三人の親しい交友関係を示すということもあるが、実はこの三人が、関東大震災後の上野のお山の洋画家たちが複製物であるマスメディアという新聞に小説の挿絵を描き、新聞小説挿絵を牽引し黄金時代を築いたといっても過言ではないからだ。更に三人は、岸田劉生らと共に春陽会の創設に客員として参加し、1927(昭和2)年に開催された第5回春陽展の会場では「挿画室」が設けられたが、小杉未醒や山本鼎らとともにこの3人の存在が大きな力となったものと思える。本絵を飾る展覧会場に、それまでは蔑まれていた挿絵が飾られたのだから、大変な意識革命を起し、新聞小説の挿絵に多くの洋画家たちが参加するきっかけを作った。 「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」(中川一政美術館、平成6年) 「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」より転載。行司は木村荘八で、相撲に興じる中川一政と石井鶴三だが、鶴三は彫刻家であるが、洋画
水明洞の店頭100円均一では展覧会図録がよく出ている。これまであまり図録類は買わなかったが、最近は、自分でも不思議だが、美術系の資料に回帰している感じなのである(画家と名乗っている以上、当り前と言えば言えないこともないけれど)。これもそんな一冊。日本橋東急百貨店一九七一年一〇月八日〜一八日に開催されたもの。 要するにこの集合写真に惹き付けられた。キャプションには《草土社第七回展覧会記念/写真 後列左から二人目中川 芝川 二/人おいて木村 川幡/前列 田村 横堀/劉生 椿 中島》とある。中川一政、芝川照吉、木村荘八、川幡正光、田村憲、椿貞雄、中島正貴、他三名である。みんな若い。草土社第七回展は大正八年の十二月に赤坂溜池三会堂で開催された。岸田劉生は二十八、中川一政は二十六。 そして草土社を後援していた芝川照吉は四十八だった。佐野繁次郎の父親の親友で親戚にもなる人物。おそらくこの大正八年に佐野
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く