「いのち」があるのは当然ではないことは、吉野さんのお話からも分かりました。では、「いのち」とは何のか? もう一度考えてみることにします。生徒たちには、「命」と「いのち」と2通りの書き方ができるのに、この授業ではずっと「いのち」を使ってきた、なぜか? について解説しました。以前に書いたとおり、「命」は生命体として(人間として)生きているという意味の「イノチ」であり、「いのち」は「命」を輝かせるためにいきいきと生きる「イノチ」と考えてみてほしいことを伝えました。 この後、「いのちと向き合うこと」とは何かを分かってもらうために二つのポイントを話したのですが、これも詳細は30日の第2回授業終了後にご披露させていただきます。 さあ、いよいよ質問タイムです。誰か1人手を挙げてくれれば、芋づる式に質問が出てくるはずです。問題は最初の1人が手を挙げるまでにどのくらいの間が空くか、すぐに出てくれればそのまま
故障せずに上手くなるために必要なこと 今日は雨のせいかのんびりした1日でした。 診察はほぼ定刻に終了しリハビリテーション室に出かけると、まだ数名の方が治療を受けておられました。 その中に数日前に強い腰痛でマッケンジー法による治療を開始した男性がいました。今日で2回目です。 『いかがですか?』 『それが不思議なほどいいんですよ!』 『それはよかった』 『ところで先生一つ訊いてもいいですか?』 『なんでしょう?』 『子供のスポーツ障害が多いみたいですが、やっぱり最近の子は弱いんですか?』 『いや、そんなことはありません。今の児は昔の私たちより多くはずっと丈夫で体力もあります』 『え、そうなんですか!』 この話をすると、よく〝そんなことはないでしょう!文科省の発表ではソフトボール投げなど親の世代より劣っているでしょう!〟と言われるのですが、果たして〝ボール投げ=体力〟でしょうか? 個人的にはこれ
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