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ブックマーク / ameblo.jp/suraimuitigou1 (11)

  • 法話7 布施 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

  • 正信偈 あとがき | すらいむ1号の正信偈【独訳】

  • 正信偈36 御同朋・御同行 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

  • 正信偈34 疑情 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    私達がいつまでも阿弥陀仏に救われないのは、私達の中に阿弥陀仏のはたらきを疑う心があるからです。この心を疑情(ぎじょう)と言います。 現代の私達は、自己実現だとか、自己啓発だとか、向上心だとか、そういった言葉が大好きです。 パワーストーンやパワースポット、占いといったスピリチュアルな世界が大好きな人もいるでしょう。 どちらにせよ、結局は自分の欲を満たすことに必死なのです。何でもかんでも自分の思い通りにしたくてたまらないのです。 自己実現だとか、向上心だとか、あたかも素晴らしいことのように取り上げられていますが、怠けたいのも、向上したいのも、人間の欲という点では何も変わりはしないのです。 結局『自分の思い通りにしたい』という欲に目が眩んでいるだけの話です。 自分の欲を満たしてくれる物には有り難がって飛びつき、盲目の信者となってひれ伏すのに、死という最大の恐怖から私達を救い取って下さる阿弥陀仏の

    正信偈34 疑情 | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈33 弥陀の正客 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    『南無阿弥陀仏』という念仏は、亡くなった方の冥福を祈る言葉、死者のご馳走は念仏、そんな声をよく聞きます。 例えば、事故に巻き込まれて不幸な最期をとげた方がいたとしましょう。その現場に花を添えて、何とか極楽へ成仏しおくれ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、と手を合わせる。そんな光景を見たことはないでしょうか。 この世の最期は不幸でも、せめて死後は安らかに眠って欲しいという気持ちが起こるのは、自然な心の動きでしょう。しかし、死んでしまった者の往く(ゆく)先を、念仏で救うことが出来るのでしょうか。 お釈迦さまの教えに、こんな話があります。 一人の若者が、お釈迦さまに尋ねました。 「私の母が大変苦しい病気にかかって亡くなりました。母が安らかに成仏し、極楽浄土へ行けるように、毎日寝る間も惜しんで念仏をしております。母は、極楽浄土へ行くことが出来たでしょうか」 すると、お釈迦さまは近くに落ちていた小石を拾い

    正信偈33 弥陀の正客 | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈30 阿弥陀仏のはたらき | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    子供の頃。遠足の前日に、てるてる坊主を作ったことがありますか。 翌朝。目を覚まして、晴れていれば「良い天気だ」と跳び跳ねて喜び、雨が降っていれば「悪い天気だ」と暗い雲を恨めしく見上げるのです。 遠足をする私にとって都合の良い天気が晴れであり、遠足をする私にとって都合の悪い天気が雨なのです。 私がどう思おうと、雨は雨です。降る時には降り、降らない時には降らないのです。雨に、良いも悪いもありません。 同じように阿弥陀仏のはたらきも、私達の良し悪しのモノサシとは無縁なのです。 阿弥陀仏のはたらきは、常に私達を照らし続けています。その光を受け取る私達の方に、気づく人と気づかない人がいるだけです。 親鸞聖人は阿弥陀仏のはたらきを、こう表現されています。 不可思議(ふかしぎ)。 結局のところ「そうとしか言いようがない」と仰っているのです。不可思議。それはつまり『人の力では計り知れないもの』ということで

    正信偈30 阿弥陀仏のはたらき | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈29 良い死に方、悪い死に方 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    親鸞聖人の尊敬する七人の高僧のお一人、曇鸞大師(どんらんだいし)は、医学に精通した方です。 曇鸞大師は自身の医学知識向上の為、旅に出ます。そこで健康長寿の秘術を記した仙経(せんぎょう)を手に入れるのです。 仙経を故郷へ持ち帰る途中、曇鸞大師は当時の都であった洛陽(らくよう)に立ち寄られます。 洛陽では、インドから伝わった仏教を中国語に翻訳するという国家プロジェクトの真っ最中でした。その為、インドから数多くの僧が集まっていたのです。 インド僧の中に、菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)という高僧がおられました。 菩提流支三蔵に出会われた曇鸞大師は、ご自分が手に入れた仙経を差し出すと、菩提流支三蔵に、このように問いかけます。 「ここに健康長寿の秘術を記した仙経があります。仏教には、仙経に勝るような優れた教えがありますか?」 その問いに、菩提流支三蔵は唾を吐き、曇鸞大師を叱りとばします。 「たかが

