トップ > 岐阜 > 6月1日の記事一覧 > 記事 【岐阜】 大地震で一夜に消えた帰雲城 調査20年、見つからぬ物証 2009年6月1日 今年も現地調査のため白川を訪れた調査会のメンバー=白川村保木脇で 400年前の大地震で一夜にして姿を消し「日本のポンペイ」とも称される帰雲(かえりぐも)城(白川村保木脇(ほぎわき))。城はどこにあるのか。村外者主体の有志グループが調査を続けて20年以上になるが、城郭遺構の手がかりはつかめない。最近、村内からこの活動を支援する動きが出始め、歴史ロマンはまだまだ途絶えそうもない。 「地震でほとんどが土に埋まっているが、そこには間違いなく誰かが住んでいた。その物証を探し当てたい」。調査会事務局の野田秀佳さん(37)=羽島市=は力を込めた。地震で一瞬にしてのみこまれた幻の城。真の姿に少しでも近づきたいとの思いが粘り強い調査に駆り立てている。 会員は
2009年05月28日(木) 市河家文書、県教委が購入 山本「勘助」にまつわる書状など91点 重文指定めざし調査研究 県教委は27日、「架空の人物」説もあった武田信玄の軍師・山本勘助(菅助)とみられる人物が登場する書状をはじめ、北信濃を支配していた豪族「市河家」に伝えられていた古文書「市河家文書」計91点を購入すると発表した。市河家は戦国時代に武田、上杉両家に仕えており、県教委学術文化財課は「室町、戦国時代の甲信越地方の政治情勢や甲斐国出身の豪族の盛衰を知る上で貴重な史料」としている。 「市河家」は平安・鎌倉時代に甲斐国市河荘(昭和町、中央市、市川三郷町)を本拠地としたと考えられている。鎌倉時代に信濃に移り、越後との国境を中心に勢力を持っていた。 史料は北海道釧路市在住の個人から購入。価格については「個人からの購入のため非公表」(同課)だが、関係者によると約2000万円とみ
ガイド会結成、畑谷城の魅力伝える 上杉、最上軍攻防の舞台 2009年05月13日 10:05 畑谷城入り口にある無料休憩所「ごへえ宿」。ガイドが待機し、訪れた観光客に対応する=山辺町畑谷 山辺町畑谷にある畑谷城を訪れる観光客に城の魅力を知ってもらおうと町観光協会などが中心となって「畑谷城ガイドの会」(後藤禮三会長)を結成した。畑谷城にまつわる歴史を学んだガイド12人が県内外から訪れる観光客をもてなしている。 畑谷城は畑谷の館山(549メートル)に江口五兵衛光清(あききよ)が築城した山城。1600(慶長5)年9月、上杉藩の武将・直江兼続が2万人の大軍を率いて山形城主・最上義光を攻めてきた際、義光の家臣である江口光清が自軍の兵士約500人の命を犠牲にして迎え撃った場所として知られる。 NHK大河ドラマ「天地人」放映前の昨年秋から観光客が増えてきたため、町観光協会天地人部会(後藤禮
「太田道灌状」は太田道灌が文明12年11月に、山内上杉氏の家人、高瀬民部少輔に宛てた書状であるとされているが、高瀬民部少輔は本当に山内上杉氏の家臣なのか。高瀬民部少輔について書かれた資料を探している。 高瀬民部少輔の名がみられる資料は、いずれも太田道灌が書状を送った相手として記述されている資料で、山内上杉氏の家人という通説以外に記述は見あたらなかった。また、高瀬民部少輔について詳しく書かれた資料は見あたらなかった。 『埼玉叢書 4 新訂増補』(国書刊行会 1971) p3「太田道灌状」の解題によると、「太田道灌が文明12年11月に山内上杉氏の家人高瀬民部少輔に宛てた書状で」とあり。p324「太田道灌状」の最後の部分に、「謹上 高瀬民部少輔(別本『式部丞』)殿(原注『山内家人』)」とあり。 『太田氏の研究 関東武士研究叢書 3』(名著出版 1975) p293「高瀬は山内上杉の相当の家人であ
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信玄(晴信)が菅助にあてた書状の一部。左端に「山本菅助との」とあり、その右隣に信玄の花押がある(県立博物館提供) 戦国時代の武将武田信玄(晴信)に仕えた「軍師・山本勘助」が実在したか注目される中、信玄が家臣山本菅助にあてた書状が、群馬県安中市の民家で見つかった。山梨県立博物館の調査によると、信玄が菅助に褒美を与えたり、家臣の見舞いを命じた内容の2通で、信玄の花押(署名)が入り、「山本菅助」と記されていた。これまで菅助の存在を示す史料は1969年に北海道で見つかった、信玄が奥信濃の市河氏にあてた書状「市河文書」だけだった。県立博物館は「『山本菅助』という名の人物がいたことは間違いなく、菅助の人物像や功績などを研究する上で貴重な史料」としている。 名前の字が異なる「山本勘助」は、江戸時代の軍事書「甲陽軍鑑」などに有能な軍師として登場するが、実在を裏付ける学術的な史料はなく、一家臣として
西方町に戦国時代に存在した「西方城」を、元町職員の大森章博さん(60)が500分の1サイズの模型で復元し=写真=、中央公民館(西方町本城)ロビーで展示している。町は西方城跡の調査保護活動に3年計画で取り組んでおり、模型展示はその一環だ。大森さんは「模型を見て当時の様子を想像しながら、実際に城跡を歩いてほしい」と話している。 西方城は、宇都宮氏の一族だった西方氏の山城とされる。築城時期を始め不明な点が多いが、戦国時代に存在していたことが当時の文書で確認されている。宇都宮氏の領地と、敵対する皆川氏や壬生氏の領地との境に位置し、宇都宮領の西の防衛拠点だったとされる。 町は08年度から、県のわがまち自慢推進事業として、城跡調査などを行い、町文化財愛護ボランティアの大森さんに模型製作を依頼した。 模型作りは未経験の大森さんだが、趣味の彫刻で培った器用さを生かし、毎日3時間以上も没頭した。現在の城跡は
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