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機械に関するmforce4のブックマーク (1,569)

  • レオパルト2 - 戦車図鑑(裏辺研究所)

    レオパルト2 レオパルド2 A4 (撮影:ドイツ ムンスター戦車博物館/撮影:秩父路号) ●基データ 登場:1977年 重量:55.15t 全長:9.67m 全幅:3.7m 全高:2.48m 乗員:4人 (データはいずれもA4型) ●解説 レオパルド2は西ドイツが開発した第3世代主力戦車。ソ連戦車の性能向上に対抗するために、レオパルト1の後継として開発がすすめられたもので、1972年から1974年にかけて試作車17両が順次誕生し、1977年から量産が開始されている。 主砲としてラインメタル社製の44口径120mm滑空砲(レオパルト2A0~A5)、55口径120mm滑空砲(レオパルト2A6~)を採用。最高速度は72km/h。冷戦終結後は余剰となった車両がヨーロッパ各国へ輸出され、ヨーロッパの標準戦車的な存在ともなっている。 登場から約40年経過しているが、2000年代に入っても新たな改良型

  • レオパルト2 - Wikipedia

    レオパルト2(Leopard 2、ドイツ語風の読みで「レオパート ツヴァイ」または「レオパート ツヴォー」)は、ドイツの第3世代主力戦車(MBT)。 1970年代にクラウス-マッファイ社を中心に開発され、1979年にそれまでのレオパルト1に代わる西ドイツ軍の主力戦車として運用が開始された。現在も東西統一後のドイツ軍を始め、ヨーロッパ13カ国、カナダ、チリ、インドネシア、シンガポールなど、ヨーロッパ以外の国々でさまざまなバージョンのレオパルト2が運用されている。一部の運用国は、レオパルト2の設計をライセンスされ、現地生産と国内開発を行っている。 レオパルト2には、大きく分けて2つの開発段階がある。最初のものはレオパルト2A4までの戦車で、砲塔の装甲が垂直方向を向いていることが特徴である。レオパルト2A5以降の第2世代では、砲塔部に楔型追加装甲が装備され、その他の改良も加えられている。全てのレ

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  • コーンウォール (重巡洋艦) - Wikipedia

    1924年10月9日にデヴォンポートで起工し、1926年3月11日に進水[1]。1928年5月8日に就役した[1]。中国艦隊の第5巡洋艦戦隊(英語版)に配備され、極東にむかう。 1929年10月、姉妹艦「ケント」や空母「ハーミーズ」等と共に日を訪問し、各艦は日列島の各地に寄港する[4]。「コーンウォール」は長崎県長崎港(8日~14日)[5]、大分県別府港(16日~21日)[6]、静岡県清水港(22日~30日)に入港した[7]。 1930年4月、「コーンウォール」は神奈川県横浜港(14日~22日)や[8]、兵庫県神戸港(23日~29日)に[9]、それぞれ寄港して滞在した。 1934年11月、イギリス艦隊が日各地を訪問する[10]。「コーンウォール」は横浜港(2日~12日)と[11]、神戸港(13日~19日)に[12]、それぞれ滞在した。 1935年10月、イギリス海軍の重巡「ドーセット

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  • カンバーランド (重巡洋艦) - Wikipedia

    HMS カンバーランド (HMS Cumberland, 57) は、イギリス海軍の重巡洋艦[注釈 2]。 カウンティ級(ケント級)[3]。艦名はイングランド北西部の歴史的カウンティ(英語版)、カンバーランドに由来し、イギリス海軍において同名の艦としては10代目にあたる[4]。 カンバーランドは1924年10月18日にバロー=イン=ファーネスのヴィッカース・アームストロング社造船所で起工し、1926年3月16日進水、1928年2月23日に就役した。 1930年の「カンバーランド」。艦体が白、上部構造物が黄の中国艦隊塗装が施されている。 1928年から1938年まで東南アジアを担当する中国艦隊 (The China Station) の第5巡洋艦戦隊(英語版)に配属された。その間には、幾度か大日帝国を訪問している。また香港で日艦隊を出迎えるなど、親善につとめた[注釈 3]。 1930年6