    正信偈29 良い死に方、悪い死に方 | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 法話5 仏性というタネ | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    SMAPが歌い大ヒットした『世界で一つだけの花』に、こんな歌詞があります。 一人一人違う種を持つ だから、その花を咲かせることだけに一生懸命になりなさいと、歌詞は続きます。 多様性という言葉が日にも行き渡り、色んな人がいて、色んな考え方があっていいのだという価値観が広がっています。 私も、その考え方に賛成です。 人にはそれぞれ個性があります。好きになる相手、興味をひかれる物、歩いて行きたい道、みんな違って、みんないい。著しく他人を傷つけたり、社会を破壊したりするものでない限り、個性は尊重される社会の方が楽しく生きられると思います。 しかしこれが『人生の目的』となると、話は別です。 以前も書きましたが、私達は『目先の目標』と『人生の目的』を勘違いして生きています。 目標があること自体は大いに結構。目標のない人生など、張り合いも楽しみもないでしょう。一つ一つ、目の前のハードルをクリアしていく

    法話5 仏性というタネ | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈24 信心を得る | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    信心を得ると、後生の一大事(ごしょうのいちだいじ)、つまり私達が死んだらどうなるのかという問題が、はっきりと解決します。 今この瞬間の私が、確かに阿弥陀仏に救われている。そんまんまの私に安心でき、満足できる。その揺るぎない実感があるからこそ、阿弥陀仏の教えが真実だと確信(信じることが)できるのです。そして阿弥陀仏の教えが真実であるから、死んだ後は、阿弥陀仏が必ず極楽浄土へ救い取って下さるということもまた、真実なのです。 死んだ後の往き(ゆき)先がはっきりすると「ああ、これで大丈夫」「死んだ後は、必ず阿弥陀仏が救い取って下さる」「それならどんな死に方をしても問題ない」「安心して、この一生を生きていける」「人でいる間に出来ることを、私なりに尽くしてみよう」と、命の歩みを進める力が、心の奥からどんどん湧いてきます。 不思議なことに、その力には際限がありません。私という命を支える力が、どこからとも

    正信偈24 信心を得る | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈23 命の大歓喜 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    信心が定まった時、つまり『今この瞬間の私が、そんまんま救われた時』の喜びは、どんなに言葉を尽くしても、とても語りきれるものではありません。 三世因果(さんぜいんが ※1)の道理の中で、生まれ変わり死に変わりの流転を繰り返してきた命が、やっと阿弥陀仏に救われたのですから当然です。 信心が定まる時がいつなのか、それは誰にも分かりません。 ある人はシャワーの水が、上から下へと流れ落ちていくという道理に気づいて信心が定まるかもしれません。 またある人は、風という姿形の見えないものが、けれど確かに自分の頬をかすめていくという道理に気づいて信心が定まるかもしれません。 それはある時、ふいに訪れる奇跡のような一瞬なのです。 けれど、その一瞬は決して偶然の産物ではありません。三世因果の道理の中を流転してきた命のつながりのどこかに、阿弥陀仏に救われるための因(原因)が必ずあったのです。その因が、あなたという

    正信偈23 命の大歓喜 | すらいむ1号の正信偈【独訳】
  • 正信偈21 救われる条件 | すらいむ1号の正信偈【独訳】

    阿弥陀仏は『阿弥陀仏に救われたい』と切に願う心が起こった全ての命を『南無阿弥陀仏』の一声で、等しく救い取るというはたらきを持った唯一無二の仏さまです。※1 阿弥陀仏は、苦労して出世したあなたを救うとも、熱心に勉強して仏教に精通したあなたを救うとも、お寺に多額の寄付をしたあなたを救うとも言っていません。 あなたの能力や努力や成果の大小など、まるで問題にしていないのです。 あなたがどんなあなたであろうと『南無阿弥陀仏』の一声で、等しく救い取ると言っているのです。 しかし阿弥陀仏は、たった1つだけ、私達に条件を出しました。 それが『阿弥陀仏に救われたい』と切に願う心が起こること、です。 これが先にお話しした廻向(えこう)です。廻向とは、私の心の向きがくるりと廻って、阿弥陀仏に救われたいという視点に心の向きが定まることです。 これを浄土真宗では『信心(しんじん)を得る』とか『信心が定まる』と言いま

    正信偈21 救われる条件 | すらいむ1号の正信偈【独訳】
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