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ブックマーク / disjunctive.hatenablog.com (11)

  • 離断なき絆 『君が生きた証』 - 仮文芸

    劇中の人物の行動に不審がある。これが合理化されるのは受け手にとってたいへんなよろこびだ。しかし事情が明らかになっても、受け手がそれまでに不審を覚え続けたという事実と経験は変わらない。すでに過ぎ去ったことなので、取り返しのつきようがない。しがって、われわれがキャラクターの行動に不信を感じ続けているまさにその時間において、かかるストレスを緩和する措置が並走せねばならない。 作における受け手の不審とは何か。ビリー・クラダップのバンドはビリー息子の書いた曲でのし上がる。ビリーは曲の出自をメンバーに明かさない。息子は銃乱射事件で落命している。ビリーはなぜその開示を拒むのか。バンド活動を通じて息子の喪失から立ち直るビリーとバンドがのし上がる過程の享楽がこの不審を紛らわす。それが前半の構造である。 中盤に入ると作曲者の開示を拒む理由が明らかになってわれわれはたまげる。しかしその驚きの性質が問題なのであ

    離断なき絆 『君が生きた証』 - 仮文芸
    maturi
    maturi 2022/05/15
     ミスリーディングの質
  • 好きが届く奇跡の場所 『君の名は。』 - 仮文芸

    その男にとってあの女はどれほど希少な存在なのか。あるいはその女はあの男のどこに惹かれたのか。劇中にあって恋愛感情を誘発して然るべき個人の属性は、たとえば長澤まさみに関していえば記号的といえるほど露骨に設定されている。クレーマーをあしらう長澤を見て、わたしたちは彼女にたやすく好意を抱くことができる。ところが肝心の主人公ふたりにはかかる属性が見受けられない。あまりにも何もないから、このふたりの間に恋愛という状況が生じることを語り手が忌諱しているようにすら見える。恋愛感情にこだわらないこの姿勢はシナリオによい効果を与えていない。女を救いたい男の切実さが伝わりにくい。事がただの人命救助になりかねない。それだったら彼である必然性がない。 恋愛感情の未成立は視点配分の緩やかさに負うところが大きい。物語はふたりの視点を往来し、両者の感情をモニターし続ける。これでは恋愛に切実さが生じない。恋は相手の意図が

    好きが届く奇跡の場所 『君の名は。』 - 仮文芸
  • 秒速人間宣言 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸

    明里を無意識の偽善者と解すべきなのか。「桜花抄」の明里は「タカキ君なら大丈夫」と別れ際に請け負う。ところが、「秒速5センチメートル」ではこれが根拠のない安請負だったことが明らかになる。てめえのせいでタカキ君はおかしくなってしまったのだ。 「秒速5センチメートル」は決してタカキ君の内面に閉塞した話ではなく、わずかなカットが明里の主観にも寄り添っている。キャラの神格化にはその内面の閉鎖が基になるから、一見したところ、明里を聖化する意味において、「秒速」は徹底されていない。 ただ、内面へのアプローチが試みられながらも、タカキ君=シンカイの描くその明里には『(500)日のサマー』を思わせるような拒絶感がある。けっきょくサマーがわからないように、タカキ君には、岩舟駅の一晩を距離感のある微笑を伴って回想する明里がわからない。 この不可解さにはすでに悪意が含まれると思う。明里を半ば意図のわからぬ怪物と

    秒速人間宣言 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸
    maturi
    maturi 2022/05/15
    △われわれと同じものを見ているからだろう。 〇わたし(筆者)と同じものを見ているからだろう。
  • 『タクシー運転手 約束は海を越えて』 - 仮文芸

    悲酸を盛り上げるための準備動作としてソン・ガンホのテンションを不自然にする作の実利的態度は、タクシーのカーチェイスで極限に達してお笑いに接近する。公安のコワいオッサンの叙述も純ジャンルムービーそのものの通俗さで、作品に対してとるべき態度を受け手に見失わせる。ソン・ガンホの性格は多様化する物語の構成原理に引きずられ分裂して、オートマティズムが濃厚になる。取材に同伴して屋上に登った彼は、眼下の酸鼻に目もくれず握り飯の摂に勤しむのである。 ガンホの摂は、人格喪失の指標として働くことで感傷を導出しながら、同時に、彼を三人称化するからこそ内面がそこに誕生するという操作も行っている。その三人称と一人称の端境期が中盤に訪れる。一端は現場から離脱したガンホが平穏な日常に取り囲まれる。彼の失われた属人性は、悲酸を認知するようなしないような、たゆたうような気分に至り、ククスの摂を試みるとついに内破する

