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educationとcommunicationに関するmkawanoのブックマーク (11)

  • 「自分でやった方が早い病」とは

    ■病状 ・「自分でやった方が早い」という考えに陥る ■2つの発症パターン ・まわりよりも自分ができてしまうから ・相手に悪いし、お願いが下手だから ■かかる人 ・仕事ができ優しい、30代の新人リーダーに多い ■病の原因 ・「人のため」と言いながら自分の利益しか考えていない ・まわりの人と一緒に成長しようとしない ・基的な教育ができていない ・エースピッチャーの快感に浸りマネージャーの喜びを知らない ・自分大好き人間 病状が悪化すると・「孤独な成功者」になる ・仕事を抱え込み、病気も抱え込む ・つねに「誰かのせい」にして生きることになる ・笑顔と余裕が消える ・いつまでたっても優秀な人が現れない ・誰も信頼できなくなる 誰にも信頼されなくなる ・仕事が途切れると、年賀状も来なくなる 克服できると・1人の100歩ではなく、100人の1歩で進むことができる ・まわりができる人だらけになり、大き

    「自分でやった方が早い病」とは
  • 東工大生が、ボキャ貧・コミュ障から脱出するには?:日経ビジネスオンライン

    池上:これまで、2012年秋に上田先生と私とで見学してきたMIT、ウェルズリー、そしてハーバードのリベラルアーツ教育の実態を紹介してきました。 それを踏まえた上で、日の大学の教養教育、もっと具体的に言うと、私たちが在籍する東京工業大学のリベラルアーツのあり方について、改めて上田先生と考えたいと思います。 上田:アメリカで私たちが見学してきた3校に比べると、東工大は先生も設備も学生もまだまだ、ということばかりを書き連ねてきたような気がします。でも、むしろ今回の見学を通じて、東工大生の潜在能力の高さを非常に意識するようになりました。 実は昨年、東工大生の潜在能力が開花する瞬間を私は見てしまったのです。 池上:そうでしたね。 上田:実は今期(2012年度)から、東工大のリベラルアーツセンターでは、タレントの「パックンマックン」のパックンを非常勤講師に招いて授業をやってもらったのです。 池上:パ

    東工大生が、ボキャ貧・コミュ障から脱出するには?:日経ビジネスオンライン
  • NAKAHARA-LAB.NET 東京大学 中原淳研究室 - 大人の学びを科学する: 「ワークショップ疲れ」という現象の背後にあるもの:「風呂敷的ムーヴメントとしてのワークショップ」の普及と変化

    中原淳(東京大学准教授)のブログです。経営学習論、人的資源開発論。「大人の学びを科学する」をテーマに、「企業・組織における人の学習・成長・コミュニケーション」を研究しています。 これは僕だけが感じていることなのでしょうか、どうも、最近、人々のあいだに、「ワークショップ疲れ」というものが生まれているような気がします。 「げっ、また6人グループになんの?」 「またポスターとマジックと付箋紙かよ」 「どうせ、どんな提案をしても、落としどころが、最初から決まってるんでしょ」 「ワークショップ」というラヴェルで括られる「何か」に、人々が、疲れはじめている。 もちろん「人々」といっても、どこまで一般性のある話かはわかりませんが、そんなことを、去年の秋頃から、とみに感じます(このことは、かつて、ブログ記事でもご紹介しました)。 ▼ これは、わたしの持論ですけれども(一部は、近刊「プレイフルラーニング」に

  • 彼女は勉強「だけ」ができない - 24時間残念営業

    2012-11-10 彼女は勉強「だけ」ができない 最近は店長候補とする人間を育てている。二十代前半の女の子で、その子には夕方の学生の子を育てるべく二人ばかりを預けている。で、あるときその子がグチっぽく言った。 「どうも自分から動いてくれないっていうか、いつまで経っても頼りっきりなんですよね」 そんで今日、その店長候補の子と俺と、あと新人で夕方からのシフトに入る機会があった。その場合でも俺が直接教えることはあまりしない。あくまでその店長候補の子が教育係で、どっちかっていうと俺がレジとかの通常業務をやるような状態になってる。 んで、彼女が新人さんに揚げ物をやらせていた。 「すいません、フライドチキンはいくつ揚げたらいいですか」 「んー、じゃあ5で」 「それとポテトがもうじきなくなりそうですけど、これはどうしますか」 「いまはそのままでいいや」 などというやりとりをしていた。 さりげなく様子

  • マツダ先生(仮名)の思い出、あるいは議論の仕方を習ったことのない人はやっかいだということ - みやきち日記

    あたしが小学5〜6年生だったときの担任・マツダ先生(仮名)は、クラスで話し合うとき生徒にたったひとつのルールを課しました。そのルールとは、「意見を言うときは、必ず理由を言わなければならない」というもの。これは鉄の掟で、例外は許されませんでした。今にして思うとこれはすばらしい教育で、あたしはマツダ先生にものすごく感謝しています。 このルール下だと、「今度クラスのレクリエーション時間でどんなスポーツをやるか」なんて議題で話し合うとき、ただ各自で 「バスケがいいでーす」 「ソフトボールがいいでーす」 「ドッジボールがしたいでーす」みたいに提案だけしていきなり採決ってのはダメなわけ。提案するには、絶対に「なぜ自分はクラスでこのスポーツをやるのがいいと思うのか」を言わなきゃいけないんです。 そうなってくると、「自分がバスケが好きだから」クラス全体でバスケをするべきだなんて言えないわけですよ。いくら小

