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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (74)

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●昨日につづいて、もう一度『ブレードランナー 2049』を観た。話はもうわかっているので、一つ一つの場面や細部をじっくり味わうようにして。そして、一度目に観たときよりもさらに好きになった。 この映画もユニークなところに、この映画自身が、自分は決してオリジナルではあり得ない(続編である)ということを自ら積極的に示し、それを肯定しようとしているところがある。 この話は、アイデンティティを奪われるという話でもあり、「アイデンティティを奪われる」ということを承認するという話であると思われる。そして、その承認は、半ば、絶望から諦めへの移行としてあり、そして残りの半分は、その諦めがわずかな希望へとつながっているという形での「承認」といえると思う。映画のなかに「解放」のための「大義のための死」という言葉が出てくるが、すくなくとも主人公のKにとっての「承認(辛うじての肯定・希望)」は、「大義」という言葉か

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    maturi
    maturi 2022/12/02
    ブレードランナー AI
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    ●『夜は短し歩けよ乙女』(湯浅政明)をDVDで観た。パクチーが苦手な人がパクチーをべられない、というのと似たような意味で、ぼくは湯浅政明の作品が苦手だ(パクチーは苦手じゃないけど)。キャラの造形や動かし方から、色彩の感覚、演出上の誇張やデフォルメの仕方、あるいはそもそも作品の傾向など、そのどれもを受け入れ難いと感じて、引いてしまう。 ただ、人が「生理的に受けつけない」という時の生理的感覚は、けっこう相対的で可変的だと思っている。子供の頃は、カリフラワーやタケノコが苦手だったが、今では美味しくべることができる。そもそも、ぼくはアニメが嫌いだった。「萌え絵」や「声優的発声」を気持ち悪いとさえ感じていた。それが、「ウテナ」に出会って認識が変わり、認識が変わることで、アニメ的な表現の面白さが少しずつ分かってくるようになった。 (「惚れた相手」によって「好みのタイプ」が変わることもよくあることだ

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    maturi
    maturi 2022/11/03
    苦手/受け付けない作家
  • 2020-09-26 - 偽日記@はてなブログ

    ●『予兆 散歩する侵略者』について、高橋洋が書いた脚の第一稿と、出来上がった映画との違いから、高橋洋が、黒沢清の演出について語っている動画があった(『予兆 散歩する侵略者』は、ここ十年くらいの黒沢清の映画では特に好きな作品だ)。とても面白い。脚に書き込まれた複雑な含みを、わかりやすさ、シンプルさを優先させて、黒沢清はどんどん切り捨てていく、と。おそらく黒沢清は、映画では物語はシンプルであればあるほど、物語とは別の、映画として魅力的である多くの要素を含みやすくなると考えているのではないか。 (これが必ずしも黒沢演出のいつもの傾向だというのではなく、この規模のパジェットで、こういう方向をもつこの作品にかんしては、この作戦でいく、という部分が大きいのだろうと思うけど。) 【鍋講座vol.37】続・インディペンデント映画の脚ってなんだ? https://www.youtube.com/wat

    2020-09-26 - 偽日記@はてなブログ
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    ●『散歩する侵略者』と『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(黒沢清)をDVDで観た。 これはあくまで第一印象にすぎないのだけど、『散歩する侵略者』は、黒沢清の映画を観ているという感じがあまりしなかった。いや、黒沢清でしかあり得ないという演出や画面で満ちているのだけど、一映画として、とどこおりなく滑らかに観られる普通の娯楽映画という感触で、「え、黒沢清って、これでいい人なの?」という拍子抜けした感じになった。別の言い方をすれば、時代が変わった、映画というもののありようそのものが変わった、ということを受け入れて、黒沢清が自ら背負っていたものから解放された、ということなのかもしれないとも感じた。もう90年代の黒沢清とは違うんだ、と。 (黒沢清はもともと、どんな企画でも受け入れる「職人的な演出家」でありたい人で、ぼくが、90年代の黒沢清に対する思い入れが強すぎる、ということかもしれないが。) 一方

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    maturi
    maturi 2022/11/03
     散歩する侵略者 スピンオフ
  • 2021-02-15 - 偽日記@はてなブログ

