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2012年4月2日のブックマーク (26件)

  • キ201 (航空機) - Wikipedia

    キ201は、第二次世界大戦末期に大日帝国陸軍によって計画されたジェット戦闘襲撃機。キ201はキ番号、通称は火龍(かりゅう)。開発は中島飛行機。 概要[編集] キ201「火龍」は日陸軍初のジェット機として計画された。この機体は海軍の橘花と同様に、同盟国ドイツのメッサーシュミット Me262戦闘機を参考にしている。このため機の基礎形は、三角形の胴体断面、双発エンジンの翼下懸架方式などMe 262に酷似している。しかしスケール的に火龍はMe 262に比べ一回り大型で、逆に橘花は小型である。 海軍の橘花が計画段階から機関砲を一切装備せず(第二次試作機からは戦闘機型や複座偵察機型に装備予定)、対艦攻撃のみを考慮に入れ武装は唯一爆弾のみであったのに比べ、陸軍の火龍はあくまで搭載した4門の機関砲によりアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機迎撃を任務とする防空戦闘機、及び爆弾やタ弾にて連合軍の艦艇や地

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  • キ119 (航空機) - Wikipedia

    キ119は、日陸軍によって計画された戦闘爆撃機。設計は川崎航空機。設計開始が1945年3月だったため、設計途中で終戦を迎えた。 概要[編集] 1945年(昭和20年)3月に日陸軍は、川崎航空機に対して胴体下に爆弾を懸架して敵の艦船を攻撃し、攻撃後は敵の戦闘機と交戦できる新しい機種の開発を命じた。川崎では土井武夫技師を主任として開発を開始し、同年の6月には実物大のモックアップを完成させた。 提示された設計上の条件[1]は 単座で急降下速度800kmと空戦に必要な強度を持つこと エンジンは実用中のハ104を使用すること 航続距離は800Kg爆弾搭載で600km、特別装備では1200km 最低限度の武装は、20mm砲2門以上 急速量産の必要性から鍛造部品を極力さけ、かつ機械部品の点数削減に努める 整備の簡便性を追求 計画された機体は、全幅約14m、全長約12m、重量約6トンという巨体の単発機

  • キ93 (航空機) - Wikipedia

    言語 このWikipediaでは言語間リンクがページの先頭にある記事タイトルの向かい側に設置されています。ページの先頭をご覧ください。 キ93は、日陸軍によって、試作された地上攻撃機(襲撃機)である。設計は第一陸軍航空技術研究所。九九式襲撃機の後継機として開発されたが、試作機の完成が太平洋戦争末期だったために満足にテストも行えないまま終戦を迎えた。 概要[編集] 1943年(昭和18年)に陸軍は、当時旧式になりつつあった九九式襲撃機の後継機開発をキ102乙として川崎航空機に指示したが、これとは別に第一陸軍航空技術研究所で開発を開始したのがキ93である。陸軍からは、あくまで重火器搭載に関する「研究機」ではあるが、できれば実用機として完成させることと指示されていた。設計は1943年(昭和18年)7月から開始し、1945年(昭和20年)3月に陸軍航空工廠で試作1号機が完成した。 陸軍の技術部門

  • キ91 (航空機) - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "キ91" 航空機 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年4月) キ91とは、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)に日陸軍が川崎航空機(現川崎重工業航空宇宙システムカンパニー)に対して開発を指示した格的な四発大型爆撃機である。 概要[編集] 日陸軍ではキ85の開発を進めていた。この機体は海軍の「深山」を陸軍仕様に改修したものであった。しかし、1943年(昭和18年)7月、原型機の性能不足からキ85は試作中止が決定された。 中止に伴い、陸軍では改めて川崎航空機(以下川崎と省略)に対し、キ91の名称で長距離戦略爆撃

