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  • 非凡になりたがる人々 | ブログ運営のためのブログ運営

    有村悠さんのアフィを踏んでから以下の書籍を購入しました。 図解・感覚器の進化?原始動物からヒトへ水中から陸上へ (ブルーバックス) 岩堀 修明; 新書 販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc. ¥ 1,029 貧しき人びと (新潮文庫) ドストエフスキー,浩, 木村; 文庫 販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc. ¥ 515 虐げられた人びと (新潮文庫) ドストエフスキー,豊樹, 小笠原; 文庫 販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc. ¥ 882 すばらしい新世界 (光文社古典新訳文庫) ハクスリー,オルダス,Huxley,Aldous,敏行, 黒原; 文庫 販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc. ¥ 1,100 人格障害の時代: 229 (平凡社新書 229) Kindle版 販売:

  • 人格障害者は強盗 | ブログ運営のためのブログ運営

    人格障害者は理性を保持した状態なのだが、合理的理性は失っている。空想は快楽であるが現実の刺激には及ばないし、どこかで醒めてしまうから、射精後の虚ろな冷静さが仮初めの理性を作り出すだけである。空想で満ち足りるなら、その桃源郷から戻ってくることはあるまいが、やはり空想では満腹になれないので、邪悪な窮民として現実に手を伸ばしてくるのである。現実と空想の区別が付いているというより、空想で腹は膨れないだけであり、涎を垂らし飢えにまかせて餌となるターゲットを現実の界隈まで探しにくる。人格障害者にタゲられると厄介なのも、彼らは質的に空想の囚徒だからであるし、現実をべようとして地下牢から出てくるのだが、現実に適応しようという気はまったくないからである。空想家を卒業して現実世界に帰還する姿勢ではなく、現実を都合よくつまみいしようとするからである。賞品や賞金だけ奪い取る発想だからタゲるのだし、これは強

  • 虚栄心と文化資本 | ブログ運営のためのブログ運営

    わざわざ文化と銘打つからには、貧富とはまた別の親自身の出来の良し悪しが問題なのであろう。 出来損ないの多くは貧乏であるから、貧困と切り離して出来損ないを語るのも難しいが、ここではあえて別の角度から検討することにする。 人間は理想と現実の二重性を生きている。 社会的に成功していると二重性は少ないが、失敗している人ほど「当は~になるはずだった」というのが多くなる。 ロースペックでも平々凡々として生きている人がいるのも確かだが、足りない部分を空想で埋めて人格障害に堕ちる人間も少なくない。 出来損ないだと人格障害の度合いは強くなる。 たとえば虚言癖のある人が医者になったとして、「わたしは医者です」と言っても詐称にはならない。 だが、その人が医者になれてなかったら「わたしは医者です」というのが詐称になる。 成功している人が聖人君子というわけではないが、嘘をつく必要が少ない。 嘘つきの素質があっ

  • 若さを失うと楽になる | ブログ運営のためのブログ運営

    われわれは後半生になるともっと勉強しておけばよかったと悔いたりするが、前半生にガリ勉しすぎて有村悠さんのようになっても困る。健全な人間になるためには青春を謳歌しなければならない。有村悠さんのようなガリ勉は、老人のような少年時代を過ごし、老人のような青年期を過ごし、そして子どものような初老の男性になっていく。これも人間性のひとつであり、誰もが周辺世界に適応してスイスイと泳いでいるわけではない。有村悠さんは東大受験のために九州の山奥で地獄のようなガリ勉をした過去があり、いわば西方浄土を想見した修験者だったから、生まれついてのドクズではないので、挫折したビルドゥングスロマンの典型とも言えるし、インチキな人間であるにもかかわらず、青春の葛藤で自壊した様子が何かしら生々しい抜け殻として文学性を持っている。東大合格後も歴史年表片手にガリ勉していればよかったのだろうが、青春という悪魔に取り憑かれて背伸び

