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風土記に関するmn36555023のブックマーク (3)

  • 楯縫郡条:【二】 楯縫郡の郷

    佐香郷(さかごう)。:出雲市小境町・鹿園寺町・園町・坂浦町一帯の地域 郡家の正東四里一百六十歩の所にある。佐香の河内に百八十神(ももやそのかみ)たちがお集まりになって、御厨(みくりや)をお建てになり、酒を醸造させなさった。そして一百八十日に渡って酒盛りをして解散なさった。だから、佐香という。 楯縫郷(たてぬいごう)。:出雲市小伊津町から塩津町までの海岸沿いと多久町・多久谷町・岡田町一帯の地域 郡家に属する。〔郷名の説明は、郡名に同じ。〕北海の浜の紫菜磯(のりしのいそ)に窟がある。内側の縦横は一丈半、高さと広さはそれぞれ七尺である。内側の南の壁に穴がある。穴の口の周り六尺、径二尺あり、人は入ることができない。奥行の深さは不明である。 玖潭郷(くたみごう)。:出雲市東郷町・野石谷町の一部・久多見町・東福町一帯の地域 郡家の正西五里二百歩。所造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ)が、天御飯

    楯縫郡条:【二】 楯縫郡の郷
  • 国引き神話 - Wikipedia

    国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。『古事記』や『日書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。 当初、作られた出雲国は「八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)」によれば「狭布(さの)の稚国なるかも、初国小さく作らせり、故(かれ)、作り縫はな」という失敗作であったという[1]。「狭布」すなわち国の形は東西に細長い布のようであったという[1]。そこで、八束水臣津野命は、遠く「志羅紀」「北門佐岐」「北門農波」「高志」の余った土地を裂き、四度、「三身の綱」で「国」を引き寄せて「狭布の稚国」に縫い合わせ、できた土地が現在の島根半島であるという[1]。 余った土地を出発地とし、縫い合わせた場所を到着地として、4つの段落に分けて詳細をまとめると表の通りである[2]。 国引き神話に登場する地名 段落 出発地 到着地 1

  • 出雲国風土記 - Wikipedia

    『出雲国風土記』(いずものくにふどき)は、出雲国の風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で唯一ほぼ完の状態である。 713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した[1]。733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された[1]。

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