  • キ74 (航空機) - Wikipedia

    キ74 キ74は、第二次世界大戦後期に試作された大日帝国陸軍の偵察爆撃機。設計・製造はキ77 (A-26) に引き続き立川飛行機が行った。 概要[編集] 当初は戦争状態になかったものの、事実上の敵国の1つと考えられていたソビエト連邦用の長距離偵察機として開発が進められていたが、途中から戦略爆撃も可能な高高度偵察爆撃機に仕様が変更になった。連合国軍によるコードネームは「Patsy」。 総計14機製造され、連合国軍に占領されたサイパン空襲等の計画が立てられたが、実戦に参加することなく終戦を迎えた(マリアナ偵察を行ったという文献もあるが、戦果も含めて詳細は不明である)。 開発[編集] 1939年(昭和14年)に日陸軍は、立川飛行機に対して当時の仮想敵国だったソ連に対する、バイカル湖西岸に達する長距離偵察を目的とした偵察機の開発を命じた。立川飛行機では行動半径5,000 km、最大速度450

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  • キ71 (航空機) - Wikipedia

    キ71は、日陸軍によって試作された地上攻撃機(襲撃機)兼偵察機である。設計は陸軍航空技術研究所。九九式襲撃機の性能向上型として試作されたが、開発途中の昭和18年後半に、陸軍は軍偵察機を廃止し軍偵戦隊を戦闘機戦隊に改編することを決定したため、キ71は試作中止となった。 概要[編集] 昭和15年5月に制式兵器として制定された[1] キ51(九九式襲撃機)は機動性、稼働率とも優秀だったため、昭和15年にキ51の発動機をハ112に換装し、脚を引き込み式としたキ71が計画され、昭和16年1月23日に航技秘第98号で試作指示された。 設計は、陸軍航空技術研究所内におかれていた満州飛行機の設計特別班が行い、陸軍航空工廠で試作機3機を製作した。 九九式襲撃機からの一番大きく改修された点は、主脚を油圧式の引き込み式にしたことであった。主脚を格納するために、主翼の形状も改められた。また尾輪も引き込み式になっ

  • 四式重爆撃機 - Wikipedia

    四式重爆撃機(よんしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(計画名称)はキ67。愛称は飛龍(ひりゅう)。略称・呼称は四式重爆、四重、ロクナナなど。連合軍のコードネームはPeggy(ペギー)。開発・製造は三菱重工業。 概要[編集] 航空撃滅戦に適した九七式重爆撃機(キ21)以降の重爆撃機に対する運用思想から、機も重爆と称されながら同時代・同クラスの他国の機体と比べて爆弾の搭載量は低いが、強力なエンジンによる良好な飛行性能、急降下爆撃に耐える機体強度、長大な航続距離により大戦後期の実戦投入にも関わらず際立った活躍を見せた。 実戦に使用されたものでは、日陸軍が最後に開発した双発重爆撃機である。 特徴[編集] 機の開発に当たり、九七式重爆の欠点の一つであった縦安定性の不良を改善するため、機は前部胴体を長く設計されている。 搭載量を減らした機体に2000馬

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  • キ66 (航空機) - Wikipedia

    キ66は、日陸軍によって試作された急降下爆撃機である。製作は、川崎航空機。 概要[編集] 1941年(昭和16年)9月に日陸軍からの急降下爆撃機開発の要請を受けて、川崎航空機で設計を開始したのがキ66である。試作第1号機は、1942年(昭和17年)11月に完成した。 キ66は、九九式双発軽爆撃機とよく似た外見(両機とも設計は土井武夫技師)を持っていたが一回り小さく、左右の主翼下面にスノコ状のダイブブレーキを装備していた。これは、1939年(昭和14年)に陸軍が研究用にドイツから購入したユンカース Ju 87の物を参考にしたと思われる。爆弾搭載量は300~500kgで、腹部の爆弾倉に装備された。この他に、対地攻撃用と防御用に機銃を5丁装備していた。 側面画像 飛行審査は1943年(昭和18年)2月から開始された。飛行性能は概ね良好だったが、最大速度が九九式一型双発軽爆撃機より40km/h

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  • 一〇〇式重爆撃機 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "一〇〇式重爆撃機" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年1月) 一〇〇式重爆撃機(ひゃくしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日帝国陸軍の重爆撃機。キ番号(試作名称)はキ49。愛称は呑龍(どんりゅう)。略称・呼称は一〇〇式重爆、百式重爆、一〇〇重、百重、ヨンキュウなど。連合軍のコードネームはHelen(ヘレン)。開発・製造は中島飛行機。 開発[編集] 機名の由来[編集] 開発年は皇紀2600年にあたる1940年で、陸軍に制式採用されたのは1941年である。原則的には制式採用年に因み、一式重爆撃機と命名するのが

