豊臣秀吉方・石田三成軍勢2万の兵を迎え撃つ坂東武者が再び現代に蘇る 行田市観光PR隊「忍城(おしじょう)おもてなし甲冑隊(かっちゅうたい)」結成 ~ 7月25日、行田浮き城まつりで初出陣 ~ 行田市では、歴史小説「のぼうの城」(※1)(和田竜 著)の舞台にもなった忍城(おしじょう)の武将たちに扮して、行田の魅力を全国にPRする「忍城おもてなし甲冑隊」を、平成22年7月25日(日)に結成します。 画像URL: http://www.atpress.ne.jp/releases/15878/1_1.jpg 左から、酒巻靱負、柴崎和泉守、成田氏長、成田長親、正木丹波守利英 「忍城おもてなし甲冑隊」は、「のぼうの城」の映画化(※2)を契機に、埼玉県ふるさと雇用再生基金事業を活用し、一般から公募した12人のメンバーで編成されています。 行田市のイメージアップに向けたPR活動と市民のおもてなし意識向上
近江八幡市安土町にある国の特別史跡安土城跡の入り口に20日、観光客らがくつろぎ、安土城跡や関連施設を紹介するガイダンス施設が完成し、記念式典が行われた。 冨士谷英正市長らがテープカット。オルガン奏者の城奈緒美さんとソプラノの山本哲子さんがポルタティーフオルガンでいにしえの西洋音楽を響かせ、多くの利用を呼び掛けた。 施設は鉄骨モルタル造りの平屋で広さ127平方メートル。総工費5430万円。20年にわたる安土城跡の発掘調査の様子や信長の館、セミナリヨ跡など安土城関連施設が簡単に分かるビデオセットやパネルを展示。椅子やテーブル、多目的トイレも設置した。午前8時半~午後5時15分まで利用できる。【斎藤和夫】
企画・制作=神奈川新聞社営業局 神奈川新聞社は2月1日、おかげさまで創業120周年を迎えました。神奈川新聞社では、120周年という節目の年に、読者の皆さまとともに地元・神奈川の歴史を振り返ろうと2月2日から22日まで、私たちの地元で活躍した戦国武将・北条一族および一族にまつわる人物(家臣など)のイラストを募集するイラストコンテスト「戦国時代は北条氏に始まり北条氏に終わる」を実施しました。 神奈川県内外の北条一族ファンの皆さまから多数の応募をいただき、審査員による厳正な審査の結果、10作品を優秀作品として選定しました。また、優秀作品の中から5作品を「カナロコ」上に掲載し、読者の皆さまに、「この作品が好き」という作品に一票を投じていただきました。優秀作品と、読者による人気ナンバーワン作品をご紹介いたします。 ★三つ鱗賞 「北条 早雲」長屋 薫(横浜市磯子区) 【審査員のコメント】 戦国大名を誰
織田信長に仕えた戦国大名、筒井順慶の居城だった筒井城跡(奈良県大和郡山市)で、16世紀後半に埋め戻されたとみられる堀の遺構が見つかり、市教委が11日、発表した。城の取り壊しを命じた信長の「破城令」で天正8(1580)年に埋められたとする当時の文献の記述を裏付けており、市教委は「信長の破城政策を知る上で貴重な発見」としている。 堀の跡は、城主の館とみられる場所付近で確認。深さ約2・5メートル、幅約6メートルで、断面がV字形の「薬研(やげん)堀」だった。当時の神事で用いられた「かわらけ」と呼ばれる素焼きの小皿など、100点以上の土器も一緒に出土。市教委は、筒井城を廃絶する際の祭祀(さいし)で用いられ、堀とともに埋められた可能性が高いとみている。 筒井城は室町〜戦国時代の大和国の重要拠点。興福寺(奈良市)の僧侶で順慶とも親交があった多聞院英俊による「多聞院日記」の記述によると、信長は天正8年に郡
山形県村山市から山形県河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが宮城県白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。 見つかったのは1581年5月9日、長久が仙台藩重臣で伊達家の外交を担当した遠藤基信にあてた書状。 長久は書状の中で、大崎市を拠点としていた大崎義隆の上洛(じょうらく)に当たり、仙台藩の領内だった山形県置賜地方を通行できるよう願い出ていた。末尾には長久の直筆とみられる花押があった。 白石市内では昨年、遠藤家の子孫が暮らす民家に約6000点に上る古文書が保存されているのが見つかった。このうち約50点は戦国時代に諸大名が遠藤家初代の基信にあてた書状。この中に長久の書状も含まれていたという。 領民に慕われつつ悲運の
大阪狭山市教委は28日、狭山藩・北条氏の陣屋跡(同市狭山4)から、戦国大名・北条氏が多用した築城技術「障子堀」状の遺構を確認した、と発表した。関東で勢力を持った北条氏の城以外での確認例は少なく、市教委は「築城技術を知る上で貴重な資料」とする。現地説明会は開かない。 障子堀は、侵入者の足場を悪くするため、堀の底に段差を作るように掘り下げる技術。市教委が、陣屋の南表門周辺(南北10メートル、東西9メートル)を掘り進めたところ、堀(幅約4メートル、高さ約60センチ)の底部分に、約15センチの段差があるのを確認した。 市教委によると、狭山藩主は北条早雲の末裔(まつえい)が跡を継ぎ、陣屋は1643年頃に完成。古地図などから、障子堀は当初から作られたとみられ、市教委は「北条氏伝統の築城技術を採用した可能性が高い」とする。 北条氏に詳しい神奈川県立歴史博物館の鳥居和郎学芸員(戦国史)は、「北条氏が築城し
大阪狭山市狭山4丁目の狭山藩陣屋跡の発掘調査で、陣屋の南表門近くの堀が、底に凸凹がある「障子堀」状に築かれていることが確認されたと市教委が28日発表した。戦国大名の小田原北条氏が敵が攻めにくいように多用した工法で、市教委は、北条氏の流れをくむ狭山藩が伝統の築城技術を採用したとみている。 住宅建築に伴い約90平方メートルを調査したところ、幅約4メートル、深さ約0・6メートルの堀があり、堀の底に、畝のような高まりが東西に2本走っているのが確認された。市教委は、陣屋が完成した1643(寛永20)年前後に掘られた可能性が高いという。 攻め寄せる敵の動きを食い止める障子堀は戦国時代、小田原北条氏がよく使った工法。関東では多く見つかっているが、西日本では大阪城や小倉城など数例という。 狭山藩は、1590(天正18)年に豊臣秀吉に滅ぼされた小田原北条氏につながる家系。今回見つかった遺構は戦国時代の
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