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2017年8月12日のブックマーク (24件)

  • New community features for Google Chat and an update on Currents

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    mfluder 2017/08/12
    駒田京伽“じゃんけん前にAKB新聞の瀬津さんがいもむchu!頑張ってね!!って言って下さいました !!解散させないと言って下さったので何でもやりますといいました。(震)”
  • News Up 乳幼児と帰省 実家に潜む危険とは? | NHKニュース

    「すべての事故を防ぐことはできません。でも発生頻度が高く、重症度が高くなるものは防ぎましょう」という山中先生。 山中先生が帰省先で心配な事故の1つが、風呂場での溺死だと言います。 危険度が高いのは、歩き始めた生後10か月から1歳くらいの子どもで、毎年のように事故は起きています。 実家での注意点、ポイントは浴槽の高さと残り湯です。 「実家では高齢者が浴槽をまたぎやすいように、浴槽の高さが低い場合も多いと思います。 1歳の子の身長が約75センチくらいなので、50センチ以下ですと簡単に乗り越えられて危険 です。 そして、 鼻と口を覆うほどの残り湯があれば、赤ちゃんはおぼれてしまいます。 大人が話に夢中になっている間に赤ちゃんが1人で風呂場に入ってしまうと、重大な事故につながりかねません」(山中先生) 対策としては、子どもが滞在する間だけでも、 残り湯は絶対に捨ててもらう こと。さらに、鍵をかける

    News Up 乳幼児と帰省 実家に潜む危険とは? | NHKニュース
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    mfluder 2017/08/12
  • こんばんは 握手会2日目ありがとうございました 今日は2部の時だけ2だからツインテールしました くだらないギャグです...

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    mfluder 2017/08/12
    田中優香“まりこちゃん、ゆうまりめろんの衣装と曲欲しいってすっごくすっごく言ってくれてたから…そこで私考えたんですけどせっかくだから2人でお揃いの私服?コスプレ?なんかをして握手会したいなーって”
  • 【永久保存版】国内ゲーム漫画83作品287冊を全冊読破してレビュー。語られざる歴史をベテランゲーム誌編集者が徹底案内【前編】

    【永久保存版】国内ゲーム漫画83作品287冊を全冊読破してレビュー。語られざる歴史をベテランゲーム誌編集者が徹底案内【前編】 ゲームおもしろい。マンガもおもしろい。だったらゲームについて描かれたマンガは、きっとおもしろい。 大昔、インベーダー印のキャップをかぶった出っ歯の少年は、プレイの最後に必殺技を放っていた。でも四半世紀ほどの昔、寡黙な彼女にモテていたガイル使いのアイツは、ひどく現実的で必殺技なんか放たないスタイルで闘っていた。 時代によって傾向が変遷しているこれら“ゲームマンガ”を読み、分類・整理・紹介すれば、きっとビデオゲームの置かれた現状など、“何か”が見えてくるのでは? そう思ったのがこの記事の発端だ。 対象としたのは、始祖『ゲームセンターあらし』以降、日で手に入る“ゲームについての商用マンガ”。とはいえ、追跡しきれないほど膨大な数のゲームマンガがある。そこで今回は基的に

    【永久保存版】国内ゲーム漫画83作品287冊を全冊読破してレビュー。語られざる歴史をベテランゲーム誌編集者が徹底案内【前編】
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    mfluder 2017/08/12
  • 【永久保存版】ひとまず完結! 国内ゲーム漫画83作品289冊を読破して徹底レビュー。ベテランゲーム誌編集者が下した結論――なぜゲーム漫画は競わなくなったか?