    マツダ先生(仮名)の思い出、あるいは議論の仕方を習ったことのない人はやっかいだということ - みやきち日記
  • 教えないという教育法 - 教えることが上手な人の5つの教え方 - sadadadの読書日記

    子供や新人に対して教えることは山のようにあります。しかし、教える側の都合で無理矢理、教えたとしても労多くして功少ないことが多いものです。いくら努力して頑張って教えられる側が学ぶ気がなければそもそも意味がありません。しかも教える側も教育に割ける時間や手間は無限に有るわけではありません。つまるところ『どのように教えるか』を考えなければ教育効果など期待てきないのです。 「教える技術」の鍛え方―人も自分も成長できる 作者: 樋口裕一出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2009/04メディア: 単行購入: 7人 クリック: 33回この商品を含むブログ (10件) を見る 教育ママが空回りする理由 教える側は教えられる側よりも沢山のことが観えています。だからといって見えていないものを無理に見せようとすれば、ある種の強制力を伴わなければなりません。しかし、それは答えを目の前にぶら下げてべさせるよう

    教えないという教育法 - 教えることが上手な人の5つの教え方 - sadadadの読書日記
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    我が家のダグウッド ダグウッドとはハナミズキのことである。昔、日からポトマックリバーの桜の苗木を送った返礼として、アメリカから送られて来たのが日での始まりで、アメリカ原産でアメリカヤマボウシともいうらしい。 最近では日でも、あちこちで、街路樹であったり、庭木であっ…

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    mkawano
    mkawano 2009/12/04
    教えることのエッセンス
  • 研究室において居場所を得るということ - 諏訪耕平の研究メモ

    春は出会いと別れの季節と言いますか?わかりません。今日は、新しく研究室に配属される理系大学の新四年生を対象に、この魑魅魍魎渦巻く研究世界の歩き方的なものを、曲がりなりにも二年間、理系の研究室で過ごしてきた経験を元として、二年前の自分にアドバイスするつもりで、心の赴くままに書いてみようと思います。 大変美しい文章だと感じました。特にここのところが良い。 僕は、研究には3つの意義があると思っています。外向きの意義、内向きの意義、そして、研究が存在することそれ自体の意義です。 「外向きの意義」はいわゆる一般的な研究の意義。「内向きの意義」は研究者の成長。「研究が存在することそれ自体の意義」は「疑う」ということの価値。1番目は当たり前ですが,2番目,3番目を研究室の上の人,特に教授が理解してくれていると素晴らしいですね。 一点。ここのところ。 研究室で発狂しないために ・研究がうまくいかないからと

    研究室において居場所を得るということ - 諏訪耕平の研究メモ
    mkawano
    mkawano 2009/03/23
    自分に合った居場所を探すのってすごくすごく難しいよね。
  • 「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記

    このへんの話題について。はてな匿名ダイアリー:勉強が出来る=頭がいい?404 Blog Not Found:勉強が出来る=何がいい? 小学生のころ、学校のテストで苦労したことはなかった。「勉強ができる」子供だったと思う。 保育園児のころからを読むのが好きだった。絵も、図鑑や「かがくのとも」も好きだった。を開くと、自分の知らない世界や、なぜかなつかしく感じられる世界に、体ごと入り込めるのが好きだった。幼児教育の類はまったく受けていなかったけど、何かのごほうびにねだるものは、たいていだった。 小学校に入学して、真新しい教科書をどっさりもらったときは、ほんとうに嬉しかった。《これだけの新しい世界が、私を待っているんだ!》嬉しくて嬉しくて、教科書を次々めくって読んでいたら、新入生の世話をしに来た6年生が、「おまえ、ほんとうに読めるのか?」と言った。くやしいので音読してやったところ、「じゃあ

    mkawano
    mkawano 2008/12/25
    足の速い子もいれば、勉強ができる子もいれば、遊びが得意な子もいる。「お互いさま」を忘れてませんか?お互いがいつまでも非難してても誰も得をしないと思う。/あっ、博士云々は別の話ということで。
  • H-Yamaguchi.net: メールの流儀に関するささやかな「発見」をした話

    私は携帯電話のメール機能をほとんど使わない。PCメールを携帯電話からやりとりする(リモートメール、とかいうのだろうか)ことはあるのだが、それすらも自分から送るのは最小限にしている。理由は簡単で、打ちにくいからだ。あんな小さいキーボードで打てるわけないじゃん、と書いたあたりでもういまどきの人には「なんだこいつ」と思われているにちがいない。慣れた人が高橋名人ばりの速さで携帯メールを打つさまには、正直驚愕する。要するについていっていないのだ。 以上を前提として。 今回「発見」したのは、PCの電子メールを書くときの流儀が、私たちの世代と今の若い世代とではちがっている、という話だ。何いってるのあたりまえじゃん、となるのだろうが、とりあえず補足する。 私の世代だと、電子メールといえばPCで送受するものとして覚えた。メールを書くときに手としたのは紙で書く手紙だ。電子メールができる前は、PC(とかワープ

    H-Yamaguchi.net: メールの流儀に関するささやかな「発見」をした話
  • http://anotherorphan.com/2006/05/post_284.html

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