2-2.姜尚中と「民族的自覚」 姜のこうした天皇制(的価値観)の肯定は、姜自身の在日朝鮮人としての「民族的自覚」の否定と対応している。 「かつて作為的に民族的自覚を「ねつ造」せざるをえなかった私は、どこかで「パトリへの情念」を押し殺し、そうすることで民族主義者に脱皮できると思ったことがあった。しかし、身体性を欠いた思想が虚ろなように、パトリなきナショナリズムも虚ろではかない。そこには「根拠地」が欠けているのだ。/確かにその欠落をより積極的な意味へと反転させる回路がないわけではない。ユダヤ的知性に見られるような「意識的パーリア」の道である。だが、私にはどうしてもそれがしっくりとはこなかった。なぜなら、私は余りにもパトリを愛していたからである。/こうして私は、民族を捨て去ることもできず、さりとて、民族から切り離された「パトリへの情念」を手放すこともできないまま、煩悶し、悶々とした日々を送ってい
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