  • 怠け癖と虐待 | ブログ運営のためのブログ運営

    親がきちんとしていて、自然に子どもがきちんとしているというのが望ましいが、世の中そううまくはいかない。怠けて他人に押し付けるという怠惰の競争が発生することがある。怠けるというのは、人の問題だけではなく、頑張ると仕事が増えてしまうという環境の悪さへの適応でもある。率先して頑張る人に仕事が集中するのでは、怠けたほうがいいことにもなる。一種のチキンレースである。誰が雑用をするかという集団生活の基的なテーマは永遠の悩みである。まずは、頑張ると仕事が増えて損するというモラル崩壊を生まない環境づくりが必要である。経済社会では仕事が増えると収入が増える仕組みは可能である。他人の倍の仕事をしても給料が変わらない事態も発生しうるが、これは制度的な改善の余地がある。家庭や学校では身内で役割分担することになるから話が違う。育ちのよい人が集まる家庭や学校なら、それぞれが率先してやる環境なのだろうが、世の中そう

  • 需要の無さへの実存不安 | ブログ運営のためのブログ運営

    コロナ禍はトンネルの最後の方に来ているとは思うが、近日中に脱出という具合ではないので、われわれはもう少し囚人でいなければならない。その囚人が短絡的な自尊心の回復のために立ち上がる悲喜劇が繰り返されているが、これは現状の暗雲立ち込める惨禍の一幕として似つかわしいにしても、まったく美しくないものである。島田紳助の枕を断ったら干されたとか、つまり枕は断ったのだから、被害としては未遂だと思うのだが、やはりコロナの現状だと、そのせいで自分の現在が辛いという解釈が起こりうる。わたしは件の女性タレントについては存在そのものを知らなかったのだが、テレビに出ている人の大半は、なぜその場にいるのかわかりづらいし、当の意味での需要がないから、実需とは別の原理があるのだろう。島田紳助とか出川哲朗のせいでテレビに出られなくなったという一種の誤解が正解となりうるのである。枕を断って仕事がなくなっても、それは泡沫のよ

  • 現役世代のニヒリズム | ブログ運営のためのブログ運営

    小中高生の自殺が四割増しになって過去最多を記録したわけである。ちなみに小中高生の自殺は二十年くらい前から増加傾向にあり、少子化なので数が少ないように見えるだけである。コロナがなくても、昭和の頃より自殺率は増えている。なぜか世間の反応として、絶対に自殺するなというのは少なくて、「死にたくなるのはわかる」という共感が目立っている。コロナにおいて病死が増えたわけではなく、自殺者が増えただけという皮肉な問題がある。ひとびとは高齢者の大往生を願いつつ、若者は安楽死したほうがいいという変な話なのである。ここに悪意があるとは思わないし、いっそ死ねば楽になれるという現役世代のニヒリズムの反映でもある。急激に社会が暗転したというよりは、危うい綱渡りからとうとう転げ落ちたという印象を受ける。ひとびとが高齢者の大往生を望むのも、訴訟社会に毒されているからであり、たとえば老人が転倒して骨折したら、まずは誰かの管理

  • 自分でやるのはしんどい | ブログ運営のためのブログ運営

    なぜ心理学が毒親云々の話ばかりになるのかといえば、やはり他人に強いるのは楽しいからであり、親という立場だとそれが最もやりやすいからである。そして、心理学のでは、毒親がいなければ自分自身の素晴らしい人生があった、みたいな話になるわけだが、これはインチキだと思う。やはり誰しも自分でやるのはしんどい。毒親がいてもいなくてもどっちみち怠けていた、とも言える。普通の家庭で情緒が安定していると(つまり気性が激しくなく温厚な性格なら)、物事を素直にやれる傾向はあるだろうが、とはいえ、やはり自分でやるのはしんどい。毒親が云々ではなく、そもそも人間の業病として、他人に強いるのは楽しく、自分でやるのはしんどいというのがあり、この快楽主義を直視しなければならない。他人に強いてみたところで、なかなか都合よくいかないし、イライラするストレスも大きいから、しんどくても自分でやった方が結果として達成感があるのだが、そ