    ●ポン・ジュノの『パラサイト』をようやく観た(Netflixで)。圧倒的な作品である『母なる証明』などにくらべるとやや単純過ぎるきらいがあると思ったが、エンターテーメントとして成功するためにはこのくらいシンプルである必要があるのかもしれない。 半地下ならぬ「地下」が出てくることと、ラストで、消えてしまった父がその「地下」に存在することが分かるというところに、ポン・ジュノらしい感じがあらわれていて、そこはよかった。 映画の中盤で、主人の家族が留守になった家でパラサイトする家族たちが好き勝手に振る舞っているが、外では雨が強く降ってきているという場面で、ここで当然、キャンプを中断にして返ってくる主人の家族と鉢合わせするという展開になるだろうと読めてしまって、前半の展開でも、お金持ちの家族があまりに簡単にだまされてしまうことに不満を感じていたことも相まって、展開が平板すぎると感じてしまうのだが、そ

    2021-02-15 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    、この「狭くて細長い空間」における闘争(アクション)を通じて行われる。()こそがポン・ジュノ的だと思う。
  • 2022/10/13 - 偽日記@はてなブログ

    Netflixで『リコリス・リコイル』を観た。アニメを観て面白いと思えたのはずいぶん久しぶりだ。最後までちゃんと面白く、一定の納得を得られた。突出した傑作という感じではないが、日のアニメにおいて歴史的に蓄積されてきたさまざまな達成があることによって成立している高度な作品という感じ。 日のアニメでは、「美少女」という形象(イメージ)に、あまりに大きな負荷を負わせているし、あまりに強く依存してしまっているという問題があり、それをスルーすることはできない(世界の汚濁や毒を自己犠牲的に浄化する役割を期待されてしまっている)。しかし同時に、それによって可能になっている多くのことがあることも否定できない。この作品は、そのことに対する批評になっていると言えば言い過ぎだが、一種のアイロニーのようなあり方をしている。 この作品においてリコリス(≒美少女たち)は、世界の汚濁や毒を浄化するのではなく、単に

    2022/10/13 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    リコリス:面白いのは、主人公のこの強い「意志」が「間違った約束」によって成立しているという点だ。(誤読を誤読と知ってもなお、その誤読の方を信じる。それ
  • 2022/09/19 - 偽日記@はてなブログ

    Netflixで『サイバーパンク エッジランナーズ』、最後まで観たが、ぼくにはダメだった。技術もすごい、背景の分厚い世界観の作り込みも素晴らしい、アクションがすごい、演出もデザインも作画も音楽もかっこいい。そういう点では稀に見る驚くべき作品だと、確かに思う。でも、物語がどうにも受け入れ難かった。 人よりも無理が効く体質の主人公が、無理に無理を重ねて(過剰に負荷のかかるエンハンスメントにより)出世していき、一廉の者にまで成り上がるが、さすがに無理の限界が近づいて来て、それでも痩せ我慢で無理を重ね、限界を越えても大丈夫だと言い張り、周囲の者もそれに気づいて注意するが聞き耳持たず、破滅が目に見えているのに「うおーっ、ど根性見せたるでーっ」とさらに無理を通して、なんとかヒロイン一人を救うことはできたが、仲間諸共自滅する、という話を、面白いと感じることはぼくには難しい。 (勿論、これはとても粗い―

    2022/09/19 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    主人公に過剰な負荷がかけられて、その負荷を、知恵とか策略とかではなく、ゴリ押し的に――そしてそこにセルフネグレクト的な自己犠牲が乗っかって――力で突破していくという物語を、自分は本当に嫌いなのだな、
  • 2022/09/15 - 偽日記@はてなブログ

    Netflixで『サイバーパンク エッジランナーズ』を三話まで観た。久々に「キターッ」という感じのアニメだが、不安なのは、ぼくがどうしても『キルラキル』を好きになれなかったというところだ(監督、製作会社が同じ)。基調となるトーンから、細部の一つ一つに至るまで、ことごとく趣味に合わなかったし、全く面白いと思えなかった(技術的にすごいのは分かるとしても)。「サイバーパンク…」でも、ところどころにチラチラと「キルラキル」感を感じるたびに、今あるこの「キターッ」感が、最後までずっと持続するだろうかと不安になる。 背景となる世界の作り込みは文句なくすばらしいと思うのだけど、物語が単純そうな気配があるところが、ちょっと不安だ。 思ったのは、サイバーパンクというのはもはや、未来を感じさせる何かでも、新しいコンセプトを示すための枠組みでもなく、むしろ、今、このようにしてある世界のありようを(強調して)表

    2022/09/15 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    サイバーパンクというのは、未来を感じさせるでも、新しいコンセプトの枠組みでもなく、むしろ、今、このようにしてある世界のありようを(強調して)表現するための、リアリズム的な枠組みとでも言うべきものなのだな
  • 2021-02-16 - 偽日記@はてなブログ

