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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (19)

  • 公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    公平・公正の判断の基準なんて、考えたこともなかったな。 なぜなら、公平・公正を一人の個人が判断できると思わないから。 一人の個人が基準を決める、あるいは判断することは不可能だと思っていたから。 公平とか公正とかいうのは、多角形の重心みたいなものじゃないかと思っている。どの頂点にも、決してそれは存在しない。多数の頂点間のバランスをとるためには、それらの頂点ではない場所を支えるしかない。 ということは、どの頂点から見ても、そこは遠い。 公平らしきもの、公正らしきもの、それっぽい擬似的なものは、人間にも作れるのだろうと思う。 しかし、真の公平・公正の基準は、人間には作れないと思う。すべての人間が感情や人生や経験や異なる属性・環境をもっている限り。 作れるとしたら、人間ではない、外部の存在にだけ。 だから、よく「神様は不公平だ」って言うんだよ。 真の公平・公正は、どの頂点からも遠くて、誰もが必ず多

    公平・公正の基準 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/11/24
    ――人間の動物学的特質とか、認知主体としての性質…まで遡ったら普遍的に妥当なルール/自然法も発見できよう…。とはいえ、人間は自分の遺伝子さえ組替えてしまう能力を持つからやはり空虚なぐるぐるが残るまで。
  • 私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また

    自分は自分の目でしかものを見ることはできない。 自分は自分の頭でしかものを考えることはできない。 公平に、公正に自分自身の偏りをできるだけ離れてものを考えようとするとき、できることは、さまざまな異なった立場にたつ自分を想像してみることだ。 しかし、それを想像することができたとしても、同じ立場にたつ別の人と同じように感じ考えるとは限らない。別の人間であり、別の心をもつ以上、全く同じにはならない。まるっきり別のことを感じ考える場合もある。 だから、どんなに他の人を理解しようとしても、理解できないこともある。私がその立場なら、きっとそうは考えない、と。 お前にはわからないんだ、と言われれば、そういうことだ。わからない。私にはわからない。私ではわからない。 そのこと自体は、いけないことでもなんでもない。ただ、わからないだけだ。 大事なことは、わかろうとしてもわからないことが存在する、ということを認

    私ではわからない - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/11/23
    解ろうとしても解らないことが存在する、と認める ――勇気を出していっしょに暮らせば解ることもある。 …らしい; ――容赦ない愛と、寛容な無関心と、その間をぐるぐる揺れ。 (価値相対主義/多文化主義の話です><
  • 悪意について。悪意とは。 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    誰かに殴られたから、殴り返した。この殴り返したくなる感情は、悪意ではない。殴られれば怒ってやり返したくなるのは当然。 別に何も相手から危害を加えられてもいず、相手に対して怒りも感じていないのに、その相手を積極的に傷害してやりたい、と感じるのは、悪意だろう。 悪意が生ずる、悪意が成立するのは、相手あってのことだ。自分ひとりの中でどろどろとした感情を練り上げても、それが別の誰か(単独の人物とは限らない)に向かうベクトルを持たない限り、悪意という形はとらない。 一方、それゆえに悪意は表現形で判断されるものであり、ある行為について悪意の有無が取り沙汰されることがある。もともと悪意があったかなかったか、ではなく、表現形が悪意的であったかなかったか、のほうが重要である、という観点が存在するわけだ。 なにより、なぜ悪意は存在するのだろう。 幼い子どもに悪意は存在しない。子どもは無垢だ、という意味では全く

    悪意について。悪意とは。 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/10/24
    ――同じ罪でも悪意ミエミエだと情状芳しくないよね…。 //――"純粋な(抑止の「ための」)報復 TitForTat"に人(々)はどのように悪意を見出すのだろうか@@? オヤシロサマ? 人狼??
  • 無関心突出型非コミュについて - 深く考えないで捨てるように書く、また

