木村荘太に関するmusha-gumiのブックマーク (3)

  • 木村荘八のこと - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's

    東京ダウンタウンストリート1980's 1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。 さて、前回に引き続いて木村荘八について書いてみたい。この人物は、前回書いたように明治の東京の傑物と言われた「いろは大王」木村荘平の息子なのだが、二十一店あったいろは牛肉店は荘平の妾が経営しており、その一人が荘八の母であったわけである。三十人にもなるこの兄弟だが、特筆すべきは才能ある人物が豊富であったことだろう。荘八の兄、莊太も文学者であった。また長姉の栄子(荘平の上京前にできた娘)は木村曙という筆名を持ち、18歳で早世したものの明治の女流文学者の走りでもあった。荘十は直木賞作家であり、荘十二は映画監督である。変わり種では、荘六が木村マリニーという芸名を持つ奇術師で、アダチ龍光が弟子であった。 早世した者がいて、長寿を全うした者がいて、それぞれの人生なのだが、こんな風に一風

    木村荘八のこと - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
    musha-gumi
    musha-gumi 2011/07/05
    三里塚御料牧場記念館に荘太の展示もあるらしい。いつか行ってみたい。
  • 成田図書館嘱託木村荘太 - 神保町系オタオタ日記

    『成田図書館八十年誌』によると、 木村荘太 (昭和一五・九−昭和二一・六*1) 明治二二年二月三日東京市芝区三田四国町に生れる。(略) 今沢館長の招請により昭和一二年一二月より同一三年二月まで「成田山史」編纂委員に加わり、同一五年より当館に勤務し専ら、未整理であった洋書を綿貫司書と共に整理に当った。晩年の翻訳書に「英国衰亡史」がある。 また、『図書館雑誌』35年4号(昭和16年4月)の「彙報」欄に、通常会員入会者として木村の名がある。「木村荘太 成田図書館嘱託 住所・千葉県印旛郡遠山村久米二九一 紹介者:成田善亮」。木村は、日図書館協会にも加盟していたのだ。昭和25年4月、木村は成田山公園で首吊り自殺をした。 (参考)昭和25年4月17日『読売新聞』夕刊には「遺書七通あり成田署長にあて「お騒がせして申訳ない、女房のヒステリーにどうにもならないので死ぬ、死体は家庭へ運ばずに焼捨ててもらいた

    成田図書館嘱託木村荘太 - 神保町系オタオタ日記
    musha-gumi
    musha-gumi 2010/05/16
    『成田図書館八十年誌』から。
  • 高村光太郎と木村荘太の決闘に立ち会う谷崎潤一郎 - 神保町系オタオタ日記

    明治43年11月20日の「パンの会」では、色々事件が起きている。小谷野氏の「谷崎潤一郎詳細年譜」によると、 日橋大伝馬町の三州屋で開かれた「パンの会」の集まりに出席し、永井荷風に会う。ほかに、与謝野鉄幹、蒲原有明、小山内、木下杢太郎、久保田万太郎、白秋、長田秀雄(26)、幹彦(24)、岡一平、高村光太郎ら。『白樺』からは正親町公和と里見恕s。酔った谷崎は里見に、日下の「給仕の室」が良かったと言う(里見「青春回顧」)。秀雄は入営前だったが「刺青」を褒める。木村は「河内楼のモナリザ」を高村から奪い、決闘するかもしれないと谷崎に言う。 この「決闘」だが、高村の年譜によると、 夜、日橋大伝馬町ひょうたん新道の三州屋でパンの大会。長田秀雄、柳敬助の入営祝の幟に光太郎が黒枠を描いて物議をかもした黒枠事件がある。若太夫をめぐって木村荘太と恋争いがあり、荘太が決闘を申し込もうとしたのもこの時。結局若

    高村光太郎と木村荘太の決闘に立ち会う谷崎潤一郎 - 神保町系オタオタ日記
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