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  • ベリック (重巡洋艦) - Wikipedia

    フェアフィールド社で建造[1]。1924年9月15日起工[1]。1926年3月30日進水[1]。1927年7月12日竣工[1]。 1928年12月4日、横浜港で行われた御大礼特別観艦式に「ケント」「サフォーク」と共に参列。1936年まで中国艦隊に所属。1937年8月から1938年11月にかけて大規模な改装工事を受ける。第二次世界大戦初期は船団護衛に従事し、ノルウェーの戦いにも参加している。また、5月にはアイスランド侵攻に参加した。 1940年11月7日ジブラルタルに到着。地中海艦隊への増援の内の1隻としてアレクサンドリアへ向かった(コート作戦)。アレクサンドリア到着後、ギリシャへの兵員輸送に従事。11月27日、スパルティヴェント岬沖海戦に参加。Y砲塔に命中弾を受け戦死者7名を出した。 12月25日、中東へ向かう兵員輸送船団WS5Aの護衛中に、船団攻撃を試みたドイツ重巡洋艦「アドミラル・ヒッ

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  • ケント (重巡洋艦) - Wikipedia

    水線部:1 in (25 mm)主甲板:1.375 - 1.5 in (34.9 - 38.1 mm)バーベット:1 in (25 mm)砲塔:1 in (25 mm)水密隔壁:1 in (25 mm)弾薬庫:2 – 4.375 in (50.8 – 111.1 mm) チャタム工廠で建造され1924年11月15日に起工、1926年3月16日に進水し1928年6月25日に竣工した。 1928年12月4日、御大礼特別観艦式に姉妹艦「サフォーク」「ベリック」と共に参列する。 第二次世界大戦勃発時、「ケント」は中国艦隊の第5巡洋艦戦隊所属であった。ケントはインド洋での船団護衛などに従事し、1940年8月には地中海艦隊の第3巡洋艦戦隊に加わった。8月16日、戦艦「ウォースパイト」「マレーヤ」「ラミリーズ」や護衛の駆逐艦と共にアレクサンドリアから出撃し、17日に「ケント」と「ウォースパイト」はフォー

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  • ケント級重巡洋艦 - Wikipedia

    1922年に締結されたワシントン条約の制限に基づき、基準排水量は1万トン以下で主砲は20.3cm(8インチ)砲を搭載する条約型重巡洋艦として設計されたのが級である。1924年度計画において主砲の門数を主力戦艦と同じく8~9門にすると、当時のイギリス海軍の技術力では基準排水量の1万トンを超過するため、已む無く速力と防御力に目をつぶって火力と航続性能に重点を置いた設計を採った。しかし、内外から他国の同種艦に比べて舷側装甲が25mmしかないのは防御力不足と指摘を受け、就役後に一部の上部構造物を撤去して舷側装甲を増す作業があった。建造は1920年代後半から順次開始され、艦名に州名(カウンティ)が名づけられた事からカウンティ級と呼称されている。 英国巡洋艦の特性である巨大なシーレーン防御のため、高い航続力を有し、居住性と航洋性に優れていた。[1] 級の基設計はエメラルド級軽巡洋艦の延長であるが

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  • カウンティ級重巡洋艦 - Wikipedia

    カウンティ級重巡洋艦 (County class heavy cruiser) はイギリス海軍の重巡洋艦の艦級。両大戦の間に建造され、イギリス海軍とオーストラリア海軍で運用された。級はイギリス海軍における最初の条約型巡洋艦で、1922年のワシントン海軍軍縮条約の制限範囲内で設計された。 艦級の名称は、イギリス各地のカウンティの名称を艦名に採用していることに由来する。 なお、15隻が建造された級は、ケント級、ロンドン級、ノーフォーク級の3つのサブクラスに分類される。 主砲は新設計の「Mark VIII 8インチ(20.3cm)50口径砲(英語版)」である。116.1kgの砲弾を仰角45度で発射した場合に28,030mの最大射程。俯仰能力は仰角70度、俯角3度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右150度の旋回角度を持つ。発射速度は毎分6発であるが実用速度は3発程度であった。仰角

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  • ノーフォーク (重巡洋艦) - Wikipedia

