都市は近代のパラダイムが覆い尽くしたかに見える権力空間の中心地であるが、その足下に競争社会から脱落した者たちが吹き溜まる「第四世界」という近代システムがうまくすくい取れない「他性」を現出させている。奇妙なことにこうした逸脱に見える新現象には、前近代からの民俗知のパラダイムへの「先祖帰り」にも見える様相がある。 「産業化」は「都市化」とイコールではないと、<都市的なるもの>を求める「都市革命」をルフェーブルは希求した。近代化は産業化を高度に押し進めてきた。しかし都市化には成功していないのでないか。この未生の<都市的なるもの>の模索の場としてストリートは最適である。なぜなら、産業化的近代化を超え出る何かを現出させているからである。こうして、ストリートの人類学の探索は、マルク・オジェ的表現を借りれば「スーパーモダニティー」の人類学、「同時代世界の人類学」の試みの中核を打ち抜く仕事になるはずで