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  • 九九式襲撃機 - Wikipedia

    用途:攻撃機/偵察機 分類:襲撃機/軍偵察機 設計者:大木喬之助 製造者:三菱重工業 運用者: 大日帝国(日陸軍) 初飛行:1939年6月 生産数:2,385機(軍偵察機型を含む) 生産開始:1939年6月 運用状況:退役 九九式襲撃機(きゅうきゅうしきしゅうげきき)は、第二次世界大戦時の大日帝国陸軍の襲撃機(攻撃機)。キ番号(試作名称)はキ51。略称・呼称は九九襲、九九襲撃など。連合軍のコードネームは Sonia(ソニア)。開発・製造は三菱重工業。機の派生型として戦術偵察機である九九式軍偵察機(きゅうきゅうしきぐんていさつき。キ番号は同じくキ51。略称・呼称は九九式軍偵、九九軍偵など)が存在し、項ではその両機について詳述する。 襲撃機[編集] 「襲撃機」とは、1938年(昭和13年)1月に参謀部から陸軍省に提出された「次期飛行機ノ性能等ニ関スル作戦上ノ要望」の中ではじめて明文

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  • 九九式双発軽爆撃機 - Wikipedia

    九九式双発軽爆撃機(きゅうきゅうしきそうはつけいばくげきき)は、大日帝国陸軍の爆撃機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ48。愛称はキンギョ。略称・呼称は九九式双(発)軽爆、九九(式)双軽、九九軽爆、双軽、ヨンハチ、など。連合軍のコードネームはLily(リリー)。開発・製造は川崎航空機。九九式双軽爆撃機とも言われるが、制式名称は「九九式双発軽爆撃機」である。 概要[編集] 帝国陸軍が当時仮想敵国としていたソビエト労農赤軍との戦闘を意識して、赤軍や中華民国空軍のSB軽爆撃機を元に開発した機体である。 爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視され、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし、敵地上部隊に対しては反復攻撃でこれを撃破するという、重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。 日中戦争(支那事変)、太平洋戦争(大東亜戦争

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  • 剣 (航空機) - Wikipedia

    用途:特攻兵器 分類:特殊攻撃機 設計者:青木邦弘 製造者:中島飛行機 運用者:大日帝国陸軍 初飛行:1945年3月 生産数:不明(115機説が有力) 生産開始:1945年 運用開始:1945年 キ115 「剣」(つるぎ)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期に大日帝国陸軍が開発した航空機であり、特攻兵器のひとつである[1]。 キ115は帝国陸軍における名称であり、エンジンをハ33(金星)に換装した海軍型は「藤花」(とうか)の名称で呼ばれる予定になっていた[2][1][3]。 設計・製造は中島飛行機。生産は昭和飛行機工業と艦政部も担当している[4]。 概要[編集] 設計者の青木邦弘によれば、フィリピン防衛軍司令官に任じられた山下奉文大将の「われに剣を与えよ」との演説にちなんで「剣」と命名された[5]。 大戦末期の資材不足の時期に開発されたため、特に不足していたジュラルミンを使わず鋼や木材の

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  • 梅花 (航空機) - Wikipedia

    梅花(ばいか)は大日帝国海軍が太平洋戦争中に計画した特殊攻撃機である[注釈 1]。特攻兵器として1945年(昭和20年)7月より開発を開始したが、設計途中で終戦となった。 開発[編集] 既に1944年(昭和19年)には、ドイツ空軍でFi-103(V-1)を有人化して対艦攻撃に用いるFi-103Rライヒェンベルクが開発、製造されていた。大日帝国海軍でも、敵の上陸用舟艇を攻撃する特攻滑空機[注釈 1]を開発することとなり、川西航空機が藤井巧男技師を主務者として開発に着手していた[1]。 その頃、東京帝国大学航空研究所では所長の中西不二夫博士らがラムジェットエンジンを開発していた。1945年(昭和20年)7月、同じ東大航空研究所の小川太一郎博士らがそのラムジェットエンジンを搭載した量産向きの特攻機の計画を提案したことが「梅花」の始まりである[2]。 こうして設計は急ピッチで進められたが、1ヶ

