日本の各地で普通に見られたガン。明治時代の乱獲によって5000羽まで生息数が激減してしまった。シベリアからの渡り鳥であるガンの危機を救ったのは、ソ連から届いた1通の手紙だった。 私にはこんな原風景がある。第2次大戦が終わって数年後、小学校低学年だった私は、疎開先から焼け野原の東京に戻ってきた。秋のある日だった。空を見上げると幾重にも編隊を組んだ数十羽のマガンの群れが、澄み切った大空を鳴き交わしながら渡っていった。 あちこちから「雁行(がんこう)だ」「雁が音(かりがね)だ」という声が上がった。これを母親に報告したら、歌ってくれたのが子守歌「里ごころ」(北原白秋作詞、中山晋平作曲)だった。 「雁、雁、棹(さお)になれ、さきになれ…」 当時の東京でガンはけっして珍しい鳥ではなく、季節を告げる風物詩だった。あれ以来、東京の空にガンを見ることはなかった。だが、10年ほど前からだろうか、ガンの編隊飛行