    HMS ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) はイギリス海軍の重巡洋艦[1]。カウンティ級重巡洋艦だが[2]、艦と姉妹艦(英語版)の「ドーセットシャー」 (HMS Dorsetshire, 40) をサブグループとし、ノーフォーク級重巡洋艦に類別することもある[3]。艦名はノーフォークに因む。その名を持つ艦としては4隻目。 1941年5月23日夜にデンマーク海峡でドイツ海軍の戦艦「ビスマルク」を発見して追跡し[4][注釈 1]、27日に共同でビスマルクを撃沈した[注釈 2]。1943年12月26日、北岬沖海戦で僚艦(ベルファスト、シェフィールド)と共にドイツ戦艦「シャルンホルスト」を撃退し[8]、その後の撃沈に貢献した。 1927年7月にガバン(英語版)のフェアフィールド造船造機会社において起工され、1928年12月12日に進水した。就役は1930年4月30日だった。1931

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  • サフォーク (重巡洋艦) - Wikipedia

    ^ 1937年以降 ^ 1938年より ^ 1942年撤去 ^ a b 1942年以降 ^ イギリス海軍の重巡3隻以外に、アメリカ海軍(ピッツバーグ)、フランス海軍(ジュール・ミシュレ)、イタリア海軍(リビア)、オランダ海軍(ジャワ)が参列した[4]。 ^ ◎行幸[10] 天皇陛下ハ昨二日午前十時二十分御出門東京驛ヘ行幸同十時五十五分還幸アラセラレタリ/(略)◎英國皇族御入京 英國皇族グロスター公殿下昨二日横濱御箸港第四號繋船岸ヨリ御上陸午前九時四十五分横濱港發臨時汽車ニテ同十時三十五分東京驛御箸直ニ旅館霞關離宮ニ入ラセラレタリ ^ グロスター公は香港で「サフォーク」に乗艦し、日列島に向かった[11]。 ^ またアメリカ軽巡「トレントン」も横浜港に停泊しており[15]、交流に参加している[16]。 ^ 諸外国招待艦艇は艦のほかに[23]、アメリカ合衆国重巡「オーガスタ」、中華民国巡洋艦

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  • ゴトランド (巡洋艦) - Wikipedia

    ゴトランド(スウェーデン語: HM Kryssare Gotland)は、スウェーデンの巡洋艦[4]。艦名はゴットランド島に由来する[5]。 概要[編集] ゴドランドはバルト海での行動を前提とし[6]、1934年末に航空巡洋艦(flygplankryssare)として竣工した[2]。1944年に防空巡洋艦に改装された[2][7]。第二次世界大戦が終わると、練習艦や防空指揮艦として運用された[8]。 諸外国からも航空巡洋艦として認識され[注釈 1]、日海軍の利根型重巡洋艦や[10]、修理改装後の最上に影響を与えた[11][注釈 2]。 排水量の問題もあり、装甲防御・兵装・機関性能については抑制せざるを得ず、航空巡洋艦というよりは高速重武装の水上機母艦という性格が強い[13]。 1941年(昭和16年)5月20日、ゴトランドはライン演習作戦により大西洋に向かおうとしたドイツ海軍の戦艦ビスマル

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  • ヴィクトリアス (空母) - Wikipedia

    ヴィクトリアス (HMS Victorious, R38) は、イギリス海軍の航空母艦。イラストリアス級の2番艦[2]。 艦名のヴィクトリアス (Victorious) は「勝利した」という意味の形容詞であり、イギリス海軍において同名の軍艦としては4代目。 第二次世界大戦中にアメリカ海軍へ貸し出されていた時期があり、その際はコールサインとして「USSロビン」 (USS Robin) と呼称されていた[1]。他のイラストリアス級が1950年代で退役する中、艦のみは蒸気カタパルトやアングルド・デッキ装備といった近代化改修が実施されてジェット機運用能力を獲得し、1960年代後半まで運用された。 ヴィクトリアスはイギリス海軍が第二次世界大戦で運用した正規空母で、イラストリアス級の2番艦。1941年(昭和16年)3月末に竣工し、5月下旬にはドイツ戦艦「ビスマルク」の追撃作戦に参加する[3]。5月2

