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ブックマーク / katsumushi.hatenadiary.com (6)

  • 好奇の心 - 勝虫日記

    今日たまたまドラッグストアの前で、子供が毛虫を木の枝でつっついているという場面に出くわした。どこにでもある風景どころか、あまりにも型どおりな好奇心の発露である。子供が野球帽を逆さにかぶって、しゃがみこんでつっついている姿は、微笑ましいわけだが、僕の年齢*1になってやっていると、きっと好奇の目で見られるだろう。そこで一緒につつくのをがまんして、あたたかい眼差しを送っていた。誰も見ていないような場所なら心おきなくやるのに。 科学の心は、まずはじっと観察である。それで、次は操作である。ちょっかいを出して反応を観る。彼が道端でやっていることは、科学的営為そのものである。と、キモい目で観られたら言い訳をすることにしよう。そして、余計に気持ち悪がられるだろうな。 そして、きっと「なぜ、そんな研究するの?」に対して、まじめに、今のようなことを説明すると、ますます、相手の好奇の心はエスカレートする。そんな

    好奇の心 - 勝虫日記
    mind
    mind 2007/10/19
    ――そこに毛虫(blackBoxなλ)が観えるから突っつくのさω! キレイな小石も集めたよねぇ…とブクマ。
  • 情報について学ぶ(1) - 勝虫日記

    情報という言葉は、いろいろな場面で使われる。ネットの情報、TVの情報、個人情報、などなど。 情報をキーワードとする研究も各方面でなされている。僕も動物の神経を扱うにあたって、情報ということを考えはするが、情報について学ぶのをさぼってきた*1。 情報について 情報とは何だろうか? 日語としての情報 「情報」という日語は、もともと森 鴎外が、クラウゼヴィッツ(Clausewitz)著『戦争論』の翻訳書(『大戦学理』)で Nachricht の訳語として使用してから一般に使われるようになった用語であり、敵や戦場に関する情況の報告(敵情報告)という意味で用いられた。 http://www.rsch.tuis.ac.jp/~sekiguch/lecture/shiryo/joho.gainen.html ここで、森鴎外が出てくるとは思わなかった。が、やはり、戦争において情報がシビアに必要になるの

    mind
    mind 2007/08/03
    ――cf.真理論 <情報実在論: 客観的情報と主観的情報;ベイズっぽい <整合した統一システムの情報;記号論理っぽい。 <意思決定に役に立つ実用的情報;ゲームっぽい
  • 主観も客観も観る人がいる - 勝虫日記

    <人間の主観を客観で理解できるか>というエントリについて、簡単にどう読み取ったかまとめると 書き出しは、主観と客観を通して芸術をどう観るかということを交えて、筆者の見解が続く。そして自然科学の合理性が社会科学に当てはまるかについて書かれ、最後の方は、殺人事件に関するニュースに関する言及となり、<いかに社会現象を客観的に扱うか>という問題意識に移って行ったと読み取れた。 全体の内容についてのコメントではないのだが*1、以下の記述に対して、疑問に思ったことがあるので、考える。 主観の範囲で判断して差し支えない対象・客観的基準が見出せる対象・客観的基準が見出せないので主観的にしか捉えることの出来ない対象、等々を意識して自分の周りを眺めることで、科学的な認識を高めていくことが出来るのではないかと思う。自然科学の対象は、主観をほぼ完全に排することが出来るので、100%客観的な科学が成立するといえるの

    主観も客観も観る人がいる - 勝虫日記
    mind
    mind 2007/06/11
    ――客観<主観性にも連続した程度のさまざまなレベルがあるとは言えそう。; 実在論 < … < 普遍(共通認識)論 < 認識論 < メタ…主観論
  • 抽象は隠すことで、捨てることではない - 勝虫日記

    抽象化されたモノは、あるモノから抜き出して他のモノを捨てるというものではないと思う。たしかに、素のモノを再現できるかというとできないわけだが、それは、抽象されたモノからは出てこないだけで、抽象されたモノを手がかりに探すことはできるからだ。 たくさんデータをとって、そこから図表ををつくるというところまでやると、たしかに図表から素データは出てこないが、素データに到達することはできるわけで。単に隠されているだけだ。「一を聞いて、十を知る」というのは、そういうことをやっている。ただ、それができない抽象化されたモノはたくさんある。そういう場合、隠されたところには、どうしても到達できないから、隠されたことに気がつかなくて、ただあるモノしか見えない。だから、「分からない」ということが生じる。 一度同じことを考えたことがある人しか、分からないだろう、などと言うのは、抽象化された結果しか見せてないからで、素

    抽象は隠すことで、捨てることではない - 勝虫日記
    mind
    mind 2007/03/11
    りんごetc「ひとつ、ふたつ、みっつ、、」と数えたことがないのに「数」なんて分からない…動物には「数」なんてない ――単進法で3~7コぐらいは数えられるみたい。 //cf. {不可逆圧縮 (?≡捨象)と、可逆圧縮 (?≡抽象)
  • 抽象化するということ - 勝虫日記

    さきに告白すると、抽象化するというのは、どういうことか、はっきりとは分からない。というより、分かるというレベルをちょっと高く置いておきたい。抽象化されたモノ、ふつうは、概念とか観念とか言ったりするけれども、その実体が何なのか*1。 我々は、指でも自分の名前は書けるし、足でも自分の名前は書ける。これの意味するところは何か、生理学的、科学的興味がわく。何らかの神経プロセスとして物理的にどう実現されているかと。おそらく、何らかの幾何学的なモノとして実現されているだろうが、まだまだ分からないところだ。 少なくとも、この例から、記号というのは、一つの行動として現れるというのは、たしかだ。感覚によって捨象されて、ひとつのモノとして表現される「自分の名前」がプロセスとして存在しているまでを「抽象」だというよりは、行動として表すということを抽象だと考えたい。先の例で言うと、「名前を書く」ということ。表すと

    抽象化するということ - 勝虫日記
    mind
    mind 2007/03/11
    「あなたに、私の何が分かるのか?」というセリフ //感覚で捨象し、行動で抽象する。 ――行動は具体化のように思えるけど…?
  • ■ - 勝虫日記

    とりあえず「正しいって、どういうこと?」に対するマッハの答え。 自分で下した判断なり他人から伝達された判断なりが、それのかかわる物理的ないし心理的な実状に適合し対応していることが分かるとき、そのような判断を正しいと呼び、特にその判断がわれわれにとって新しくまた重要である場合、これをもって認識であると認める。認識というものは、われわれにとって直接的にせよ間接的にせよ、生物学的に有益な心理体験である。これに反して、判断がそのようなものではないことがはっきりしているとき、われわれはそれを誤謬と呼ぶ。 同一の心理的ないし生理的過程についての理解を掘り下げないといけない。あとがきにおいて訳者の廣松氏があげている三つの法則、 恒常性の原理ないし連続性の原理 充足規定の原理ないし充足分化の原理 確率の原理 をまずは、留めておく。 重要だと思うのは、正しさというものを生物学的な適応という考え方で説明してい

    ■ - 勝虫日記
    mind
    mind 2007/03/11
    正しさというものを生物学的な適応という考え方で説明 ――(真理の)実用説っぽい。「認識」という点は、反映説っぽい。
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