    昨日話題になっていたこれをやってみた。 socioarc | 非コミュ指数テスト 結果は自分のブックマークコメントにも書いたけれど、こんなふう。 非コミュ指数: 26(レベル1/軽度非コミュ/無関心型) 無関心度だけ突出してほぼリミットまで伸びてる。 結果自体は予想通りというか、小学生時分から、大切な人々とどうでもいい人々(自分にとってコミュニケーションに労を割く意義のない人々)の区分けがはっきりしている質だという自覚があるので、まあ当然こうなるだろうなぁ、というものであった。 それはいいのだが、自分としては、それが非コミュの要素だという気がしない。 だって、それで困っていないもの。自分も(たぶん)相手も。 日常生活の中で、基的に必要なコミュニケーションはできてるわけだ。そう苦労しているわけでもない。今は仕事をしていないが、以前仕事をしているときも、特別コミュニケーションで困ったことはな

    無関心突出型非コミュについて - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/09/05
    (非コミュかどうかという)判断は自分が自分自身に対して行う ――負コミュ(コンプレックス型)。//純粋な「無関心型」は、「私は非コミュ」と自分を規定するケースが少ない ――無関心型は、浮コミュ(はぐれコミュ型)。
  • ともだちおやこ - 深く考えないで捨てるように書く、また

    よくあちこちで「友達母娘」というのを見聞きする。母と娘(10代後半以降)で仲良く連れ立ってショッピングやらイベントやらに出かけたり、服やアイテムを貸し借りしたりするというようなあれ。 自分の場合、10代のころはあまりなかったが、20代後半以降になると、急激に母との距離が縮まった感がある。その前は子どもと大人だったのが、どっちも同じ大人属性に入ったからだろうか。妹もそうだったようで、いまいち母と反りが合わないのにもかかわらず、実家にいるときによく母と妹で(父は行きたがらず留守番。私は仕事があるので行けない)海外やら国内遠方やらに旅行に出かけていたものだ。 だから、うちの場合は典型的な友達母娘ではないが、そういった母娘の仲良し感覚、母と娘の距離感の近さはわからないでもない。 などということを考える時に思うのだが、「友達母娘」はあるが、「友達父子」は聞かないなあ。 父と息子の場合、母と娘ほど距離

    ともだちおやこ - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/07/28
    ――父権の低落状況の実像が気になった。 //――乗越えるべき存在としてのキャラがどこかに居ないと? 最初から/簡単に乗越えられちゃうとつまんないのかも。
  • 裸の王様は賢くなかったのかどうか - 深く考えないで捨てるように書く、また

    アンデルセン童話の「裸の王様」の話を思い出して、思った。 裸の王様は、「賢いひとにしか見えない服」を出されたとき、自分が「賢くない」ことがバレるといやなので見える振りをした。つまり、自分が「賢くない」判定に該当したことはこの時点で分かっているわけである。 しかし、よく考えてみると、自分と同程度、あるいはそれ以下の賢さの人間にはこの服は見えない、ということになる。ということは、この服を着てパレードをすることを想定すると、パレードを見る国民が自分(王)と比べて賢いかどうか、ということがポイントになる。国民が皆自分より十分賢ければ問題ないが、もし自分より愚かな者が多ければ、この服は国民には見えないわけで、結局恥をかく。 つまり、裸の王様は、自国民は自分より賢い者たちである、と判断したということになるのだった。 もしそういう判断ができていたのだとしたら、この王様、随分と謙虚で賢いってことじゃないだ