    ゲームセンターあらし』の昔より、ビデオゲームについてのマンガ、“ゲームマンガ”が数多く描かれてきた。ゲームもマンガもおもしろいものだから、ゲームマンガを見かけるとついつい購読していたけれど、気づけば書棚の一角を占め、これを分類・整理すれば、“ゲームマンガ”から何か時代が見えてくるのでは? と思ったのがこの記事の発端だ。 【永久保存版】国内ゲーム漫画83作品287冊を全冊読破してレビュー。語られざる歴史をベテランゲーム誌編集者が徹底案内【前編】 前編の記事で掲載した「バトルマンガ」、「ゲームプレイヤーマンガ」、「エッセイ・ルポマンガ」編は、筆者の至らなさに端を発するお叱り含め、未読の作品についてなど多くの反響をいただいた。今回は、フィクション寄り・ノンフィクション寄りを問わず、ゲームを作る人々を描いた「クリエイターマンガ」、ゲームがモチーフの「ギャグ・コメディマンガ」、そして近年よく見る「

    【永久保存版】ひとまず完結! 国内ゲーム漫画83作品289冊を読破して徹底レビュー。ベテランゲーム誌編集者が下した結論――なぜゲーム漫画は競わなくなったか?
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    mfluder 2017/08/12
  • 「戦争扱う邦画、被害者コスプレ感じる」 イ監督に聞く:朝日新聞デジタル

    韓国で日統治時代を題材にした映画が次々に公開され、ヒットしている。その一つで「軍艦島」よりも1カ月早く公開された「朴烈(パクヨル)」は、関東大震災の直後、皇室暗殺を企てたとして大逆罪に問われた無政府主義者の朝鮮人と、その相方だった日人女性の愛を描いた異色作で、観客動員数は約230万人に達した。なぜこの時代の映画が増えているのか。歴史を題材にした映画で、創作はどこまで許されるのか。「朴烈」のイ・ジュンイク監督に聞いた。 ◇ ――2015年夏以降、「暗殺」「鬼郷」「徳恵翁主」「軍艦島」(いずれも原題)など植民地時代を題材にした韓国映画の公開が相次いでいます。なぜでしょうか。 「韓国は植民地時代の傷をいまだに整理できていないからだ。日は明治維新を経て主体的に近代化を遂げたが、韓国は日帝国主義によって受け身の近代化を余儀なくされた。戦後も長く経済的に日に従属した。戦後70年経って戦後世代

    「戦争扱う邦画、被害者コスプレ感じる」 イ監督に聞く:朝日新聞デジタル
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    mfluder 2017/08/12
    「朴烈」のイ・ジュンイク監督
  • 初めて自分に好意を抱いてくれた異性の記憶 by 鰹 | エッセイ投稿サービスShortNote(ショートノート)

    17歳の頃、学年で一番太っている男の子と友達でした。彼はいつも50ccの小さなバイクで登校していて、みんなから「バイクが可哀想だ」と言われるくらい太っていました。男友達は多かったけど女子からはあまり人気がなく、誰かが彼を「軽トラック」と呼び始めると、私は罪悪感を抱きつつ「わかる……」と思っていました。 彼とは数日に一度の頻度でポケベル(懐かしい)でメッセージのやり取りをしていました。共通の知り合いが多いわけでもなく、クラスも部活も別々なので、話はあまり盛り上がらなかったけど、なぜか彼は頻繁に連絡をくれました。 ある日、同じクラスの女の子から「あなたが教室にいない時、軽トラがいつもあなたの席に座って男の子達と喋ってるよ」と言われました。私はその意味がよく分からなかったのですが、彼女に言わせると彼が私の席に座る頻度は不自然なほど多いとのことで、つまり「軽トラはあなたのことが好きなんじゃないの?