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  • 桜花 (航空機) - Wikipedia

    スミソニアン博物館ウドバー・ヘイジー・センターに展示される桜花二二型 「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日海軍では土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。 秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空部伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された[3]。初戦果を報じた1945年5月28日の新聞では、

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  • 橘花 (航空機) - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年4月) 橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日帝国海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機[注釈 1]。日初の純国産ジェット機である。エンジン開発は主に空技廠が担当し、機体を中島飛行機が開発製造。 試作型はネ12B装備のものを「試製橘花」、ネ20装備のものを「試製橘花改」と呼ぶ。 概要[編集] 開発[編集] 試製 橘花 橘花の開発は、空技廠の中口博海軍技術大尉(後の千葉工業大学教授)の指導のもと、松村健一技師を主任とし、これに大野和男技師らが協力して設計試作が始まった。試作機のテストパイロットは高岡迪海軍少佐が務めた[1]。 1944年(昭和19年)8月、日は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開

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  • 明星 (航空機) - Wikipedia

    明星(みょうじょう)は、大日帝国海軍(以下、海軍)の航空技術廠(以下、空技廠)が試作した木製爆撃機。型式名D3Y1-K。 木製双発高速機デ・ハビランド モスキートの活躍に刺激を受けた海軍が、習作として九九式艦上爆撃機の木製化を企図し、空技廠でほぼ全面的に改設計したもの。松下飛行機株式会社の松下幸之助が軍の要請で設立した木製機専用工場で太平洋戦争末期に4機が完成し、試験中に終戦を迎えた。 概要[編集] 南方輸送路の維持が困難になった1943年頃よりジュラルミン素材の欠乏が深刻化したため、海軍ではモスキートにならった木製機を計画し、空技廠が旧態化著しい九九式艦上爆撃機を基にした爆撃機の木製化に着手した。従前金属製の九九式練習用爆撃機(D3A2-K)も併行して試作された。 原型機をそのまま木製化することは不可能だったため、強度の確保と工作性の向上を主眼に大幅に改設計された。主翼と尾翼は楕円テー

  • 晴嵐 - Wikipedia

    晴嵐(せいらん)は、大日帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した水上攻撃機。設計生産は愛知航空機、略符号はM6A1[1]。 伊四百型潜水艦による戦略爆撃の目的で開発された、小型軽量の急降下爆撃が可能な潜水艦搭載用の水上攻撃機(海軍での分類は特殊攻撃機)。昭和18年(1943年)11月に初号機完成。だが1944年9月でも実験飛行の段階だった[2]。第六三一海軍航空隊(1944年12月15日編制)で運用された[3]。 概要[編集] 開発経緯[編集] 第一次世界大戦以降、日海軍は小型水上偵察機を搭載した潜水艦を建造した(潜水艦搭載偵察機)[4]。昭和初期、日海軍は「潜水艦を敵艦隊監視、追揮躡触接に用いる」という用法をおおむね確立[4]。潜水艦への小型水偵搭載は、潜水艦の偵察能力強化(監視能力強化)につながっていた[4]。 太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)1月、鈴木義尾軍令部第2部長か

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  • 銀河 (航空機) - Wikipedia

    用途:陸上爆撃機 設計者:海軍航空技術廠 山名正夫中佐、三木忠直少佐 製造者:中島飛行機 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1942年6月 生産数:1,102機 生産開始:1943年8月 退役:1945年8月 運用状況:退役 銀河(ぎんが)は大日帝国海軍(以下、海軍)が開発・実用化した双発爆撃機。海軍の航空機関連技術開発を統括する航空技術廠(以下、空技廠)が大型急降下爆撃機として開発した機体だが、一式陸上攻撃機(以下、一式陸攻)の後継機として太平洋戦争後半の戦いに投入された。連合国軍によるコードネームは「Frances」。連合軍は当初機を戦闘機と誤認して「Francis」という男性名を付けたが、爆撃機と判明した後に女性名である「Frances」に変更したという。 開発の経緯と名称[編集] 1939年(昭和14年)頃、海軍では将来の基地航空兵力には、ヨーロッパ戦線で活躍しているよ