    裸の王様は賢くなかったのかどうか - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/07/15
    ――見える見えない(賢い/愚か)自体の問題というよりは。そのメタに昇って、観えなくても視えるふりをして見栄(/面従腹背)を張りたくなってしまう、(権力者も含めた)人間/人々の弱さ(/強さ?)の話だと思う。
  • ネットで罵倒をみかけたとき - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ネット上で罵倒の言葉を見かけると、それを発した人の思いを想像してしまう。 罵倒以外の言葉でなく、罵倒をあえて選ぶ心理、罵倒を表に出す心理がなにかあるのだろうと想像する。その人のその時にとっては、罵倒を使うことにこそ意味があったのかもしれない、と空想する。 相手を憎み忌み嫌っているから、殴りつけるかわりに罵倒をぶつけたのだろうか。 罵倒することによって、相手が傷つき、自分の視野からいなくなることを期待したのだろうか。 相手は関係なく、ただ自分の内心に渦巻く怒りや憤り、その他の名状し難い感情を表に表したいがため、罵倒を選んだのだろうか。 当然、そんなややこしいこととは関係なく、ただ罵倒してみただけのこともあるだろう。 けれど、罵倒は発するだけで随分とエネルギーが必要だ。精神的に沈滞しているときは、どうやっても罵倒は出てこない。ただ、さらに深く沈み黙するだけだ。 時として、強く厳しい罵倒の言葉が

    ネットで罵倒をみかけたとき - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/06/30
    時として、強く厳しい罵倒の言葉が、熱烈な愛の言葉のように熱く感じられることがある。 ――愛/関心の間接的な表現になっている。(ただし演出の場合もあるわけね。
  • ネット知人は友人にならない - 深く考えないで捨てるように書く、また

    それなりにネット歴も長いので、ネットで知り合った知人はまあまあたくさんいる。中には15年以上のおつきあいになる人もいる。 しかし、その中で友人といえる間柄になった人は一人もいない。もうすこし正確に言うと、私から見て友人友達といえると思う人は一人もいない。 私にとって、迷いなく友人といえるのは、学生時代に知り合った人々のうちの何人かだけだ。今では遠方に行ってめったに会うこともなく、電話やネットを含めても言葉をかわすことも少ない人もいるが、しかし今でも友人だと感じている。 だからといって、ネットで知り合った人たちとの精神的距離が遠いかというと、そうでもない。ネットにいる限り、いろいろと話をする機会は多く、むしろ友人には話さないような腹を割った話をすることもある。罵倒コミュニケーションを気軽にとれるくらい親しく話しあう人もいる。 しかし、それでも、彼らを友人と呼ぶことにためらいがある。 このよ

    ネット知人は友人にならない - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/06/19
    ――これも、言葉だけから人をどこまで信頼できるのか…という問題のような気がするなぁ。 // ――リアルに地に着いたSNSとかだと、また違ってくるんだろね。
  • 公正ってなんだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また

    公正って、なんだろう。 辞書的な意味は分かる。原則、公正であるべき職業や場があることも分かる。 しかし、一人の人間が生きていくうえで、その個人として、常に公正であるべきではないだろう、むしろ公正でないことを求められる場合も多々あるだろう。 同じ人間群に対して、公正に対応したほうがうまくいくときと、公正でなく対応したほうがうまくいくときとがあるだろう。 公正はひとつの便宜、ひとつの手段。不公正もまた同様。それぞれ適した場がある。そして、どこに適すると考えるかは、また人によって異なる。大多数の人が、ここでは公正であるべき、と思う場もあれば、その逆に思う場もあり、公正であるべきと思う人と思わない人が拮抗する場もある。 でも、ここは公正でいこう、ここは不公正でいこう、と分ける時点で、公正じゃないよね。

    公正ってなんだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/06/14
    ここは公正でいこう、ここは不公正でいこう、と分ける時点で、公正じゃない ――大義/公正rightさは政治/パワーゲームmightの道具でしかない、という立場/学説も…。普遍な自然法とは対立?
  • 深く考えないで捨てるように書く - 「共感」と「同感」