    初めて自分に好意を抱いてくれた異性の記憶 by 鰹 | エッセイ投稿サービスShortNote(ショートノート)
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    mfluder 2017/08/12
    胸がキュッとした
  • この打ち水をする女性の素晴らしい写真だが昭和29年の撮影でもなく撮影者不明でもなかった。このツイートは良い写真を紹介したが、

    ※まとめ題名、及び、説明欄はまとめ収録のツイートから ※まとめられたツイートの論旨は、まとめ人の思想信条を表しているとは限りません。 ※読者のお好みの内容を提供するとは限りません。 ※ツイ主の語学力・表現力、コメ主の読解力に対してまとめ主は責任を持ちません。 ※ツイッターの利用規約、トゥギャッターの利用規約にもあるように、ツイートの内容の真偽は無保証です。 ※あなたのTLに回ってきたツイートだけで何かを判断するのではなく、TLには回ってきていないその前後のツイートも確認されることをお勧めします。

    この打ち水をする女性の素晴らしい写真だが昭和29年の撮影でもなく撮影者不明でもなかった。このツイートは良い写真を紹介したが、
  • 読売「首相の一日」と朝日「首相動静」を読み比べて分かってしまった“あの人の不在” | 文春オンライン

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    mfluder 2017/08/12
    2016年8月10日“あ……、読売では「加計孝太郎」の文字が抜けている。食事をしたのは「秘書官ら」になってる。 これは一体、どういう意味なのだろう”
  • 星野ロミ情報の自分用まとめ - 今日も得る物なしZ

    詳しくは知らないのであくまで自分用のまとめ。 漫画違法配信サイト「漫画村」の黒幕に迫る – 無能ブログ 「星野ロミ」とはどういう人物なのか? 漫画村を運営するWorldJobProjectの関係者である可能性が高い。今現在運営しているかどうかは不明だが、データベースに残されていた情報から考えると開発に携わっていたことは間違いない。 eromate.net → eromate.se: エロメイト 無料のアダルト動画共有サイト アダルト動画サイト。AdvancedHostersのCDNで動画を配信。漫画村とデザインが似ている。Contact-ID: regist5028-71087 まさかはてブに人がいるとは思わないだろうな。聞きたいことあったら答えるかも - eromate のコメント / はてなブックマーク eromate まさかはてブに人がいるとは思わないだろうな。聞きたいことあった

    星野ロミ情報の自分用まとめ - 今日も得る物なしZ
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    mfluder 2017/08/12
  • (ナガサキノート)形見の真珠 彼女の分まで:朝日新聞デジタル

    松尾幸子さん(1934年生まれ) 11歳の時、爆心地の北西約1・3キロの岩屋山中腹で被爆した松尾幸子(まつおさちこ)さん(80)=長崎市原町=の胸には、一粒の真珠がついた指輪をチェーンに通したネックレスが光る。 数年前まで一緒に被爆体験の語り部をしていた女性の形見。同じ山里国民学校(現・山里小)の出身で、「幸子姉さん」と呼んで、人なつっこい笑顔で慕ってくれた。 女性は2001年、放射線の影響とみられる肺がんと診断された。病院へお見舞いに行くと、体調の悪さをみせず、同室の他の患者にお茶を配るなど、優しくて面倒見のいい人だった。「語りたい」という思いが強く、入退院を繰り返しながらも語り部を続けたが、05年に亡くなった。のちに遺族が「生前は大変お世話になりました」と、真珠を形見として分けてくれたという。 松尾さんは語り部をする時、必ずこの真珠のネックレスを身につける。そして時折、そっと触れて思

    (ナガサキノート)形見の真珠 彼女の分まで:朝日新聞デジタル
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    mfluder 2017/08/12
    “松尾さんの父・吉次郎さんは米軍が空からまいた「8月8日、長崎は灰の町」と書かれたビラを見たという。内容を信じた吉次郎さんはその日のうちに岩屋山に畳2枚とトタン、材木を持って行き、サツマイモ畑の横に小さな
  • (ナガサキノート)見捨てられない 必死の看護:朝日新聞デジタル