    ●『パラサイト』の地下シェルターの描写を観ていて、なんとなく『クリーピー』(黒沢清)を連想したので、U-NEXTで観た。黒沢清の演出や描写がキレキレなのは勿論だけど(特に大学の場面はどれもひっくり返るくらいすごい)、それでも、ぼくにはこの映画(このお話)が面白いとはあまり思えないかなあ、と思ってしまった。 たとえば『CURE』の萩原聖人は、とても抽象度の高い「越えてはいけない一線を越えてしまっている人」だが、ここで香川照之が演じた人物は、こういうヤバい奴、普通にいそう、という風に感じられる。だからより生々しく怖いとも言えるのだけど、だがそうだとすると、リアリティの置き所が違ってくるのではないだろうかと思った(もっと、リアルに寄せた話になるのではないか)。だがこの作品は、いわゆる「現実らしさ」という意味でのリアリティとは別のリアリティに依っているように思われる。 この映画でヤバい奴は香川照之

    2021-02-16 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    クリーピー
  • 2022/02/19 - 偽日記@はてなブログ

    ●昨日の日記の最後で、『ドライブ・マイ・カー』で西島秀俊の死んだ娘と三浦透子が同じ年齢という設定にすると、二人の関係が代理的な父娘のようになってしまって安易ではないかということを書いたのだが、考えてみると、西島が父親ポジションに立とうとするのを三浦が突っぱねる(三浦はあくまでも三浦自身として自分の呪いと向かい合う)というようなニュアンスも感じ取れる。あるいは、西島自身も、自らが思わず父親ポジションに立とうとしてしまうことを抑制的に自己批判しているフシもある。徐々に近づくとはいえ、二人の間には常に距離と緊張があり、安易に擬似的な父娘的関係になだれ込まないという抑制こそがこの映画の持続を支えているとも言える。だからここでは、分かりやすい餌を投げた上で、それを批判的にひっくり返していると言うべきかもしれない。ひっくり返せているかどうかはともかく、少なくとも「餌」的なものの誘惑に対して慎重で抑制的

    2022/02/19 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    『ドライブ・マイ・カー』
  • 2022/02/18 - 偽日記@はてなブログ

    ●『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)をU-NEXTで観た。これは評価が高くて当然だと充分に納得できる作品だった。おおーっ、と、興奮して前のめりになる感じではないが、なるほど、なるほど、なるほど…と、観ている間じゅう「なるほど」がどんどん積み上げられていって、分厚くて高い「なるほど」の山が出来る感じ(以下、ネタバレしています)。 ●この映画で一番驚いたのは、岡田将生が語る霧島れいかの物語---「わたしが殺しました」と「監視カメラ」---が、事後的に岡田自身の自分語りへと折れ曲がってしまうところ(「監視カメラ」が、岡田が殺した「犯行」の証拠になる・「わたしが殺しました」と岡田が言うことになる)。世界がぐにゃっと歪んで、内と外、比喩と現実とが反転する。この部分では、おおーっ、と、思わず声が口から漏れた。霧島れいかの物語の比喩性---深さや神秘---が、岡田将生の「犯行」の具体性によって上書きさ

    2022/02/18 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    ●『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介)をU-NEXTで観た。
  • 2022/02/10 - 偽日記@はてなブログ

    Netflixで『地球外少年少女』を3話まで観た。観ていて思ったのは、これは未来の話ではなくて「現代」の話なのだな、ということだ。『電脳コイル』が、「ノスタルジックなファンタジーを成立させるために未来的なガジェット(技術環境)が用いられる」という、過去と未来を接続させるような作品だったのに対して、ここでは、子どもたちにとっての「現代の環境」をぎゅっと濃縮して表現するために「宇宙ホテル」という環境が構築されているのだと思った。現代的な環境のなかで、子供たちの冒険をどのように成り立たせるのか、という話だ、と。 (『電脳コイル』で、仮想空間の基礎的な部分をつくったヤサコのお爺さんの幽霊が出てきてヤサコを導くのと同じように、宇宙ホテルの根幹部分をつくった---半分ボケている---お爺さんが出てきて子供たちを導くという展開に胸が熱くなった。) 宇宙ホテルは、夢の未来というよりもむしろ、現代日の貧

    2022/02/10 - 偽日記@はてなブログ
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    maturi 2022/11/03
    ●Netflixで『地球外少年少女』を3話まで観た。
  • 2022/01/22 - 偽日記@はてなブログ