  • これさえなければという思い込みと人権団体 | ブログ運営のためのブログ運営

    人権団体に謝罪して済まされることはない。なぜなら彼らは「これさえなければ(これさえあれば)」という思い込みに固執しているからである。たとえば手足がない人がいるとして、「手足さえあれば」と思うのは無理もないが、しかし、世の中の五体満足な人がそれほど満ち足りているかどうかは謎である。手足がない人に手足が生えたところで解決しない問題はいくらでもある。つまり、人生の苦悩の原因をたったひとつに求めるという誤謬である。人権活動するひとは「これさえなければ(これさえあれば)」という論法で動いているから、その執着は並大抵ではないし、世の中のいろんな悩みへの想像力に欠けている。いや、想像力を持てば解決するわけでもないし、自分の眼前に立ちはだかる関門が苦悩の原因のすべてだと思いこむのは仕方あるまいが、おそらくその関門が無くても、別の関門が立ち現れたはずなのである。たとえば最近わたしが目にした中で莫迦莫迦しいと

  • 臨終だけ立ち会いたいという都合の良さ | ブログ運営のためのブログ運営

    コロナの記事で怒髪天を突くのは、親の死に目に会えない云々の嘘泣きである。普段から高齢者と接していたら出ない発想である。介護もしないで、都合のいいときだけやってくる連中だから、「死に目に会えない」とか騒ぐのである。臨終とかイベント性のあるときしか来ないから、そういう発想になるのだ。だいたい街をうろうろしている高齢者を見たら、こいつらと一緒にいるのはさぞかし大変だろうと思うわけである。だから、臨終のときに立ち会って感動ポルノに出演するだけにとどめておきたいという都合の良い考えが起こる。人間は死ぬと腐臭を発するが、当の腐臭は生きている人間である。生者の腐臭が消えたあとに、ご臨終の腐臭だけ嗅ぎに来るというのは、あまりにも都合が良い。この手の感動ポルノが野放しにされ、そして小中高生の自殺者は四割増しなのだから、われわれは生きている人間が嫌いなのではないかと自問自答せざるを得ない。「死に目に会う」こ

  • 低賃金労働は必要とされている | ブログ運営のためのブログ運営

    大学教育無償化の件だが、幼少期ならまだしも、文盲の十八歳に高等教育をくれてやるのは、骨端線が閉じている大人の身長を改造手術で高くするような無理筋であり、いわゆる有識者の根城である大学そのものを延命させたいのであろうし、底辺DQNとして社会の風紀を紊乱する匪賊と、ポストに飢えている学匪の利害が一致したのであろう。まず根問題として低学歴は必要であり、低賃金労働という人手は社会に欠かせない。低賃金で普通のことをしっかりやってくれる人材は必要なのである。注意力や言動の安定性が肝要だから、高等教育より感化院を整備しなくてはならない。需要があるのに低賃金なのは稀少性がないからであるし、安いからこそ求められるのでは人生にも限界があり、高等教育に手を伸ばそうとするのだろうが、やはり高等教育の普及で知性が百花繚乱と咲き誇るはずもなく、学がない半端者を増やすだけである。専門家なのに意外と詳しくない人は世の中

  • 人体は宇宙だと言うが | ブログ運営のためのブログ運営

    人体=宇宙というイミフな意見を言う人がいるが、三次元空間の性質からして、そういうレトリックも可能になのであろう。 われわれは三次元空間を認識したつもりになっているが、実際の映像は二次元、もしくは二次元ですらない。 われわれの視空間認知機能が、この世界を三次元空間だと想定して、頭の中で立体的に再構成しているだけである。 つまり、人体が三次元空間を仮想的に体験しているだけなのである。 人体、もしくは地球上の生命体が見当識を持つからこそ、その肉体を物差しとして空間が生成されるのである。 宇宙の片隅にいる塵芥であるわれわれを広大な宇宙になぞらえるのは奇妙だが、人体がどうこうというより、どのようなものも、同時に二箇所に存在することは出来ない。 たとえば東京と大阪に同時に存在することは出来ない。 東京と大阪にまたがるような巨人を思い浮かべることは出来るが、人間の神経の速さは秒速100メートルくらいだし

