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ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (2)

  • 多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー

    少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。の続編と いいますか。逆の視点から おなじことを かきます。 多数派って、なあに。えーっと、社会のなかで 多数をしめる ひとたち? この社会に いっぱい いるひとたちのこと? 「ちょっと ずれたひとたち」以外ってこと? 自分が「ふつう」だと おもってしまえる ひとたちのこと? わたしが おもうに、多数派と少数派は、名前の あるなしで区別できる。少数派には名前がある。多数派には名前がない。これを ずばりと指摘したのが、アイデンティティの政治性を くわしく論じている 石川准(いしかわ・じゅん)さんだ。 障害者は、障害者というアイデンティティとか立場を引き受けるにせよ拒絶するにせよ、つねに「障害者」として振る舞わなければなりません。障害者というアイデンティティや立場から自由になろうとしても、それもまた障害者としての一つの「政治的な意味を帯びた」選択

    多数派には名前がない(多数派の「オフサイド トラップ」)。 - hituziのブログじゃがー
    mogella
    mogella 2018/04/06
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
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