    ●『れいこいるか』(いまおかしんじ)をU-NEXTで観た。すばらしかった。 この映画の最後の30分ちかく。武田暁が卓球場(?)の横で「はじめて逢うたんはここや」と言う場面の次にくる、震災後23年とされる場面はすべて、「現実らしさ」という意味ではまったくリアリティに欠けると言うしかないくらい、幸福な事しか起らない。失明したはずの武田暁の視力が当然のように戻っていて、自動車の運転が出来るまでに回復していたとしても、その事に対する説明や言い訳は一切ない。その理由は、とにかく最後は「完璧に幸福な一日」で終わるのだという「決まり」以外にないだろう。 この、信じられないくらい幸福な事しか起らない一連の流れを実現させることこそが、おそらくこの映画の目的であり、この映画の成否が賭けられた部分だと思われる。リアルでないことこそがリアリティを支えている。いろいろな出来事があったとしても、そのすべてを受け入れる

    2022/01/22 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    『れいこいるか』(いまおかしんじ)
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●大晦日にNHKのBSでやっていた『龍の歯医者』というアニメの録画を観た。前篇と後篇とに別れていて、トータルで90分くらい。スタジオカラー製作、舞城王太郎、榎戸洋司、鶴巻和哉という名前が並ぶ。 前篇は、龍の歯医者というアイデアも面白く、久々に(「トップ2」や「フリクリ」を感じさせる)鶴巻的な造形感覚が全開になっているものが観られて、とても楽しく観ていたのだけど、後篇になって、基的なヴィジョンが90年代後半からゼロ年代前半くらいのアニメから一歩も出ていないのだなあという感じを抱いてしまった(主題曲も小沢健二のカヴァーだし)。 タイトル通りに、龍の歯のメンテナンスをする職能集団の話。龍の歯の内部というのが死者の通り道であり、死者の魂の滞留地であるような、一種「黄泉の国」というような設定になっている。そして、龍の歯医者たちの集団は、一度その「龍の歯」のなかに入り込んで、自分の死の瞬間、その状況

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    maturi
    maturi 2022/11/03
    今週の庵野的なるもの”制御不能な巨大な力の発現・暴走→世界が大々的に破壊されていくヴション→巨大な力の収束した後に残される廃墟のむなしさ。しかし世界の廃墟は、行き止まりでもあり、振り出しでもある。”
  • 2021-10-31 - 偽日記@はてなブログ

    ●今まで、カードがないとアマゾンプライム会員になれないと思い込んでいたのだけど、アマゾンギフトでも毎月定額支払えば会員になれると知って、さっそく会員になり、ほんとうに今更なのだがようやく「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た。で、あー、これは自民党が選挙で勝つわけだ、と思って脱力した。 いきなり、ポストポカリブスのコミュニティが(幻想の)昭和ノスタルジー感満載で、うわーっと思ったのだが、こういうものを抵抗なくつくってしまえる想像力も、それをすんなりと受け入れてしまえる観客も、ちょっとヤバいのではないかと感じた。「保守的」という概念を見事にイメージ化している、とも言える。庵野秀明が骨の髄まで昭和のおじさんなのは仕方ないとして、受け取る側が、これにひっかかりを感じないということはないと思うのだが…。これが「国民的なヒット映画」だというのは不味いのではないかと、柄にもなく思ってしまった。 (冒頭

    2021-10-31 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    ”「シン・エヴァンゲリオン」ははじめからそのような作品ではなく、『男はつらいよ さよなら寅さん』(そのような映画は実在しないが)みたいな映画だと思って観れば納得できるのかもしれない”
  • 2021-06-18 - 偽日記@はてなブログ

    ●すっかり「大豆田とわ子」に夢中になって放置してしまっていた『ゴジラ S.P』を最終話まで一気に観た。こちらもすばらしく面白かった。 (そもそもゴジラの存在は物理的に不可能→仮にゴジラが実在できるとすればそれはこの宇宙の物理法則の危機→ゴジラ=特異点→宇宙が破局する局面でゴジラ=特異点が現われる、という発想なのか?) 「大豆田とわ子」が並行世界的な話だとしたら、『ゴジラ S.P』は決定論的な宇宙のなかでどうやって決定論的終末を回避するのかという話だった、と思う。「未来で確定している破局をどう回避するのか」。横---並行世界---には逃げられないので、ひたすら縦---時間軸上---に、巡行し逆行する情報のやりとりを通じてそれを行うしかないという話、だと思う。時間軸は1つしかないので、やりとりされる情報は1つの流れのなかに何層も折りたたまれることになる。 ジェットジャガーを最強にするプロトコル

    2021-06-18 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    ゴジラSP
  • 2021-02-07 - 偽日記@はてなブログ