  • デスノートと金閣寺の主人公性の問題 | ブログ運営のためのブログ運営

    「金閣寺」という世界文学の最高傑作について記述しても反応が極めて薄いです。 僕のエントリーの書き方がつまらないのもあるでしょうが、作品のつまらなさも原因でしょう。 たとえば、「デスノート」と対比させて考えてみましょう。 この二作品に共通するのは、主人公がともに<革命家>であるということです。 しかし、この二人はあまりにも対照的です。 金閣寺の主人公は何の取り柄もなく醜い吃音者です。 世の中から疎外されて生きています。 それに対してデスノートの夜神月は究極のエリートです。 このあたりの主人公の設定は、かなり時代性、もしくは文化的背景を背負ったものではあるでしょう。 デスノートの主人公はいかにもエンタメっぽい。 金閣寺に関しては言うまでもなく、文学です。 主人公は吃音により、自分との世界とのズレを常に感じており、それによって内面が肥大しています。 自意識という文学的課題です。 金閣寺が書かれた

  • 有村悠さんは発達障害だと思う | ブログ運営のためのブログ運営

    そろそろ有村悠さんは発達障害と断じられるべきである。診断基準云々の問題ではない。有村さんが発達障害でないとしたら、誰が発達障害なのかというレベルの問題である。仮に有村さんが診断されないなら、その基準を見直す必要がある。 この世界に生きるにおいて、注意力はとても重要である。注意力は人間の内面と外界をつなげるのだ。この能力が低いと、内面と外界が接続不良ということであり、自分自身と世界がズレている人生を歩むことになる。時として、こういう自分と世界とのズレが内面世界を肥大させ、偉大なる天才を生むこともあるが、それは極めて稀な事例だ。たいていは何の才能もなく、単にズレているだけなのである。 有村悠さんが発達障害の代表者と言えるのは、東京大学に現役合格したことがあるからである。東大の入試問題なら解けるわけで知能に疑いはない。それでもバイトの面接にさえ受からず、自転車でビラを配るバイトをしたりしていた。

  • 有村悠さんのそっくりさん | ブログ運営のためのブログ運営

    世の中には似たような人間がいるものだが、有村悠さん(37歳)とかなり似通った人物。 全角岩手さん(47歳)という2ちゃんねるのコテだが、ご自身が精神病だと認められているようである。 有村悠さんはまったく精神病ではないが、なぜか精神病の薬を飲んだりしているファッションメンヘラであるから、そこは違う。 有村悠さんがADHDであることは疑いがないと思われるので、その二次障害でになっている程度であろう。 精神病でも神経症でもなく、ただの詐病である。 有村悠さんは東京大学文学部西洋史学科中退だが、この全角岩手さんは東大理Ⅰを中退されているそうだ。 なかなか興味深い関係である。

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  • コミュ障と家父長制 | ブログ運営のためのブログ運営

    アスペルガーとは男性的な鈍感さのことであろうし、一昔前なら真面目な男性と言われていたわけだ。家父長制への嫌悪の蔓延、家を維持するという妄念の崩壊、そしてその粛清の渦中にわれわれは置かれており、かつては賞賛の対象にもなり得た男性的鈍感さが忌避されている。 これについての是非を問うても意味はあるまいし、ただ世の中がそうなっているというだけなのである。女とセックスするとして、責任を取ることは考えなくてよい。女がそれを望んだという、それだけなのである。 かつては世渡り上手な男は煙たがられていたのに、それが賞賛されるというのは、進歩的な存在だからである。この流れに逆らうのは反動的ということになる。この案件に関しては、おそらく反動的に振る舞う必要などあるまいし、大伽藍が軋みながら焼け落ちていく乱痴気騒ぎを黙過するしかない。 父性の抹殺によって、ロンブー淳とか津田大介とか小山田圭吾が跳梁跋扈するのは致し