    「共感」という言葉は、意外と難しい。 「同感」と似ているようだが、全く異なる。「同感」はむしろ「同意」に近い。ある意見があって、それに対して「私も同じように思います」という意味。ほぼ賛意ととってよいだろう。 「共感」はもっと感覚的だ。なにかの意見に対して賛成・反対という意で使う言葉ではない。意見に対して使うならば、その意見を発した基である感情や感覚に対して使う言葉だ。 ここが難しいところだ。「共感」は必ずしも賛意ではない。あえて言うなら、「私はあなたがそのように感じた感情・感覚について理解します(そのまま受け入れます)」という意味だろうか。共感を示す、というのは、別々の立場にありながら、相手の感じたことに対してもそのまま受容する、という態度ではないかと思う。というか、自分はそう使う。 ただ、一般的にも「共感」がそのように使われているかどうかはよく分からない。あまり普通の話し言葉の中では「あ

    深く考えないで捨てるように書く - 「共感」と「同感」
    mind
    mind 2007/06/14
    私は貴方がそのように感じた感情・感覚について理解します ――共感的理解。 同意/一体化/感情移入の意味で使われることも。 //「一緒」は、もともと、複数のものを一つにまとめる意味。「共感」の「共」と共通 ――ぉ
  • 幼児の「女の子らしくしたい」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    最近つらつらと考えているのは、人はいつから男/女になって、いつから男/女でなくなるのか、ということ。 もちろん、基的には受精した瞬間からオスかメスのどちらかに決まっていて、この世に生まれた瞬間からオス=男、メス=女ということになって、生きていく。ヒトは性染色体の異常がない限り(表現形と一致しない場合はあるが)オスかメスのどちらかで、性染色体の異常がある場合でも、表現形としてはオスかメスかどちらかになる。 一方では、心理的に男でも女でもない時期というのもある。小さな赤ん坊は、自分が男であるか女であるか分からない(それ以前に人であることもまだ分からないのだが)。自分の経験や観察からは、だいたい3歳くらいで男と女には違いがあることに気づき、自分はそのどちらであるか自分なりに規定する、という感じのようだ。2歳ではまだそのあたりの区別はあまりついていない。しかし、この3歳の時点ではまだ単なる区別で

    幼児の「女の子らしくしたい」 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/06/08
    幼児期の「女の子らしくしたい」という適応反応は、ジェンダー以前の、個人のアイデンティティの強化としての「女の子らしくしたい」なんだろう ――なる。視られている自分が、自分に繰込まれてくる。
  • 「自分を語りたがらない人々」追記 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く こんなにコメントやブックマークコメントをいただくと思わなかったので、驚くと同時に感謝いたします。 別に大したこと書いてないのになぁ、と思ったんですが、あとから読み返して引っかかったのはここかなと。 以前は、どんな場でもなんとなくROM(read only member)がいることが暗黙の了解だったが、最近のネット環境だと、ブログ・日記にしろ、SNSにしろ、2chのような掲示板にしろ、twitterのようなミニブログにしろ、発信(発言)しない=いないも同然、という感触になっている。 自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く いないも同然、が、私から見ていないも同然、とも読み取れますね。 そういう意味ではなく、ネット環境全体の中で、発信しない人の影が薄くなっている気がする、という意味でした。 私からみると、自ら意

    「自分を語りたがらない人々」追記 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/05/14
    …「発信のある」人との距離感がどんどん近くなっていて、相対的感覚として「発信のない」人との距離感をより遠く感じ ――そう。クラスター断裂。 //身辺状況(入力)と、心の動き(出力)の情報がセットだと理解が深まる
  • 自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    自分にまつわる情報を極力出したくない人、と言い換えることもできるか。 ネットで長年活動していると、こういう人たちがいることに気づく。 実は実生活でもいるのだが、実生活ではあれこれ自分について語らなくてもコミュニケーションがとれるものなので、あまり意識しない。ネットだと、言葉をやりとりをしてなんぼ、なので、あれ? と気がつく。 古くからのネットの知人でも、ブログはおろか、クローズドのmixi日記でも、自分自身についてほとんど書かない人がいる。自分のべたものや、自分の行ったところ、ネタ的なものなどについては、時々簡単に書くが、それについて自分がどう感じたか、は書かない。それなら活動してないのかというと、そういうわけではなくて、他の人のブログや日記はけっこうまめに読んでいる。 他人とつながることを忌避しているわけではなく、自分自身の情報、特に心理的なことや感情的なことについて表に出すことを忌避

