実篤と志賀直哉に関するmusha-gumiのブックマーク (3)

  • 2011-06-25

    石黒敬七『蚤の市』(大倉書房、昭和10年2月)によると、 昔、一高の数学の教授で、巴里に留学し、そのまゝ巴里美人と出来て、今では二人の児もあり、仏蘭西に帰化して、美術学校の横、ボナバルト通りは十二番地に、日雑貨店を経営し、浮世絵、日料品、絵具材料、東洋骨董品等を売つてゐる側ら、東洋語学校の先生もしてゐる。在巴二十数年、今では二代目諏訪老人になりかゝらんとしてゐるが、いつ迄も先生気質が抜けず、商売下手である。(略) 或時、僕が、岡一平氏の息太郎君と通りがゝりに此の宝の山へよつた事があるが、他にも二三人日人がゐて、内藤氏が香水等を出して見せてゐると、太郎君が「この香水は何?ウビガンかい?」といつてきくと、内藤氏が「お前みたいな小僧が香水の事をきいて何にする?ソレ見ろ、まだ尻に黄色い卵の殻がついてゐるぢやないか」といつた。 この岡太郎を小僧呼ばわりした内藤氏、内藤丈吉というが、ググる

    2011-06-25
  • asahi.com(朝日新聞社):発見原稿、67作家214作品 中央公論元編集長の遺品 - 文化

    志賀直哉「雨蛙」の原稿。タイトルでは「枝」を消して「雨」に直している  「中央公論」元編集長の遺品から志賀直哉や谷崎潤一郎ら多くの作家の小説原稿が見つかった件で、寄贈を受けた日近代文学館が23日に会見を開き、遺品の内訳を発表した。67人の作家らの、計214作品が含まれていたという。56人分、171通の書簡もあった。会見した紅野(こうの)敏郎早大名誉教授は「壮観だ。大正期に活躍した作家がほぼ網羅されており、例のない貴重な資料だ」と話した。  遺品は編集長だった滝田樗陰(ちょいん、1882〜1925)のもの。原稿は1915〜25年に「中央公論」に掲載されていた。明治期から活躍した正宗白鳥、白樺派の武者小路実篤らの原稿もあり、若山牧水の歌も見つかった。ジャーナリスト長谷川如是閑(にょぜかん)の原稿もあった。  原稿の多くに推敲(すいこう)の跡があり、志賀や谷崎、白鳥の原稿では特に多く推敲が重ね

    musha-gumi
    musha-gumi 2010/07/24
    滝田樗陰の遺品について、寄贈を受けた日本近代文学館が7/23に発表。志賀直哉「雨蛙」の題名案が「枝蛙」だったり、実篤の原稿も確認された。
  • asahi.com(朝日新聞社):〈「白樺」100年・上〉セカイ系が継ぐ感覚 - 文化トピックス - 文化

    〈「白樺」100年・上〉セカイ系が継ぐ感覚(1/3ページ)2010年4月3日11時24分 作家の武者小路実篤や志賀直哉が参加した雑誌「白樺」が創刊され、この4月で100年になる。自由で人間を肯定する思潮は、日人の創作や鑑賞の形を変えたといわれる。文学に限らず美術館まで建てようとしていた「白樺派」の運動は、1世紀を経た日の芸術の状況と重なる部分も少なくない。その意味を探る。 ■今に通じる「自分探し」 「白樺」は同時代には新鮮だった。芥川龍之介は武者小路を「文壇の天窓を開け放って、爽(さわやか)な空気を入れた」と評した。 「白樺」はまず、ゆったりとしたレイアウトに短編小説を織り込み、図版を採り入れるなど、雑誌を読む面白さが工夫されていた点で清新だった。 雑誌メディアに詳しい日大の紅野謙介教授(日近代文学)は「自由で大胆な文学を、活字やレイアウトを工夫して載せた。20代の若者が実験的な雑誌

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    musha-gumi 2010/04/03
    「白樺」から現代につながる要素を考える。見直す契機になれば。
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