    宮崎トミホさん(1926年生まれ) 2013年9月、長崎市の宮崎トミホさん(88)は長崎大医学部で開かれた日放射線看護学会学術集会のプロローグで、多くの看護師や研究者を前に講演した。原爆投下時、長崎医科大付属医院(現・長崎大病院)の看護婦だった。勤務中に被爆しながらも、他の被爆者の救護に走り回った。原爆投下前に医薬品を疎開させていたことや、臨時の救護所で道具がなく、近所から大工用ののこぎりを借りて負傷者の足を切断したことなどを語った。 学術集会の会長を務めた浦田秀子・長崎大大学院医歯薬学総合研究科教授は「看護の専門家としての話を聞いてほしかった」と話す。宮崎さんは30分の予定時間を10分ほど超過して話したが、「まだ話せていないことがある」と振り返る。 結婚と出産、育児のために10年ほど仕事を休んだが、復職後、60歳まで婦長など責任ある仕事を担った。「この仕事が好きなの」という宮崎さんの原

    (ナガサキノート)見捨てられない 必死の看護:朝日新聞デジタル
  • 監督撮影日記 映画『BE FREE!  原爆の残り火をパレスチナへ ~アースキャラバン2015~』公式サイト

    そもそも、なぜ、広島原爆の残り火が、遠く福岡県にあるのか。 1945年の夏にさかのぼります。 星野村出身の山達夫さんは、徴兵され、広島近くの軍 隊の部隊にいました。 8月6日、任務で汽車で移動しているときでした。 午前8時15分、白い光が車中を貫き、大地を揺るがす途轍もない爆弾音が。広島原爆投下の瞬間でした。 山さんは広島で書店を営む叔父の安否が気になり、広島市内に向け歩き始めました。 男女の区別もつかないほど焼けただれ逃げ惑う人々、黒焦げの死体、断末魔のうめき声。 山さんが見たのは地獄でした。 山さんは、父親代わりに自分を育て可愛がってくれた叔父を幾日も探しました。しかし何も見つかりません。広島を去る日、くすぶりの中でチロチロ燃えている小さな炎を見つけました。遺骨代わりに、その火をカイロに入れ、福岡県に持ち帰ったのです。 山さんは、仏壇にその�火を灯し、いろりや火鉢に移しながら

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    mfluder 2017/08/12
    “「この火でアメリカに復讐してやる」 今でこそ、「平和の火」と呼ばれてますが、山本さんにとってそれは「憎しみの火」だったのです。 それほどの地獄を体験したのです”
  • 朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社

    原爆の年のクリスマス 小崎登明さん (1928年生まれ) (新聞掲載は2008年12月) 小崎登明さん 小崎さんが保管する、廃虚の浦上天主堂の写真 秋雨の降る10月8日、小崎さんは、かつて母と一緒に行った聖母の騎士修道院の門をたたいた。出てきたポーランド人の修道士は、小崎さんのことを覚えていた。母のことを尋ねられ、「原爆で死にました」と答えると、修道士は目頭を押さえた。 もう一人の神父に「神学生になりたい」と告げると、優しく抱きしめてくれた。それが入学許可だった。奥の炊事場に導かれ、なみなみと注がれたみそ汁を出され、飲み干した。 その後も原爆による疲れや下痢は治まらなかった。だが、戦勝国の支援でべ物も着る物も豊富にあった修道院のおかげか、徐々に普通の生活が送れるようになった。勉強し直そうと、18歳で中学3年に入った。理科の先生は、『長崎の鐘』などの著書で知られる被爆医師の永井隆博士だった

    朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社
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    mfluder 2017/08/12
    “何度読み返しても書かれていないことがあった。自分が見捨てた人たちのことだった”
  • 朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社

    原爆の年のクリスマス 小崎登明さん (1928年生まれ) (新聞掲載は2008年12月) 小崎登明さん 小崎さんが保管する、廃虚の浦上天主堂の写真 クリスマスイブの2008年12月24日、長崎市河内2丁目の聖母の騎士修道院でミサがささげられた。 「原爆の年もクリスマスは豪華だった」。修道士小崎登明さん(80)は手を合わせて祈り、振り返った。戦勝国のポーランド人が作った修道院には、占領軍から物資が特別に与えられていたからだ。 原爆で唯一の家族だった母を奪われた。母は敬虔な信者だった。一緒に訪れた修道院を頼り、神学生になった。 クリスマスパーティーはポーランド式だった。パンを修道者同士で分け合い、ラテン語で聖歌を歌った。「今年は原爆が投下され、哀れな人がたくさんいる。サンタクロースは忙しくて、ここには来られない」と、代わりに修道士から贈り物を渡された。学生服だった。ふと、「なぜ自分は、こんな

    朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社
  • (ナガサキノート)半世紀後に描いた天主堂 絵の語り部:朝日新聞デジタル

    \n<div id=\"TsunamiInfoArea\">\n<div id=\"InsideTsunami\" class=\"Tsunami TsunamiLevel-1\">\n<a class=\"SlideBtn\" href=\"javascript:void(0)\"> <span><b class=\"Click\">閉じる</b></span></a>\n<a class=\"linklayer\" href=\"https://www.asahi.com/special/saigai/tsunami.html\"></a> <!-- ←リンク先 -->\n<div class=\"TsunamiNewsInner\">\n<div class=\"TsunamiTitle\">津波注意報</div>\n<em class=\"TsunamiNav\"><strong>

    (ナガサキノート)半世紀後に描いた天主堂 絵の語り部:朝日新聞デジタル
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    mfluder 2017/08/12
    “その後、戦災孤児施設で育ち、あの日の記憶は封じ込めてきた。この絵を描いたのは、50年以上がたってからだった”
  • 朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社

    命を絶った妹 下平作江さん (1935年生まれ) (新聞掲載は2008年12月) 下平作江さん 1983年10月、ドイツで核廃絶を訴える(右奥)。 下平作江さん(73)が被爆語り部を始めて35年になる。主に子どもたちを相手に、1日3、4校を掛け持ちすることもあり、年200回ほどを数える。 甲状腺機能低下症や腎臓病を患う被爆者の夫、隆敏さん(79)の介護を、長崎市油木町の自宅で続けながらの毎日だ。下平さんも子宮筋腫、慢性肝炎などを患い、手術を繰り返した。それでも「命ある限り伝える」という思いに突き動かされる。 語る際には、ゆっくりと切り出す。「人間が人間に何をしてきたのか。たくさんの人の命を投げ出して作った平和です。苦しいけれど、悲しいけれど、私の被爆体験を話します」。鼻にかかったような独特の低い声で、抑揚はほとんどない。 10歳の時、爆心地から約800メートルの油木の防空壕で被爆した。母、

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  • (ナガサキノート)原爆投下「知らない」に衝撃:朝日新聞デジタル

    井上幸雄さん(1932年生まれ) 【岡田将平・32歳】「長崎に原爆が落ちたことを知っているか?」「知らない」 1981年春。旧加津佐町(現南島原市)で中学教師だった井上幸雄さん(81)=長崎市上小島4丁目=は、何げなく生徒に投げた問いの答えに衝撃を受けた。 旧制長崎中2年だった13歳の時に爆心地から約2・8キロの長崎市東上町(現・玉園町)の自宅で被爆。自身にけがはなく、家族も助かった。戦後、自ら進んで被爆体験を語ることはなかった。「もっと悲惨な被害を受けた人が語るべきだ」と思っていたからだ。 だが、この日が転機となった。「風化させてはならない」。被爆当時、自分が歩いた場所をたどり、目撃した光景を模造紙に描き始めた。その年の8月9日、体育館で全校生徒に模造紙を見せながら、体験を語った。転任しても、92年に退職するまで毎年続けた。 模造紙は今、井上さんの自宅に残る。取材に訪れた私の前に広げ、井

    (ナガサキノート)原爆投下「知らない」に衝撃:朝日新聞デジタル
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    “戦後、自ら進んで被爆体験を語ることはなかった。「もっと悲惨な被害を受けた人が語るべきだ」と思っていたからだ”
  • 朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社

