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ブックマーク / tokyo1923-2013.blogspot.com (6)

  • 【子どもたちの見た朝鮮人虐殺】

    「ウチノ山ニ○○○○○ジンガスコシスンデヰマシタガ 七十七バンチノセイネンダンガキテ ソノ○○○○○ジンヲコロシテシマイマシタ」(郷区尋常小学校1年男児) 「お父さんは○○○○人をころすので私やお母さんや、おばあちゃんや、よね子や、とみ子などはお父さんにわかれました」(深川区同2年女児) 「朝鮮人がころされているといふので私わ行ちゃんと二人で見にいった。すると道のわきに二人ころされていた。こわいものみたさにそばによってみた。すると頭わはれて血みどりになってしゃつわ血でそまっていた。皆んなわ竹の棒で頭をつついて『にくらしいやつだこいつがいうべあばれたやつだ』とさもにくにくしげにつばきをひきかけていってしまった」(横浜市高等小学校1年【現在の中学1年】女児) 「夜は又朝鮮人のさはぎなので驚ろきました私らは三尺余りの棒を持つて其の先へくぎを付けて居ました。それから方方へ行って見ますと鮮人の頭だ

    muchonov
    muchonov 2013/09/30
    今回ひときわ読むのがしんどい…。うわべでは同胞扱いをしていても結局「鮮人」は常に二級市民で、有事になれば日本に害なす危険な他者、証拠などなくとも問答無用で「殺られる前に殺る」対象だった、という。
  • 【「あの朝鮮人たちに指一本ふれさせねえぞ」。 朝鮮人を「かくまった」庶民について考える】 

    語/English ところが、3丁目と馬込沢の自警団が凶器をもって「丸山に朝鮮人が二人いるが、あれを生かしておいてはならん」といって押しかけてきたんです。(中略)だから徳田安蔵だの富蔵だのの連中は「奴ら、今夜来るに相違ないが、来ても渡すまい。奴らが来ればすぐ殺されちゃう。悪いことしてない人間だし、村の人と愛情をともにしてた人間だから、いくら朝鮮人でも渡さない」ってね。(中略) 丸山の自警団は5~6人くらいで2人を守るため、鉢巻をしめて人数は少ないけど威厳をみせていたわけだ。彼らは40人くらい来たですよ。鉄砲もったり、刀もったり、槍もったりね。まわりに竹薮のある丘の高い所に丸山がいて、下に彼らがいるわけです。奴らは渡せという、こっちは渡さないという。(中略) 徳田オサムが先頭に立って「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ、おめえたちには迷惑かけない。俺ら若いもんでもって警察に送り届ける

    muchonov
    muchonov 2013/09/21
    ここまでの内容の重さに、少しだけ救いになるようなエントリ。しかし、果たしてこのとき自分は「日本国民として」救われたい/救われているのだろうか。
  • 【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】

    語/English 中隊長初めとして、王希天君を誘い、「お前の国の同胞が騒でるから、訓戒をあたえてくれ」と云うてつれだし、逆井橋の処の鉄橋の処にさしかかりしに、待機していた垣内中尉が来り、君等何処にゆくと、六中隊の将校の一行に云い、まあ一ぷくでもと休み、背より肩にかけ切りかけた。そして彼の顔面及手足等を切りこまさきて、服は焼きすててしまい、携帯の拾円七十銭の金と万年筆は奪ってしまった。(中略) 右の如きことは不法な行為だが、同権利に支配されている日人でない、外交上不利のため余は黙している。 (『関東大震災と朝鮮人虐殺』) 上は、第1師団野戦重砲兵第3旅団第1連隊の第6中隊に属する一等兵、久保野茂次が1923年10月19日に記した日記の一部である。 逆井橋は旧中川にかかっている橋で、都営新宿線東大島駅から北に10分ほど歩いた所にある。王希天は1923年9月12日未明、この逆井橋のたもと

    【1923年9月12日未明/逆井橋 王希天の70年の「行方不明」】
    muchonov
    muchonov 2013/09/12
    最初のほうに出てきた僑日共済会のリーダーも憲兵に殺されてたんか…。佐々木大尉ひどい野郎だ。
  • 【1923年9月/高円寺 留学生の経験】

    語/English/esperanto 尹克栄(ユン・クギョン)さん(ソウル出身)は、震災当時21歳だった。(中略)1921年に東洋音楽学校に留学、同胞の留学生と高円寺に下宿していた。 震災の後、好奇心で都心はどうなったかと銀座あたりまで出かけて夜通し歩いた。2日にどの場所でか、握り飯配給の列に加わっていたところ、朝鮮人労働者が引きずり出されて殴られるのを目撃する。誰何されて日語で答えられなかったのだ。こうした場面を数回見た。帰り道では、「朝鮮人が井戸に毒を入れて日人を殺す」「あらゆる犯罪をしている。朝鮮人を追い出せ」などの貼紙が、時間がたつにつれて増えていった。何カ所かで尹さんも誰何されたが、なれた日語と日の学生とかわらない雰囲気のためにまぬがれることができた。 下宿に戻ったが余震が続くため、何日か近くの留学生17人でかたまって竹林で野宿をしていた。中野には電信第一連隊があっ

    muchonov
    muchonov 2013/09/07
    併合13年経た同国人を、出身民族を根拠に殺すことに伴う〈誤解〉…。「軍までが「誤解しないでほしい」と伝えてきたそうだ。要するに、有力者の子弟が多い留学生にむやみに怪我でも負わせれば後々まずいというわけ」
  • 9月、東京の路上で

    東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺から90年。記憶・追悼・未来のために~知らせ隊「相思華」プロジェクト。 具学永の墓を立てた宮澤菊次郎は、あんま師だった。 具学永(グ・ハギョン)は埼玉県寄居町に住んでいた、アメ売りの若者である。1923年9月6日深夜、隣村から押し寄せた自警団に殺害された。 私たち「知らせ隊」は、ブログに写真を掲載するために、地元の人々が建てたという彼の墓を訪れた。その際、墓の側面に「宮澤菊次郎 他有志之者」とあるのを見たが、この時点ではそれが誰なのかを知らなかった。立派な墓石を見て、私たちは、「地元の有力者なのだろうか」と首をかしげるしかなかった。 その後、ブログ中で何度も引用してきた山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』(創史社)に、それについて書いた部分を見つけた。読み落としていたのだ。 それによると、寄居署で具学永が虐殺された後、その遺体を引き取り、墓を建てたの

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    muchonov 2013/09/05
    90年前の9月に起こった一連の事件を、当時と同じ日時にリアルタイムで更新してゆく試み(注:ヘビーな内容です)
  • 【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:後編】

    それにしても、息を呑むほかないような惨劇である。焼け出された人々が、過剰防衛意識ややり場のない怒りから暴力的になるというならまだ分かる。だが被災地から遠く離れた人々がなぜ、ここまで残酷になれたのだろうか。山岸秀は、前掲書のなかで、流入した新住民の過剰な忠誠心、同調意識などを背景として指摘しているが、どうもすっきりしない。しかし、私たちが心にひっかかったのは以下の一節だった。 「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということに

    【1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺:後編】
    muchonov
    muchonov 2013/09/05
    このblog読み通すのマジでつらい。どのエントリも途中で何度も挫折しつつ。/新井良作という人はえらかったんだな。/執筆されてるの、山本夜羽音氏とのことのようで。
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