    自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く、また
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    mind 2007/05/14
    (つきあいはよくても)、自分自身の情報、特に心理的/感情的なことは… ――友達同士でも、人数が多い場面ほど、(互いに)内心の問題を注目されたくないってのはよくある。すると、集団の外の共通の関心に目を向け…。
  • 「女らしくしたくない」女のとる、もう一つの道 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「女らしくしたくない」女がみんな男っぽくなりたいとは限らない。女性でありつつ、一般的に要求されるような「女らしさ」、最近の言葉で言えば「女子力」的なものを使いたくない、という場合もある。 「女らしくしたくない」女のとるもう一つの道って、腐女子じゃないのかな、と思った。 タイトルでは「もう一つの」と書いたけど、実は腐女子化以外にも道はあって、それは母化。 お母さん的というか、面倒みのいいおばさん的なスタンスをとるやり方。これが意外と座りがいい。 腐女子化に比べると、それなりの立場を保ちつつ、女性的でもありつつ、でも恋愛・性愛対象からははずされやすい。 どっちも過去の自分ですが。 【追記】(2007.5.11) はてなブックマークコメントで「腐母」と言われて悶絶しました(いい意味で)。いい言葉だ。勇気が出る。それをひとは蛮勇と言うのだろう。どうもありがとうございます。

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    mind
    mind 2007/05/10
    腐女子,母, ――…↓腐母(ふもっ) ってw そうだったのか! >>オレと自称する母
  • 鉄っちゃんとカーマニアについての考察 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    私の夫は、いわゆる「鉄」、鉄っちゃんである。 とはいえ軽めの鉄で、あえて言うなら「読み鉄」あるいは「知り鉄」とでもいったところだろうか。そんな言葉が分類としてあるのかどうか知らないが。鉄道関係のを読んだり知識を得たりすることが好きなようだ。知識という点に限れば、変な駅名だの、車両の型番だの、時刻表のなんとやらだの、ナントカ鉄道の歴史だの、どこで乗り換えれば運賃が安くなるだの、車体のからくりやら鉄道事故に関する話やら、広い範囲で読んだり知ってたりする。 そんな夫に聞いて知ったことなのだが、バスや航空機に興味がある人々のことも「鉄」に分類されるのだそうだ。実際、夫は航空機も好きなのである。バスってゴムの輪ついてるよ? ガソリン(いや、軽油?)で走るよ? レールないよ? 飛行機なんか空飛んじゃうよ。でもみんな「鉄」の仲間なんだそうな。 で、乗り物系でくっきり分かれるのは、自動車・バイク。これら

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  • 属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また

    属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ。その相手人と直接対峙しなくて済むから。 この歳になると、ひと人と対峙することがそう苦痛でなくなって、誰かを嫌ったり憎んだりすることも自分自身の重荷として直接自分で担えるようになったから*1、属性だけで判断しないようにしよう、という心がけができるようになった。しかし、やはり若いころというか、思春期にはなかなかそうはできなかった。 男は云々。大人は云々。社会は云々。etc. レッテル貼りともちょっと違う。レッテル貼りは、まずそこに一人の人がいて、その人をジャンル分けしてそのジャンル・属性で判断する、という行為。 属性を嫌う、憎むのは、そこに人がいてもいなくても、その属性自体に対して判断している。つまり、実際に存在する人を嫌ったり憎んだりしなくても済む。 人を嫌ったり憎んだりするのは、やはりネガティブなエネルギーを発するものだし、それに伴う罪悪感

