さて前エントリで指摘した問題に対してあり得る一つの対応は、笠井批判を撤回することである。自己奴隷化の否定は笠井的な主体喪失の論法によればよく、最低限のパターナリズムについては撤回するか、別の根拠から正当化を試みることにすれば良い。いずれにせよ自己奴隷化の論点において結論は一致しているのだから、森村の理論体系にとってそれほどの痛手ではない、ようにも思える。たとえ主体が最後のその瞬間まで存在していたとしても、履行されるときに存在していなければその意思は保護されない。主体なき行為は不能であるということに決めるのだ。 もちろん、問題はただちに考えつく。例えば我々はしばしば、自分自身を受取人とした生命保険を購入する。もちろん三途の川で受け取りたいという趣旨ではなく、自己の相続財産に加算してほしい(遺言相続・法定相続の対象にしてほしい)という意味である。このような契約は上記のスキームでは不可能になるだ