伊東 絹子(いとう きぬこ、1932年6月29日 - 2023年2月14日)は、日本のファッションモデル・女優。1953年(昭和28年)のミス・ユニバース・ジャパンで、同年アメリカ合衆国カリフォルニア州のロングビーチで開催された第2回世界大会(ミス・ユニバース1953)では第3位入賞。 人物[編集] ミス・ユニバース世界大会への日本代表としての出場は、前年の小島日女子に続いて二人目であり、伊東は日本人初の入賞者となった。またアジア人としても前年第4位に入賞した香港代表ジュディ・ダンの順位を上回った。 受賞の様子 伊東は日本におけるファッションモデルの先がけのひとりとも言われ、ミス・ユニバースに入賞した昭和28年には、伊東の体形に因んだ『八頭身美人』が流行語となった[3]。小林製薬の冷蔵庫用脱臭消臭剤「キムコ」は「キヌコ」をもじったもの[4]。 経歴[編集] 1932年(昭和7年)、東京府東
一條 實昭(いちじょう さねあき、1945年(昭和20年)8月6日 - )は、日本の弁護士。かつての摂家・公爵家である一条家の第28代当主[1][2]。アンダーソン・毛利・友常法律事務所顧問[3]。一條實文の子。また、吉良義央の九世子孫[4] にあたる[5]。子で次期一条家当主に一条実綱がいる[6]。 学習院初等科・中等科を経て、1964年(昭和39年)3月学習院高等科卒業[3][7] 学習院時代の盟友には寬仁親王、東伏見睿俶(ひがしふしみ としよし)、鷹司尚武伊勢神宮大宮司らがいる。 1968年(昭和43年)3月 : 中央大学法学部卒業(法学士)[3] 1973年(昭和48年)4月 : 最高裁判所司法研修所修了(25期)。弁護士登録(第一東京弁護士会)。アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所(現・アンダーソン・毛利・友常法律事務所)に入所[3] 1978年(昭和53年)9月 - 1
四条 隆愛(しじょう たかちか、明治13年(1880年)6月8日[2] - 昭和13年(1938年)10月2日[2][3])は、明治後期から昭和前期の華族、陸軍軍人。陸軍騎兵少佐従二位勲三等侯爵となり、貴族院議員を務めた。元老院議官四条隆謌陸軍中将侯爵の子で、四条隆生の孫。四条家は古くは藤原魚名の三男末茂の子孫、隆季を始祖とし、四条大宮に居を構えた事から四条殿と呼ばれた。家格は羽林家。 経歴[編集] 父の死去に伴い1898年(明治31年)12月10日に家督を相続し侯爵を襲爵[2][4]。1905年(明治38年)6月7日、満25歳に達し貴族院侯爵議員に就任した[5][6]。 1902年(明治35年)11月22日、陸軍士官学校(14期)を卒業[7][8]。1903年(明治36年)6月26日、陸軍騎兵少尉に任官[3][8]。陸軍騎兵実施学校(陸軍騎兵学校)教官、陸軍大学校馬術教官などを務めた[3
長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年(明治41年)2月27日 - 1984年(昭和59年)4月6日)は、日本の俳優。旧芸名に林 長丸(はやし ちょうまる)、林 長二郎(はやし ちょうじろう)。愛称は長さん。身長162cm[3]。 戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[4]。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。 最初の妻は初代中村鴈治郎の次女・林たみ。のちに離婚し、新橋の名妓・飯島繁と再婚。俳優の林成年は長男、女優の長
高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名:梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母である(寺田の娘が大浦と結婚したため)。 来歴・人物[編集] 1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。 1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。まもなくトーキー映画時代に入ると、生来の関西弁を標準語に変えるため、撮影所の江戸小唄研究会というサークルに参加。小唄のレッ
伊上 勝(いがみ まさる[1][2]、本名:井上 正喜(いのうえ まさき)[1][3][2]、1931年7月14日 - 1991年11月16日[1][2])は、日本の脚本家。群馬県出身[1][2]。他に「井上 勝」[1][2]、「森 利夫」[4]などの筆名があった。 長男は脚本家の井上敏樹[5]。孫は脚本家の井上亜樹子。 群馬県立高崎高等学校を卒業後、明治大学に進学。文学部でフランス文学を専攻し、27歳で卒業。広告代理店宣弘社に入社[1][2]。 東芝商事がテレビ・ラジオ用脚本を募集しているのを知り『遊星王子』の脚本を一晩で書き上げて応募したところ入選。テレビドラマとなったこの『遊星王子』(日本テレビ)の原作・脚本を務めてデビュー[3][2]。 以後『豹の眼』(TBS)・『快傑ハリマオ』(日本テレビ)など、宣弘社のテレビ冒険活劇物の脚本を執筆した[1][2]。 『隠密剣士』(TBS)では「
新宿ビームス(2017年撮影) 設楽 洋(したら よう、1951年4月13日 - )は、日本の実業家。株式会社ビームス、株式会社ビームス クリエイティブの代表取締役。『第50回ベストドレッサー賞』受賞。タレントでファッションモデルである三浦りさ子(旧姓:設楽りさ子)の叔父。東京都新宿区生まれ。 慶應義塾大学経済学部卒業。愛称はタラちゃん[2]。 経歴[編集] 1951年(昭和26年)東京都新宿区にてダンボール工場を営んでいた父・設楽悦三と母・設楽恭子の間に生まれる。太平洋のようにおおらかで、元気な子に育ってほしいという想いから「洋」と名付けられた。ビームスの副社長である遠藤恵司は小学校から大学生までの同級生。遠藤は「中学1年のときにコーラスグループを結成、以来バンドを組み、設楽は目立ちたがり屋で人を楽しませるのが好きな青年だった」と回顧する。設楽はボーカルとギター、遠藤はバンジョー担当だっ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く