    属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/04/12
    属性自体はなんの感情ももっていない概念にすぎないから、それを嫌ったり憎んだりしても、自分に直接的に戻ってくることはないし、感じる罪悪感も少ない。 ――なるほど。でも集団を敵に回す結果に><
  • 「傷つく」「傷つける」の意味するもの - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「(心が)傷つく」とか「(心を)傷つける」とかいう言い方は、ごく一般的、日常的に使われているけれど、どうもこの言葉が気にかかる。 どうも、「傷つく」とか「傷つける」とかいう言葉は、随分と大仰に感じるのだ。 精神的外傷は解る。だが、普段よく使われる「傷つく」「傷つける」は、そこまで深く大きなものではないだろう。自分の感覚では、この言葉がぴったりくる心的な状況がなかなかない。 大抵の場合、「ショックを受ける」あるいは「へこむ」「落ち込む」「いやな思いをする」など。もうちょっと別の概念もあるだろうが、「傷つく」「傷つける」は、基的に他の多様な表現で置き換えられるような気がする。 自分が「傷つく」「傷つける」を使わないのは、なんだか、自分や他人の心的ステータスをそういう曖昧な表現でごまかしてしまってる気がしてしまうからだ。 たしかに「傷つく」「傷つける」は便利な言葉なんだろうと思う。特に、「傷つ

    「傷つく」「傷つける」の意味するもの - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/03/17
    「玉に傷」「傷ものにされる」…もともと完全/健康であったものを害する、という意味合いによく使われる。 ――なる。 //周囲の共感を求める手軽な言葉? 現に泣かせたからには、泣かせた方が絶対悪い、みたいな。
  • 「死とは情報化である」 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    「死とは情報化である」 昨日の日経夕刊のタイトル下コラムで見た言葉。 30代で亡くなったミュージシャンの言葉として紹介されていた。誰のことかと思って検索してみたら、「どんと」という人のことだと分かった。 情報元の記事は無効なURLです。この人はバンド「ローザ・ルクセンブルグ」のボーカルなどをやっていたそうだ。かすかにバンド名には記憶があるが、曲を聞いたことはない。 死因は脳内出血だそうなので(情報元はてなキーワード)、慢性の病気で自分の死を見つめて言った言葉ではなく、日々の暮らしをする中でふと思ったことなのかもしれない。 生きている時でも、けっこう情報化された自分というのはあちこちに存在している気がする。 こうして書いている言葉・記事たちもそうだし、自分の話した言葉、他人からの見た目や印象、他人の中に残る行動・言動の記録や記憶などは、それぞれ、自分自身ではなくて断片的な情報だ。 そういった

    「死とは情報化である」 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/03/11
    「死によって情報のみが残る」 ――言葉etcetc…のかけら。コミュ内でキャラ立ちしていた場合は、コミュ内で霊魂(情報/関数λ)が残る||| 「λちゃんならきっとこう言うはずだよ」「うんうん;;」という具合に。
  • 万能感から挫折への気づき - 深く考えないで捨てるように書く、また

    子どもは万能感というか全能感というようなものをもっている、ということはしばしば耳にする。もうちょっと平たくいうと、子どもは「自分はなんでもできるはずだ」と思っている、という感じだろうか。 それが、大人になると、「自分にはできないこともある」と解ってくる。 この間の時間経過のどこかに「あ、自分はなんでもできるってわけじゃないんだ」という気づき、言い換えれば最初の挫折があるはずなのだが、それはどのへんなのだろう。 5歳の娘を見ていると、まだまだ彼女のもとにはその気づきは訪れていないようだ。 気づくもなにも、まだ身体的にも精神的にも右肩上がりの成長の途中にあり、今できないことでも将来できるようになるという期待(というか、むしろ、おそらくこれからできるようになることが非常に多い)があるから、絶望的な挫折を経験するにはまだ早すぎる。 何歳でそのことに気づくのだろうか。もちろん、単純な年齢では測れない

    万能感から挫折への気づき - 深く考えないで捨てるように書く、また
    mind
    mind 2007/03/05
    万能感 ――cf. {赤ちゃんA子(1歳半)の視点: 自分 >母 >婆 >父 という順位らしいw //挫折 ――第一反抗期?
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