2008年1月5日のブックマーク (4件)

  • 2005-09-30

    だいぶ間が開いてしまったね(汗)…後ろの部分は長くなりそうなんで、少し構成を変えて続けよう。 海賊版「小叮噹」大乱発(1980年〜1989年前後) さて、ダメもとに刷ってみたこの「機器貓小叮噹」は大いに売れに売れ、青文出版を財務の危機から救い出すどころか、信じられないほど儲けて、ひと財産を積むことができた。まあ、今でもタルトが売れたらみんなタルト屋を興し、ドーナツが売れたらみんなドーナツ屋を開くような台湾人だから、青文出版の独走なんて許すわけにはいかない。「小叮噹」があんなに売れると目に見えていたから、みんな揃って「小叮噹」を刷りはじめた。なにせ原稿料はタダだから、あとは絵素材の仕入れルートの確保と、翻訳のスピードを競い合うだけだ。 この時期の海賊版はかなり大量に出回っているはずだが、収集するのが意外に容易ではなかった。自分が持っていたモノは小四の時、引越しの際で全部捨てられたように*1、

    2005-09-30
    mori-tahyoue
    mori-tahyoue 2008/01/05
    小叮噹
  • 2005-09-04

    「機器貓小叮噹」現る(1974年〜1980年前後) その発端は、今では台湾で「ドラえもん」の単行など、小学館から殆どの紙出版物を代理発行する台湾青文出版社が約三十年前、財務的に問題が発生し、深刻な経営危機に直面したことであった。 青文出版の創立者・黄樹滋氏はもともと台湾共産党*1の一員で、台湾文学と歴史関係の書籍を出版していた。しかし当時の台湾政府は思想主張に対する箝制が厳しく、しょっちゅう官憲に取り調べられ、の売れ行きも散々。そんなある日、途方のくれた黄氏は「何を出せば売れるのか」と、西門町で営業する書報攤に聞いてみた。その答えはこうだ。 「台湾人が書いたなんて売れん、出しても金を溝に捨てるもんだ。出すなら日人が描いた漫画だな、ほら、この『叮噹』とかは一番売れているよ」*2 その話を聞き、黄樹滋氏は1974年から「叮噹(=ドラえもん)」の出版に踏み切った。児童楽園版の名前に少し手

    2005-09-04
    mori-tahyoue
    mori-tahyoue 2008/01/05
    小叮噹
  • 2005-09-03

    まだ107年も先のことだけど、9月3日はドラえもんの誕生日。お祝いに(?)特別企画「台湾においてのドラえもん海賊版略史」*1をやっちゃうかな…と思い、とにかく興が冷めないうちにやってみた。 「児童楽園」と一緒にやってきた(1971年頃〜80年代初期?) 台湾の子供たちが「ドラえもん」との最初のコンタクトは、香港の「児童楽園」という、隔週刊の漫画雑誌からだというのは、当時の児童向け読み物の出版や流通事情を記録する資料では、よく言及されるので、定説と見做しても良いだろう。 1953年創刊し、そして1994年で休刊した「児童楽園」は、隔週刊で41年間に渡り出版し続け、香港では歴史のある児童向け画報雑誌である。判型は145㎜×175㎜で、全ページがカラーで薄い雑誌*2だった。 この「児童楽園」は香港発の雑誌だが、1960年代からは台湾でも売られていた。台北の西門町、重慶南路など書報攤*3では、いつ

    2005-09-03
    mori-tahyoue
    mori-tahyoue 2008/01/05
    小叮噹
  • 2005-08-29

    うつつの夢に有った出来事 それはいつのことだったのか。きこりの泉から出てくる女神様は、青いロボを手に、やさしい声で私に聞いてきた。 「貴方が落したのはこのまともなドラえもん(哆啦A夢)ですか」 「いや、もっと変(小叮噹)なの」 私は頭を横に振り、目を閉じてあの変なドラ面を思い出してみた。 *1 「そうだ…こんなのもあったな…」 機械仕掛けの女神様は、微笑を浮かべなからこう言った。 「正直のごほうびに、哆啦A夢(まともなドラ)をあげましょう」 そして、女神様は私の思い出の中にいた、あの小叮噹(ヘンなドラ)を、きこりの泉に引きずり込んでいった。 夢の裏側に有ったはずの無いモノ 月刊挑戦者史上、将来は「魔の九月号」と呼ばれるのであろうという今月号*2特集は、「哆啦A夢的時代(ドラえもんの時代)」だった。中身は、日の方々からしてみれば、ドラえもんを語るには常識であるモノや、少しネットで検索かけ

    2005-08-29
    mori-tahyoue
    mori-tahyoue 2008/01/05
    台湾における海賊版哆啦A夢、小叮噹の思い出