ある《民主的な》辞典について――フローベール『紋切型辞典』を読む 「ひとたび読めば、口が利けなくなる」 「紋切型辞典」とは何なのか 1985年というから30年以上も前に執筆された『物語批判序説』は、ギュスターヴ・フローベールの『紋切型辞典』(Le Dictionnaire des Idées Reçues 小倉孝誠訳、岩波文庫)を無心に読むことから始まっている。 あるいは、まだこの翻訳が日の目をみるより遥か以前から、さまざまなかたちで、多くの場合はフランス語でその『辞典』を何度もくり返し読むことが、いつの間にか『物語批判序説』を書かせてしまったというべきかも知れない。 その意味で、この書物は、読むことと書くこととのほとんど媒介を欠いた運動に導かれ、確固たる構想もないまま書かれたものだといってよい。 もちろん、作者の書簡に目を通し、『紋切型辞典』に触れている部分を精読することはしていた。だが