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  • ビスマルク (戦艦) - Wikipedia

    イギリスの補給線を断つライン演習作戦は、当初ビスマルク、重巡洋艦プリンツ・オイゲンに加え、戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが参加し、戦艦3 重巡洋艦1の強力な水上艦隊をもって行う予定であった。 しかし、作戦前にシャルンホルストは機関故障の修理でブレストに留まり、またグナイゼナウはブレストでイギリス軍雷撃機の攻撃を受け推進軸が損傷、修理のため参加が不可能となってしまった(この修理には6ヶ月を要したという) 。そのため、ビスマルク、プリンツ・オイゲンの2隻で作戦を行うこととなった。 ビスマルク戦隊は、1941年5月18日に出港、同隊の出港はイギリスの諜報員によって報告されていた。スカゲラク海峡でスウェーデン海軍の航空巡洋艦ゴトランドに発見される。ゴトランドは数時間の間ビスマルクを追尾し、スカゲラク海峡を通過し見失ったところでイギリス軍に報告した。 ビスマルクはその後マールスタイン島に向け回頭

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  • ティルピッツ (戦艦) - Wikipedia

    38cm(48.5口径)連装砲x4基 15cm(55口径)連装砲x6基 10.5cm(65口径)連装高射砲x8基 37mm(83口径)連装機関砲x8基 20mm(65口径)4連装機関砲x2基 20mm(65口径)単装機関砲x12基(1941年5月時) 舷側 315mm(水線面上部) 145mm(第一甲板舷側部) 170mm(水線面下部) 上甲板 50-80mm 装甲甲板 80-120mm 主砲塔 360mm(前盾) 220mm(側盾) 320mm(後盾) 130mm(天蓋) 副砲塔 100mm(前盾) 80mm(側盾) 40mm(後盾) 40mm(天蓋) バーベット部 340mm 司令塔 350mm(前盾) 350mm(側盾) 200mm(後盾) 220mm(天蓋) ティルピッツ(Tirpitz)は、第二次世界大戦時のドイツ海軍の戦艦(独:Schlachtschiff)。ビスマルク級の2番

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  • 雲龍【雲龍型航空母艦 一番艦】<br>Unryu【Unryu-class aircraft carrier First】

    量産型正規空母一番艦 戦果ゼロ 雲龍太平洋戦争が開戦し、予想外の快進撃を続けていた日ですが、その勢いは「ミッドウェー海戦」で衰えてしまいます。 世界最強の機動部隊を支えた空母6隻のうち、4隻が一夜にして沈没。悪夢でした。 アメリカはすでに最新鋭の戦艦や空母の大量建造を宣言しており、日は窮地に立たされていました。 近々運用される「米エセックス級航空母艦」に対向するため、また取り急ぎ、この4隻の穴埋めをしなければならないということで、計画・建造されたのがこの「雲龍型」です。 「雲龍型」は「改大鳳型」と合わせて20隻もの建造が計画され、駆逐艦並みの建造予定が立てられていました。 その一番艦【雲龍】は【飛龍】の改良版として登場します。 不評だった左舷艦橋を右舷に変更し、対空機銃の増備、また不燃性の塗料で塗装するなどの改良を持って、さらに工期を【飛龍】の3年より1年縮めて竣工しました。 出典:『

    雲龍【雲龍型航空母艦 一番艦】<br>Unryu【Unryu-class aircraft carrier First】
  • 天城【雲龍型航空母艦 二番艦】<br>Amagi【Amagi-class aircraft carrier Second】

    生まれ変わった天城 しかし活躍の場はすでになく日は太平洋戦争開戦から半年後の「ミッドウェー海戦」によって、日の快進撃の原動力となった空母4隻を唐突に失います。 その影響は瞬く間に戦線に表れ、連戦連勝の帝国海軍の姿はそこにはありませんでした。 手を緩めることのないアメリカに対抗すべく、日は【飛龍】をもとにして「雲龍型航空母艦」の大量生産に踏み切ります。 【天城】はその二番艦でした。 【天城】といえばかつて、「天城型巡洋戦艦」の一番艦として、【長門】以上の巡洋戦艦という異常なスペックを引っさげて海上を航行するはずでした その夢は「ワシントン海軍軍縮条約」によって潰えますが、急遽空母へ改造が決定、しかし改造中の関東大震災によって、【天城】は廃艦を余儀なくされました。 【天城】は再び日の窮地を救うべく、今度は純粋な空母として誕生しました。 ちなみに何故空母なのに神獣や鳥を元とした名前ではな

    天城【雲龍型航空母艦 二番艦】<br>Amagi【Amagi-class aircraft carrier Second】
  • 武蔵/Musashi:大日本帝国海軍 大和型超弩級戦艦2番艦

