置されている状態なので、他の教員と顔を合わせるのは実質的に今日が初めてである。イギリスに来て半年以上経ったのだが…。 ともあれ、昼過ぎから始まった会合はランチから始まった。諸々の事情で知り合いが全くいない状況でいきなり大人数のランチ。ハーフ・アフェーどころか完全にアウェーであることは否めない。しかも、当たり前だが会話はすべて英語だ。怒涛のごとくに疎外感が襲う。 とりあえず、運悪くぼくの隣に座ってしまった人と多少の会話を交わす。だが、分野がまったく違うので、共通の会話が見つけられない。正面に座った人はどうやらぼくの関心のあるテーマをやっているようだ。そこで名前を聞いてみる。 すると、その正面に座っている彼がぼくの受け入れを承認

    ハーフ・アフェー・デイ - 擬似環境の向こう側
    maturi
    maturi 2013/11/17
    UKの大学でのミーティングの様子  興味深い  象徴する一単語をモノ(カード?)に書いてそれを媒介にディスカッション