タグ

ブックマーク / s-scrap.com (7)

  • 第2回 クレタ島のメネラオス

    いつも旅が終わらぬうちに次の旅のことを考え、隙あらば世界中の海や山に、都会や辺境に向かう著者。とは言っても、世界のどこに行っても自己変革が起こるわけではなく、それで人生が変わるわけでもない。それでも、一寸先の未来がわからないかぎり、旅はいつまでも面白い。現実の砂漠を求めて旅は続く。体験的紀行文学の世界へようこそ。 サントリーニ島を出た船がクレタ島のイラクリオンに着いたのは、到着予定時刻を90分も過ぎた夕方の5時。港に迎えに来ているはずのメネラオスがまだ待ってくれているか心配だったが、船を降りてほんの数秒で彼を見つけた。「長い時間待っていてくれてありがとう」と固い握手。短い指のひとつひとつに太い皴が刻まれた手。 島の中心地である港町イラクリオンは素通りして、南海岸にあるマタラに滞在することにする。1970年代にジョニ・ミッチェルが滞在していたことで知られる、かつてヒッピーの聖地と呼ばれた町。

    第2回 クレタ島のメネラオス
    mmsuzuki
    mmsuzuki 2023/06/25
  • 第7回 良かれと思って……Highway to Hell

    ロックとはなんだったのか? 情熱的に語られがちなロックを、冷静に、理性的に、「縁側で渋茶をすするお爺さんのように」語る連作エッセイ。ロックの時代が終わったいま、ロックの正体が明かされる!? ジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの共著『反逆の神話』は、60年代のカウンターカルチャーが色々と失敗をしでかしたことについて詳しく述べており、その背後に第二次世界大戦でのナチス・ドイツに対する恐怖があったことを指摘しているのは鋭い。実のところ、カウンターカルチャーがやらかした失敗とは、ヒトという動物がしばしば行う「良かれと思って始めたことが良くない結果を招いてしまう」行為の一つだからである。たとえば毛沢東は、良かれと思って文化大革命を行い、40万人が死んだ(と言われている。被害者は一億人という説もある)。スターリンだって、良かれと思って独裁を続けたわけだがソ連では78万人が犠牲になった。オーストリア出

    第7回 良かれと思って……Highway to Hell
    mmsuzuki
    mmsuzuki 2022/01/11
  • 第4回 トロッコ問題について考えなければいけない理由

    いまわたしたちが直面している社会的諸問題の裏には、「心理学や進化生物学から見た、動物としての人間」と「哲学や社会や経済の担い手としての人間」のあいだにある「乖離」の存在がある。そこに横たわるギャップを埋めるにはどうしたらよいのか? ポリティカル・コレクトネス、優生思想、道徳、人種、ジェンダーなどにかかわる様々な難問に対する回答を、アカデミアや論壇で埋もれがちで、ときに不愉快で不都合でもある書物を紹介しながら探る「逆張り思想」の読書案内。 どう向き合うべきなのか? 「トロッコ問題」についてご存知の方は多いだろう。 この思考実験は、日では2010年に翻訳されたマイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』で取り上げられて、NHKの「ハーバード白熱教室」でもサンデル教授が学生たちにトロッコ問題を投げかける姿が放映されたことで、多くの人の印象に残ることになった。 哲学の論文というかたちでトロ

    第4回 トロッコ問題について考えなければいけない理由
    mmsuzuki
    mmsuzuki 2021/02/12
    “それは現実の状況を複雑化させ明快な回答を難しくしているさまざまの要素をあえて捨象することによって、われわれが持っている直観・信念を明確に意識させるために役立つ道具として提出されている”
  • 第5回 大衆としてのネット右翼

    左翼が来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。 「大衆の原像」という吉隆明の図式はいまこそ有効である。フェミニズムや歴史修正主義において、知識人がいくら言葉を尽くしても理解をえられないのは、知のあり方が異なるからである。 日では市民社会の考えが独自のかたちで受容され、「規範的理念としての「市民社会」」が成立したことは知られている[1]。吉隆明にとって丸山真男はそのような

    第5回 大衆としてのネット右翼
    mmsuzuki
    mmsuzuki 2019/12/01
    “「リベラル市民主義」が「ネット右翼」の問題を「市民主義への自己批判という問題意識」において自己反省し「暗黙のうちに打ち捨てられてきた人々、疎外されてきた存在」をあらためて包摂したとしてもそう簡単に解
  • 第1回 躁転したマーク・フィッシャーとしてのオルタナライト

    左翼が来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。 「資主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」[1]とマーク・フィッシャーは書いた。 いまや資主義だけが唯一可能な政治・経済的制度だとみなされ、それに代わるオルタナティブは想像することすらできない。そのために深刻な無力感と文化政治的な不毛さが広がり、わたしたちは「再帰的無能感」[2]に襲われている。うつ病をはじ

    第1回 躁転したマーク・フィッシャーとしてのオルタナライト
  • 第3回 「選挙に行こう」とみんないうけれど。

    左翼が来持っていたダイナミズムが失われて久しい。いまや自壊した左翼は「大同団結」を唱え、そのための合言葉を探すだけの存在になってしまった。怠惰な団結をきれいに分離し、硬直した知性に見切りをつけ、横断的なつながりを模索すること。革命の精神を見失った左翼に代わって、別の左翼(オルタナレフト)を生み出すこと。それがヘイト、分断、格差にまみれた世界に生きる我々の急務ではないか。いま起きているあまたの政治的、思想的、社会的事象から、あたらしい左翼の可能性をさぐる連載評論。 選挙で正しい選択ができるほど、多くの有権者は政治的な知識を持っていない。このように指摘するのは、法学者のイリヤ・ソミンである。ソミンによれば、大学進学率の上昇など教育水準が上がり、インターネットなどで情報の入手も簡単になったのに、ここ数十年間ひとびとの政治的知識のレベルはおおむね低いままにとどまっているという[1]。 たとえば、

    第3回 「選挙に行こう」とみんないうけれど。
    mmsuzuki
    mmsuzuki 2019/07/26
    “支持者に客観的な情報を提示してもほとんど効果が見られないのは、知が「信念」と一体となっており、「共有された文化的価値観、アイデンティティ」と深く関わっているからである。”
  • 第11回 無署名性言語システムの呪縛――玉木明のジャーナリズム言語論<前編> | 晶文社スクラップブック

    玉木明の仕事を最初に知ったのは『言語としてのニュージャーナリズム』(学藝書林)だった。初版は1992年。新聞の新刊広告か、雑誌の書評欄で見たのだと思う。当時の筆者は、大学院を終え、フリーのライターとして仕事を初めてまだ間もない頃だった。 大学に残らずに「軽評論家」になった経緯は既に書いた。だが、ジャーナリズムの世界に入ってみると、こちらも大きな欠落を抱えている世界であることに気付かされた。 もちろん、それが仕事なので何を報じるかの議論は尽きない。編集者と企画をすり合わせ、同業者と取材テーマについて意見交換をする。 その一方で、どう報じるかの議論が白熱することはまれだ。どう報じるかといっても、いかに取材先に接触するか、いかに連載枠を確保するかといった具体的なライターとしての処世術の話ではない。報道という表現作業そのものに関する方法の議論だ。 特に報道作業を実践する場である言語というものについ

    第11回 無署名性言語システムの呪縛――玉木明のジャーナリズム言語論<前編> | 晶文社スクラップブック
  • 1