    戦艦『武蔵/むさし』は、大日帝国海軍が建造した大和型戦艦の2番艦。太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)において、最も長く連合艦隊旗艦を務めた艦艇であった。また、武蔵は、大日帝国海軍が建造した最後の戦艦としても知られる。1944年10月24日、シブヤン海海戦(レイテ沖海戦)にて戦没。 後に、戦艦武蔵は、世界最大の戦艦、最大の艦砲を搭載した軍艦、世界一被弾火薬量の多い軍艦の3項目それぞれにおいてギネス世界記録に認定された。 戦艦武蔵は、大日帝国海軍の指揮下のもと、姉妹艦の大和同様、長崎造船所にて極秘裏に建造された。戦艦武蔵と大和の違いとして、武蔵は大和において弱点とされた副砲塔周辺の防御力を強化している点が挙げられる。ただし後の改装においては大和と違い高角砲を充分に調達できず、大和が12基なのに対し武蔵は6基と、最終的な対空戦闘能力はやや劣っていたと推測できる。 建造期間中の機密に関

  • 大和/Yamato:大日本帝国海軍 大和型超弩級戦艦1番艦

    史上最大の戦艦『大和/やまと』は、大日帝国海軍が当時の日の最高技術をもって建造した大和型戦艦の1番艦である。艦名は奈良県の旧国名である大和国に由来する。太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)開戦後に連合艦隊旗艦も務めたが、常に後方にいたためあまり出番はなかった。天一号作戦(菊水作戦)のもと水上特攻を行い、坊ノ岬沖海戦にて爆沈した。 戦艦大和は、大日帝国海軍が最後に建造した戦艦の艦型「大和型戦艦」の1番艦である。その大きさは全長263m、主砲46cm、排水量69,000t(公試)と世界最大。主砲の射程についても、最大射程距離が42,000m(42km)とトップクラス。現在でも戦艦大和は、その大きさに関しては世界最大級を維持している。 さらに冷房完備、冷凍庫設置など、大和には当時の最先端の技術が詰め込まれ、日技術の集大成ともいえる戦艦であった。ちなみに各船室の冷房は、火薬庫の冷却装

  • 大和型戦艦/Yamato class:大日本帝国海軍超弩級戦艦

    大和型戦艦とは、大日帝国海軍連合艦隊の超弩級戦艦の艦型を指す。大和、武蔵の2隻が建造され、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)の主要な海戦に参加した。1番艦大和、2番艦武蔵のほか、3番艦として信濃も起工したが、建造途中で航空母艦に改装された。 日海軍は、さらに改良型として改大和型戦艦、超大和型戦艦を計画していたとされるが、起工には至らなかった。 ■全長:263.0m ■全幅:38.9m ■乗員:3,332名 ■排水量:72,809t ■巡航能力 □速力:27.46kt □航続距離:13,334km(16kt) ■兵装 □45口径九四式46cm3連装砲 □60口径三年式15.5cm3連装砲 □40口径八九式12.7cmA1型改Ⅲ連装高角砲 □12cm28連装噴進砲(※武蔵) □九六式25mm3連装機銃 □九六式25mm単装機銃 □九三式13mm連装機銃 ■レーダー □二式2号電波探信

  • 金剛型戦艦/Kongo class:大日本帝国海軍超弩級戦艦

    金剛型戦艦は、太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)で活躍した大日帝国海軍連合艦隊の超弩級戦艦の艦型である。速力に優れていたことから、高速戦艦とも呼ばれていた。金剛、比叡、榛名、霧島の4隻が建造され、様々な作戦に投入された。ちなみに艦名は全て日の山の名前である。 ■全長:222m ■全幅:31.02m ■乗員:1,300名 ■排水量:32,000t ■巡航能力 □速力:30.0kt □航続距離:18,520km(18kt) ■戦時最終兵装 □45口径毘式35.6cm連装砲 □50口径四一式15.2cm単装砲 □40口径八九式12.7cm連装高角砲 □九六式25mm3連装機銃 □九六式25mm連装機銃 □九六式25mm単装機銃 □九六式13mm4連装機銃 ■レーダー □二式2号電波探信儀1型 □仮称2号電波探信儀2型 □三式1号電波探信儀3型 ■搭載機:3機 □九五式水上偵察機 1番艦