人相で人を判断することは、いにしえの人々は行わなかったことであり、学ぶ者は言わないものである。かつての姑布子卿(こふしけい)(注1)とか、近年では梁国の唐舉(とうきょ)(注2)とかが、人の身体的特徴と面相を占って吉凶禍福を予言した。世俗の者たちはこれらを賞賛するが、いにしえの人々はこのようなことは行わなかったのであり、学ぶ者は言わないものである。ゆえに人の身体的特徴を占うことは、人の心を論ずるには及ばず、人の心を論ずることは、正道を学ぶわざを選ぶことにはかなわないのである。身体的特徴のよしあしは、心のよしあしには勝つことができない。また心のよしあしは、学ぶわざのよしあしには勝つことはできない。学ぶわざが正しくて心が素直であれば、たとえ顔かたちが悪くても心と学ぶわざが正しいので、君子となるために障害などありはしないのだ。逆にたとえ顔かたちがよくても心と学ぶわざが悪ければ、小人となることを止め