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  • 泰山 (航空機) - Wikipedia

    十六試陸上攻撃機「泰山」(たいざん)は、一式陸上攻撃機の後継機として、昭和16年初めに日海軍が三菱に開発を指示した陸上攻撃機。略符号はG7M。 開発と中止までの経緯[編集] 三菱十二試中型陸上攻撃機(後の一式陸上攻撃機)の試作中であった昭和14年6月、十二試中攻のさらなる後継機として三菱十六試中型陸上攻撃機が計画され、これを受けて三菱重工業では昭和15年末ごろから予備研究が開始された。 昭和16年1月に海軍側が提示した要求原案の主な内容は以下のとおりである。 航続距離:攻撃時4,000海里(7,408km) 最大速度:300ノット(556km/h) 爆弾搭載量:1t 武装:20mm機銃×2、7.7mm機銃×3 離着陸滑走距離:600m 保安負荷倍数:5(急降下爆撃可能) 防弾:燃料槽半量防弾ゴム皮膜 乗員:4名 これは十二試中攻の1.4倍の速度、2.4倍の航続距離を持ちながら同等の搭載量

  • 一式陸上攻撃機 - Wikipedia

    用途:攻撃機(雷爆撃機、水平爆撃機) 分類:陸上攻撃機 設計者:庄季郎 製造者:三菱重工業 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1939年10月23日 生産数:2,435機 運用開始:1941年6月 退役:1945年 運用状況:退役 一式陸上攻撃機(いっしきりくじょうこうげきき / いちしき - )は大日帝国海軍の陸上攻撃機である。略称は一式陸攻(いっしき / いちしきりくこう、- りっこう)。日海軍の呼び名は中型攻撃機の略の、中攻。連合国側のコードネームは「Betty」(ベティー)。(Betty bomberが、一式陸攻の米軍側の名称)三菱重工業株式会社(改称前は三菱内燃機株式会社)の設計・製造。日中戦争・太平洋戦争で日海軍の主力攻撃機として使用された。 特徴[編集] 土上空を飛行する一式陸攻。 大直径の胴体内部に爆弾や魚雷を搭載し、胴体下の機体外部に搭載していた九六式陸

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  • 彗星 (航空機) - Wikipedia

    用途:艦上偵察機 分類:偵察機 設計者:海軍航空技術廠、山名正夫 製造者:愛知航空機 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1940年11月15日 生産開始:1941年11月 運用開始:1942年5月 運用状況:退役 彗星(すいせい)は、大日帝国海軍の艦上爆撃機。略符号はD4Y1~Y4。連合国軍のコードネームは「Judy」。試作機は十三試艦上爆撃機(じゅうさんしかんじょうばくげきき)であり、その改造機が二式艦上偵察機(にしきかんじょうていさつき)である。彗星と二式艦上偵察機の相違は曖昧である[1]。ここでは二式艦上偵察機についても述べる。 特徴[編集] 彗星の操縦席 彗星三三型 艦上爆撃機「彗星」と「二式艦上偵察機」は同じ十三試艦上爆撃機から制式化された機体である。一つの試作機から二つの制式機が採用されるのは珍しく、また相違について様々な意見が存在するが、明確に区分された特徴がなく曖

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  • 九九式艦上爆撃機 - Wikipedia

    用途:急降下爆撃機 分類:艦上爆撃機 設計者:五明得一郎、森盛重、尾崎紀男[1] 製造者:愛知時計電機のち愛知航空機、昭和飛行機工業 運用者: 大日帝国海軍 初飛行:1938年1月 生産数:1,486機 運用開始:1940年 退役:1945年 運用状況:退役 九九式艦上爆撃機(きゅうきゅうしきかんじょうばくげきき)は、昭和11年(1936年)「十一試艦上爆撃機」として試作が始まり、愛知航空機(1943年愛知時計電機から独立)が受注・生産を行い、太平洋戦争初期に活躍した、日海軍の艦上急降下爆撃機。略称は九九式艦爆、もしくは九九艦爆。記号はD3A。アメリカ側コードネームはVal(ヴァル)。 開発[編集] 十一試艦上爆撃機から一一型[編集] 当初海軍から試作の下命を受けたのは、中島飛行機・三菱航空機・愛知航空機であったが、三菱は早期に開発を断念し、中島と愛知が開発競争を行った。十一試艦上爆撃