    被爆者たちの墓標 内田伯さん (1929年生まれ) (新聞掲載は2009年6月) 内田伯さん 被爆後の三菱兵器。内田さんがいたのは左下の工場付近(45年、米軍撮影、長崎原爆資料館提供) 1945年8月1日。「この日が私にとって運命の岐路となった」と、内田伯さん(79)=長崎市松山町=は振り返る。内田さんは「長崎の証言の会」代表委員で語り部活動をしている。当時は旧制の県立瓊浦中学校(現在の瓊浦高校とは別の学校)の4年生だった。 あの日の昼、市内は激しい空襲に遭った。内田さんが動員先の三菱兵器製作所大橋工場(現在の長崎市文教町付近、爆心地から北へ約1・3キロ)から松山町(爆心地から北西へ約130メートル)の自宅に帰ると、3歳下の弟崇さんがバイト先の長崎駅から飛ぶようにして戻ってきた。いつもは寄り道をしながらのんびりと帰宅するが、様子が違う。父芳治さんと一緒に話を聞いた。 「こげん恐ろしかことの

    朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ - 朝日新聞社
  • (ナガサキノート)家族全員、原爆で失った:朝日新聞デジタル

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    (ナガサキノート)家族全員、原爆で失った:朝日新聞デジタル
  • (ナガサキノート)折り重なる死体 心に焼きつく浦上川:朝日新聞デジタル

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    (ナガサキノート)折り重なる死体 心に焼きつく浦上川:朝日新聞デジタル
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    mfluder 2017/08/12
    “高校生くらいの女の子は、髪の毛が灰色になっていた。「苦しかー、苦しかー」とうめき、母親に「代わりに死んでくれんね!」とすがった。やけどした部位にカボチャのすりつぶしたものを塗っていて、ハエがたかって
  • 山を越えていれば姉に…原爆投下の日、88歳に残る悔い:朝日新聞デジタル

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    山を越えていれば姉に…原爆投下の日、88歳に残る悔い:朝日新聞デジタル
  • ナガサキノート あの日、人々の足取り:朝日新聞デジタル

    朝日新聞長崎版の連載「ナガサキノート」から、1945年8月9~10日に爆心地数キロ圏内にいた人を中心に約150人について、証言から推測される足取りを地図上に再現しました。 取材・編集:朝日新聞長崎総局 制作:デジタル編集部、朝日新聞メディアプロダクション 2017年7月12日 公開 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万5千分1地形図を複製したものである。(承認番号 平28情複、 第820号)

    ナガサキノート あの日、人々の足取り:朝日新聞デジタル
  • キリシタン殉教地に仏教徒が祈り 原爆後、信仰超えて:朝日新聞デジタル

    ナガサキノート:この場所で 長崎市西坂町の西坂公園。長崎港を見下ろす丘は、16世紀末にキリスト教禁教令の下で布教していた宣教師や信徒26人が処刑された場所とされる。現在は教会と資料館が建ち、潜伏キリシタンのたどった歴史などを伝える場所になっているが、72年前には「お寺」があり、原爆後には仏教徒らが祈りを捧げた。 現在の西坂公園の場所に真宗大谷派(山・東願寺)が説教所(教務所)を建てたのは昭和初め。西坂の隣、御船蔵町で生まれ育った被爆者の森田博満さん(82)には、説教所近くに住む友人がいた。「寺の敷地や、西坂に上がる100段以上ある階段でよく遊んだ。大きなお堂がたっていた」と懐かしむ。 だが1945年8月9日に原爆が落とされると、辺りの風景は一変した。西坂や御船蔵は爆心地から2キロ前後離れていたが、森田さんによると閃光(せんこう)から間もなく、茅葺(かやぶ)き屋根に火がつき、一帯は大火に

    キリシタン殉教地に仏教徒が祈り 原爆後、信仰超えて:朝日新聞デジタル
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    mfluder 2017/08/12
    長崎