    『タクシー運転手 約束は海を越えて』 - 仮文芸
  • 未練と馴れ合う - 仮文芸

    『トト・ザ・ヒーロー』は『秒速』の構成や演出に大きな影響を与えたと考えられるが、同時に秒速を『トト』の結末に対する返歌だと見なすこともできる。 両作ともモチーフは男の未練であり、別れた女に呪縛された男が彷徨を重ねる。『トト』のラストパートはミュージックビデオの体裁であり、男は機上から散骨されその未練が空中を飛び交う。 トトには秒速の踏切の原形も出てくる。 横切る列車の向こうにヒロインが見え隠れる。ヒロインは他の男と談笑している。主人公は気が気でならないのだが、列車が過ぎると女の姿は消えている。 秒速の踏切は、これに『Papa told me』第11巻の、信吉と千草が邂逅する場面を援用して成立したと考えられる。『PTM』の影響はたとえば冒頭のマックの場面にも窺えるからだ。 新海誠がいつトトを見たのかわからない。篠原美香との破局の後に見たとすれば、トトは新海誠をどれほど恐慌させたか想像に難くな

    未練と馴れ合う - 仮文芸
    maturi
    maturi 2022/05/15
     庵野兄と新海兄
  • 告別の旅 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸

    秒速には『トト・ザ・ヒーロー』の影響が認められると指摘した。その際、篠原美香との破局の後に新海誠をアレを見たとなると相当効くものがあろうと空想したが、先日、久しぶりに『ほしのこえ』を見返したらトトから引用したと思われるモチーフがすでに登場していた。目前を通過する列車の向こうにヒロインが見え隠れる。列車が去ると姿が消えている。これがすでに『ほしのこえ』に登場してる。秒速の踏切は再引用して発展させたのものだった。影響があったとすれば、『ほしのこえ』の時点で見ていたのだ。 再引用という点では、怪作『星を追う子ども』も同様で、これは秒速の「桜花抄」からの引用だと解せる。『子ども』はさよならを言うための旅であったが、「桜花抄」でも明里にさようならを言うためにタカキが短い旅をする。 ところが『子ども』に比べるとずっとアイロニカルで、これがなかなか手ごわいのである。 明里もタカキもそれぞれ手紙を認めてい

    告別の旅 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸
  • 三人称に到達する - 仮文芸

    映画で視点にしたい人物がいれば排他的に彼をフレームの中に入れればいい*1。ダイアローグで台詞を受けている人物のバストになれば、われわれは台詞を受け止める彼の心象に否応なく引き込まれるだろう。では、対峙する二人が平等に画面を分かつとなるとなれば、誰の心象を示すことになるのか。上手下手の問題は措くとして、それは三人称であり二人の感傷が総合された何事かを受け手は体験することになるだろう。映画には空間的に事態を把握できる利点があり、複数の人物の感傷をパラレルに捕捉できるのである。他方でテクストでこの効果を出すにはどうすればよいか。シリアルでしか事態を追えないテクストで複数人の感傷をパラレルに把握する方法はあるのか。 『秒速』の One more time, One more chance には文法の禁忌を冒している箇所がある*2。この歌の詩は明確にタカキの心象を焦点化している。そこに花苗の心象も潜

    三人称に到達する - 仮文芸
    maturi
    maturi 2022/05/15
    踏切が二人を見ていた。つまり無生物に視点を担わせることで二人の感傷が混在した何かに受け手は立ち会うのであり、結果的にわれわれは明里の感傷に到達することになる。
  • 明里のジレンマと作家の誕生 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸

    大雪の岩舟で待ち続けたことで明里には造形上のジレンマが誕生した、と見てよい。惨劇は、タカキ君が明里の真意を誤解して始まったのだが、その思い込みに咎を負わせるのは酷なのである。待ち続けた彼女に好意を確信するのは自然であって、タカキ君にそう思わせてしまった明里にむしろ事態の責任があるのではないか。 基的は構図は『男はつらいよ 望郷篇』(1970)とかわらない。寅は例のごとくマドンナを誤解する。自分に好意があると確信してしまう。しかし望郷篇では誤解した寅よりも誤解させたマドンナに非難が向けられた。源公までも好意を確信して真顔で寅を祝福するのだ。寅の思い込みではない。好意は第三者によって客観化され確証されている。 後年『男はつらいよ』は、思わせぶりでマドンナ問題と正面から取り組むことになるが、この時期ではマドンナはただの残虐なヒロインに終始している。 秒速の明里も同様の課題を負う。タカキ君に未練