    ●劇場版『SHIROBAKO』をU-NEXTで観た。観ている時はけっこう盛り上がって、これは面白いと思っていたが、観終わってみると、急に気持ちがすっと冷めてしまった。それはおそらく、終盤の展開が「型通り」というか、お話の必然性よりも、「観客を盛り上げさせるための展開の形」の方を優先して、それに無理矢理合わせるように物語を展開させてしまっているからではないかと思った。 序盤に、すっかり寂れてしまった武蔵野アニメーションの様が提示され、たくさんいる登場人物たちも、皆、それぞれなんとか仕事をつづけてはいるけど、いまひとつパッとしないという状況が示され、いろいろ厳しいなあというところに、武蔵野アニメーションに、事故のようにして劇場版のオリジナル作品の製作の話が舞い込んでくる。現在の状態でこの仕事を受けるのは無謀なのだが、主人公の宮森は、現状を打破するためにもこの話を受けることを決め、かつて一緒に仕

    2021-02-07 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    『SHIROBAKO劇場版』
  • 2021-01-16 - 偽日記@はてなブログ

    ●必要があってようやく『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(片渕須直) を観た。片渕須直が、どうしてもこれをつくりたかった気持ちがよく分かった。こちらを観てしまうと、『この世界の片隅に』の方は、重要な部分が欠落した作品のようにみえてしまう。 『この世界の片隅に』(片渕須直)では、原作と比べると、非常に重要な登場人物であるリン(リンと周作の関係)のエピソードが多く切り落とされている。おそらく、上映時間の問題や制作費の制約のために、泣く泣くそうするしかなかったのだろう。とはいえリンは、主人公すずの分身のような存在であり(「すず」を鳴らすと「リン」と音がする)、また、サブの登場人物としてリンは、水原と同等の重要さをもっている。すずが水原と結婚したかもしれなかったという可能性が、すずと周作との結婚生活の裏にずっと貼り付いているのと同様に、周作がリンと結婚したかもしれなかった可能性もまた、二人の

    2021-01-16 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    (さらにいくつもの)片隅に』、この物語全体としては、「代用品」であることによって(代用品という概念を媒介とすることによって)、新たな「固有の関係」が生まれるということをポジティブに示すものでもある。
  • 2020-06-02 - 偽日記@はてなブログ

    ●U-NEXTで、『天気の子』を観た。普通に面白かった。残念ながら、『君の名は。』のような傑作ということにはならなかったと思うけど、とても充実した作品だと思う。 物語的にはシンプルなボーイ・ミーツ・ガールの話であまりひねりはない。例えば、晴れ女としての陽菜が「人柱」で、彼女の消失と引き換えに天気が正常化するという設定は受け入れるとしても、消失した陽菜を帆高が救い出す過程が単純すぎて肩すかし感がある。『君の名は。』では、世界を救うために、論理的で複雑な過程を何ステップも踏む必要があった(その過程の複雑さこそが作品のフォルムを形作っていた)のに比べ、廃ビルの屋上にある鳥居をくぐっただけでOKとなってしまうのは、物語としての説得力に欠けるように思う(「口咬み酒」のような仕掛けがない)。ただ、その代わりに、警察署から逃げ出すアクションがあり、線路の上を走って廃ビルに至り、廃ビルでもまた一悶着あると

    2020-06-02 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    『天気の子』 廃ビルでもまた一悶着あるという形で「過程」が描かれはする。でもそれはあくまで「逃亡」の過程であって「救出」の過程ではない
  • 2020-01-26 - 偽日記@はてなブログ

    ●風邪の症状がかなり酷いが、原稿の締め切り。とはいえ、だいたいは出来ていて---だから昨日は美術館に行けた---最後の推敲をして原稿を送信。風邪は、ゆっくりと、徐々に悪化している。 ●『映像研には手を出すな!』の四話を観たけど、ぼくはこれにはイマイチのれないかもと感じてしまった。 メディアの内側と外側とが繋がってしまうということを、こういう形で表現されるとぼくは引いてしまう。個人の頭のなかで、あるいは内輪の三人での話のなかで(制作の過程のなかで)、シームレスにアニメのなかに入り込んでしまうというのは、ギリでアリかと思うのだけど、観客も巻き込んだ形で(つまり、「映像」が観客をこんなにも魅了したということの表現として)、スクリーンから風が吹いてくるとか、戦車が出現するとかを、ベタにやられてしまうと、ちょっとそれはないんじゃないかと感じる。出来た動画がそんなにみんなが無条件で絶賛するようなクオリ

    2020-01-26 - 偽日記@はてなブログ
    maturi
    maturi 2022/11/03
    観客も巻き込んだ形で(つまり、「映像」が観客をこんなにも魅了したということの表現として)、スクリーンから風が吹いてくるとか、戦車が出現するとかを、ベタにやられてしまうと、ちょっとそれはないんじゃないか