中学校で野球部に入り本格的に野球を始めた[3]。 延岡工業高では2年生の時、1977年秋季九州大会準々決勝に進むが、佐世保工業高の白武佳久に抑えられ敗退[3]。在学中の甲子園出場はならなかった。 高校卒業後日本国有鉄道に入り、社会人野球の大分鉄道管理局(現・九州旅客鉄道大分支社、チームとしては現・JR九州)で6年間プレーした。当時は二塁手を務め、1番や3番打者を任されている[3]。1984年の都市対抗には新日本製鐵大分に補強され出場。2回戦の三菱重工神戸との対戦では、西村基史(新日本製鐵広畑から補強)から本塁打を打つなど中心打者として活躍する。準々決勝に進出したが、この大会に優勝した日産自動車に惜敗した[4]。この時のチームメイトに山下和彦がいた。同年のプロ野球ドラフト会議で阪急ブレーブスに6位指名されて入団。年俸は360万円(推定)で、当時レギュラーだった福原峰夫の控えとなることが期待さ