    明里のジレンマと作家の誕生 『秒速5センチメートル』 - 仮文芸
    maturi
    maturi 2022/05/15
    新海監督の自己愛について述べた『星を追う子供』評があった|『男はつらいよ』『秒速5センチメートル』異同|”降雪によって「明里が待っている」が正反対の意味を持ち始める。雪がふたりの同意を覆したのである”
  • おたく的想像力の自叙伝 『シン・ゴジラ』 - 仮文芸

    第1形態の出現から最初の上陸に至る場面の、会議室映画あるいは管制室映画としての精密さは、文明批評を可能にするほど卓越している。これらの場面では想定外という言葉が頻用されるが、自然災害のアナロジーとして事態が把握されている限りでは想定内にとどまるものであって、だからこそ画面の情報量は膨大になる。自然災害に比し得るのなら既存の対応手順を参照することができる。現実に勝る情報量はない。 上陸した第1形態の全容は衝撃というほかはない。緻密な編とそれを揶揄するかのように着ぐるみ然とした間抜けな造形の対比は、かかるマンガ怪獣相手に脂汗をかく大人たちの挙動を風刺する。大杉漣のあんまりな性格造形は、橋行革以降の強い官邸や総理像からすると違和感を覚えるのだが、戯画化されることで主題は明確になっている。 組織過程を描画する情報量は事態を風刺に止めない。カオスを組織化するというまた別の文明批評が提示される。手

    おたく的想像力の自叙伝 『シン・ゴジラ』 - 仮文芸
  • 秒速五十三光年 宇宙をかけるスペルマ 『言の葉の庭』 - 仮文芸

    作者が自分を投影する主人公に、ヒロインが「やさしくしないで」とすがりついてくる。女に与えた自分の感化にナルシシズムの喜びを認め、作者は打ち震える。恋にのぼせ上がるヒロインの視点は、自分の男前を上げてナルシシズムを煽るための作者のズリネタである。 この手の自己陶酔は誰にでもあるだろう。しかし、わたしたちは、ナルシシズムを病的なものだと捉えるよう躾けられている。わたしたちの自意識は自分を愛したいと願うが、同時に自分を病的に見られたくないとも欲する。病的に見られては、自己愛が達成できない。したがって、自意識は、自己愛の発露とともに、これが病的なふるまいであると自覚していることを外にアピールせねばならない。そうすることで、精神の平衡を保たねばならない。 そこには創作という活動の矛盾がある。自意識という内省的な活動がなければ、物は語れない。他方、外聞を気にする自意識はわたしたちの欲望を監察し、規制し

    秒速五十三光年 宇宙をかけるスペルマ 『言の葉の庭』 - 仮文芸
    maturi
    maturi 2013/08/23
    創作の営みを自意識ではなく形式に外部委託することで、自意識の真空地帯が物語を成立させてしまう奇観が出現するのだ。
  • 埼京線に雪が降る 「桜花抄」『秒速5センチメートル』 - 仮文芸

    童貞的な形質にとって、女の好意の符丁は永遠の謎である。岩舟駅の待合室で、来られるかどうか定かではない男を、あの女は待ち続けていた。愛を誤信した男は、南の孤島で妄想を膨らませた挙句、廃人となってしまう。男を待ち続けたあの愛の強度とは何だったのか。語り手の自己愛の投影でしかない女には自律的な内面がない。女は、その天然ゆえの惰性で、永遠にわれわれをあの待合室で待ち続けるのだ。男に報復をするために。 +++ その女がどれほどかけがえないか、男がわかっているだけでは足りなくて、どんな点でかけがえがないのか、受け手にも実感が生じなければ話に乗れなくなるだろう。たとえば、『リクルート』のコリン・ファレルとブリジット・モイナハン。 コリンがブリジットに首っ丈なことは理解できる。しかし、なぜ首っ丈になったのか、これがよく伝わらない。語り手は、首っ丈をスリラーを醸す手段に過ぎないと割り切っていて、ただ男が発情

    埼京線に雪が降る 「桜花抄」『秒速5センチメートル』 - 仮文芸
    maturi
    maturi 2013/02/05
    ↓・・・  湘南新宿ラインが雪で止まる予定
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