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  • 流星 (航空機) - Wikipedia

    用途:攻撃機 分類:艦上攻撃機 設計者:尾崎紀男[1] 製造者:愛知航空機 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1942年12月 生産数:114機 生産開始:1942年 退役:1945年 運用状況:退役 艦上攻撃機「流星」は、太平洋戦争末期に登場した大日帝国海軍の艦上攻撃機である。設計・開発は愛知航空機。略符号はB7A。連合国によるコードネームはGrace。 概要[編集] 試製流星 多任務艦上攻撃機であり、急降下爆撃・水平爆撃・雷撃を行える。すなわち艦上爆撃機と艦上雷撃機の両機種の役割を兼ねる。 当時の空母は対艦攻撃用の航空機として艦上爆撃機と艦上攻撃機を搭載していた。しかし、両機種は活躍できる状況が異なるため、空母の限られた搭載機数を活用することは困難だった。それを解決するためにつくられたのが流星である。 主な仕様要求は以下の通りである。[2][3] 1機種にて艦攻艦爆を兼ね、水

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  • 天山 (航空機) - Wikipedia

    用途:艦上攻撃機 設計者:松村健一 製造者:中島飛行機 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1941年3月14日 生産数:1,266機 生産開始:1943年2月 運用開始:1943年7月(昭和18年:実戦配備) 退役:1945年8月(昭和20年:終戦時) 天山(てんざん)は、日海軍が九七式艦上攻撃機(以下、九七式艦攻)の後継機として開発・実戦配備した艦上攻撃機。機体略号はB6N。設計・生産は中島飛行機。連合国軍のコードネームは「Jill(ジル)」。 開発の流れ[編集] 昭和14年(1939年)10月、海軍は制式採用直前の九七式三号艦攻の後継艦上攻撃機として「十四試艦上攻撃機計画要求書」を中島飛行機に提示した。開発要求書に記載されていた内容は概ね以下のようなものだったとされる。 最高速度 463.0km/h以上 航続距離(雷装時) 3,334km以上 発動機 護または火星 これを受け

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  • 九七式艦上攻撃機 - Wikipedia

    用途:艦上攻撃機 設計者:中村勝治(B5N)[1]、高橋巳次郎(B5M)[2] 製造者:中島飛行機(B5N)、三菱重工業(B5M) 運用者: 大日帝国(日海軍) 初飛行:1937年1月8日(B5N)、1936年11月21日(B5M) 生産数:1,400機(B5N)、約150機(B5M) 運用状況:退役 九七式艦上攻撃機(きゅうななしきかんじょうこうげきき)は、日海軍の艦上攻撃機[3]。競争試作された2機種が両方とも採用されたため、この名を持つ飛行機には全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。略称は九七式艦攻または九七艦攻。アメリカ側のコードネームは、中島製の一号/三号がKate(ケイト)、三菱製の二号がMabel(メイベル)。 概要[編集] 昭和10年(1935年)に海軍が中島飛行機、三菱重工業に十試艦上攻撃機としての競争

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  • 九三式重爆撃機 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "九三式重爆撃機" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年4月) 九三式重爆撃機(きゅうさんしきじゅうばくげきき)は、1930年代中期の大日帝国陸軍の爆撃機。キ番号(試作名称)はキ1。略称・呼称は九三式重爆、九三重爆など。開発・製造は三菱重工業。 開発[編集] 1932年(昭和7年)4月に陸軍は、旧式化してきた八七式重爆撃機の後継機となる新型重爆撃機の試作を三菱に指示した。三菱では、ドイツから輸入したユンカースK37双発軽爆撃機をベースにこれを大型化する形で、1933年(昭和8年)3月に試作第1号機を完成させた。 設計[

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