第683回 一口に鮨(寿司)と言っても 最近色々なスシ屋へ通う機会が増えるにつれて、 「スシ」というもののつかみ所がないとうか、 同じスシといっても千差万別であることがわかってきました。 私は意識的に「鮨屋」と「寿司屋」を使い分けているつもりです。 本当の定義はどうだか知りませんが、 江戸前に拘っている店を「鮨」、 新鮮ネタ志向や出前もする街場店、回転系を 「寿司」と区別しています。 唯一の例外は「小笹寿し」でしょう。 この店の場合、自分で「鮨」の字を使っていません。 スシは価格帯の違う店や、 店の形態の違いによる「鮨と寿司」でまったく別物だと思います。 大きく分けて3つ、 回転スシ、街場スシ、高額スシに分けられるでしょうか。 回転スシはいまさら説明するまでも無く、 ただ魚の切り身が米粒の塊に乗っかっているだけのもの。 街場スシとは、主に住宅地にある出前もするスシ屋でありまして、 コテコテ
ま、それなりによくできたお話ではあった。 介護サービスに外人が投入されるという図も映像的には描かれていた。 が、結局、日本のローカルなものへの心性に収斂させてしまっていた。ふるさとの海、山、お盆の心みたいなものは日本的な郷愁を誘うものだが、残念ながら、そんなものに未来はない。 俺もあと十二年も生きたら六〇歳になる。別段、恐くもないし、そこまで生きられるなら生きてみたいなと思う。幸いにして、パウロの祈りのように、神が存在するなら、私への恵みは充分であった。未来というのがありうるなら、神がありうるなら、そうしたなにかに、そしてどうせ死ぬ身でもあろうし、委ねてるように流されてもいいのであろう。 私が喰えなくなる、のたれ死ぬ…そういうこともあるのかもしれないが、どうすることもできはしないのだし、二十五歳のころ四〇過ぎまで生きるとも思っていなかったものがもう四八にもならんとしている。 啄木や賢治が死
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