可能性の説話論/不可能性の説話論 この1年ほど、映画批評の連載でテーマにしてきたことがあります。岩井俊二監督最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』(3月公開)のパンフレットにも詳述しましたが、近年の映画において、「社会はクソである」というモチーフが前面に出てきています。 「政治が悪いからクソだ」とか「社会的に恵まれない人がこんなにいるからクソだ」ということではなく、「そもそも社会はすべてクソなのだ」と。国籍も年代も問わず、映画監督がそのモチーフをどう表現するのか、ということがポイントになっています。 別の言い方をしましょう。映画や小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。第一は、本来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。 第二は、本来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、