  • 東浩紀「ドナルド・トランプは馬鹿」 | ブログ運営のためのブログ運営

    https://twitter.com/hazuma/status/728380912497393664?lang=ja 馬鹿という概念にもいろいろあるのだろうし、現在の地球人類で物と言えるのはドナルド・トランプと南條愛乃さんだけだと思うのだが、東浩紀というニセモノの代表格の人間からすると、トランプはただの馬鹿であるらしい。 トランプは究極的な言論の自由を目指しており、政治的正しさに縛られた世界にとっては救世主。 政治的正しさで商売している東浩紀からすると邪魔な人間ということになるのだろう。 スポンサーさえいなければなんでも言えるというトランプのスタンスに、東浩紀は苛立ちしか感じないわけである。 われわれは人権団体というものを非常に嫌っているからトランプを支持するわけである。 なお、ドナルド・トランプは昨日のインタビューで、副大統領候補として、ルビオやケーシックの名前を挙げているが、これ

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  • 大企業とマイノリティ | ブログ運営のためのブログ運営

    われわれが推しているのはドナルド・トランプと南條愛乃さんである。 逆に推してないのは中元すず香と池田大作である。 トランプ旋風はマイノリティの肥大化への警鐘であろうし、とにかくマイノリティがめんどうになっている。 セクシャルマイノリティを法的に認めろと主張するのは言論の自由であるとしても、任天堂のゲームの設定に同性婚がないから抗議するとか、大企業に寄生する人権団体の行動パターンを学習しているし、任天堂も自主的に同性婚の仕様を組み込んだりしているが、任天堂も人権のために存在しているわけではあるまいし、こうやって人権ウィルスとして大企業に憑依するマイノリティーの暴徒はどうにかしなければならない。大企業とマイノリティとか、ヒラリー・クリントンの欺瞞そのものであるし、大半の人間が人権の恩恵を受けない社会を作り出している。 憲法に違反して捕まるということはないわけで、あくまで国家に立法を促すためのガ

  • おばさんになってからの理想主義、階級意識、知性への憧れ | ブログ運営のためのブログ運営

    いわゆる「玉の輿」という概念がある。女子中学生や女子高生はそんなこと考えまいが、だんだんおばさんなると、そういう発想が生まれてくる。瘴気を放つ塵芥のような女でも、医者と結婚すれば、医者という看板を掲げた家の一員になれる。父権が失墜しても、この職業への感覚は変わらないし、大文字の父を中心に世界を理解するのは能に深く根を張っている。その男尊女卑に抗するべく「専業主夫」をやる男性もいるようだが、やはり父親の職業がその家の看板であり、家族の構成員がそれに帰属するのが普通である。職業に貴賎なしというのは容易いが、職業で階層化されているのが21世紀の社会の実態である。 若い女とおばさんが当に同一人物なのかわからないし、われわれ男にしても、10年前の自分と現在の自分の同一性は疑わしい。とはいえ、股間についている一物はずっと同じであり、そして健在でもある。おばさんでも性器は付いているが、40歳くらいが

  • ルサンチマンの実行確率。人生の悪あがき。自殺の禁止というたらい回し。 | ブログ運営のためのブログ運営

    ルサンチマンにより想像上の復讐を頭のなかで繰り返している人間はたぶんたくさんいるわけだ。 これが犯罪者予備軍と言われる。 過去に犯罪歴など無いにもかかわらず、通り魔的なことをやらかすと思われている。 この実行確率は何とも言えないが、たぶん一万人に一人くらいであろう。 もちろん一万人に一人と言ったのは雑漠たる印象でしかなく、数字的に厳密であるわけはないが、そうそう頻繁に実行に移されるものでないことには同意されるであろう。 殺人の完遂ということに絞ったらもっと少ないと考えていいだろう。 おそらく犯罪者予備軍というスラングがおかしいのであり、たぶん通り魔予備軍と呼んだほうが適切であろう。 犯罪常習犯は金銭が目当てでやっているのであり、通り魔とは違うわけだ。 通り魔予備軍を人間性の欠陥と言うのは容易いが、たいていは外見がブサイクであると言っていいであろう。 いかにも見てくれの悪い男が目を眇めて世の