メモとリバタリアニズムに関するmxnishiのブックマーク (4)

  • リバタリアンと相続(3・完) - おおやにき

    さて前エントリで指摘した問題に対してあり得る一つの対応は、笠井批判を撤回することである。自己奴隷化の否定は笠井的な主体喪失の論法によればよく、最低限のパターナリズムについては撤回するか、別の根拠から正当化を試みることにすれば良い。いずれにせよ自己奴隷化の論点において結論は一致しているのだから、森村の理論体系にとってそれほどの痛手ではない、ようにも思える。たとえ主体が最後のその瞬間まで存在していたとしても、履行されるときに存在していなければその意思は保護されない。主体なき行為は不能であるということに決めるのだ。 もちろん、問題はただちに考えつく。例えば我々はしばしば、自分自身を受取人とした生命保険を購入する。もちろん三途の川で受け取りたいという趣旨ではなく、自己の相続財産に加算してほしい(遺言相続・法定相続の対象にしてほしい)という意味である。このような契約は上記のスキームでは不可能になるだ

  • リバタリアンと相続(2) - おおやにき

    さて、前エントリでは森村・八島に共通する要素として、死後には保護すべき自然権の主体が存在しないから相続は否定されるという考え方を挙げた。実際に森村は『自由はどこまで可能か』において、相続とは結局財産の所有者に死後の財産処分に対する権限を与えるものであるが、意思のない死者は行為者たり得ないと主張している。そこで問題は、このような発想が(1)妥当な帰結をもたらし得るのか、(2)一貫性を維持し得るかという点にある。後者から考える。 リバタリアニズムについて頻出する論点が自己奴隷化である。リバタリアニズムは自由を極大化し自己所有権を保障すると言うが、では自己を奴隷として売り渡すような契約を結ぶ自由もそこに含まれることになるのか。そのような帰結は道徳的直観に反しており、そのような帰結が導かれる前提=リバタリアニズムは誤っているのではないか。こういう批判に対して、多くのリバタリアンは何らかの根拠から自

  • リバタリアンと相続(1) - おおやにき

    以前に「リバタリアニズムによる相続否定論」と書いたところ「なんでそうなるのか」という質問(意訳)が来たので補足説明を試みようとしたところ結構めんどくさいので弱る(さらにその途中で余計にめんどくさい問題に気付いてしまいさらに弱る)。そもそも私自身はぜんぜんリバタリアンではないので説明に向いているかという問題があるのだが、まあ責任を取ることにしようと思う。 で、まずなんでリバタリアンじゃないと説明に向いていないと思うかというと、前にもちょっと書いたが、リバタリアンって何なのかがさっぱりわからない点にある。というのは一口に「リバタリアン」と言ってもそれが意図している制度構想(具体的にどの範囲の政府を正当だと考えるか)も、その正当化根拠(なんでその立場を取るかという理屈)もばらばらだからだ。とりあえず基的な認識としては左図(森村進『自由はどこまで可能か:リバタリアニズム入門』(講談社現代新書 2

  • 法哲学会レポート(2・完) - おおやにき

    ちなみに何故いつもより早い時期に書いているかというとコメントに促されたからではなく、今年は正月がなさそうだからです。しくしく。 さて八島報告だが、リバタリアニズムによる相続否定論というのは別に構わないのだが、遺贈はどうするのかという質問に対して「考えてませんでした」(超訳・だが「将来の課題として」ってのはそういう意味だよな)と答えられた段階で「ありえねえ」と当に声に出して言ってしまった私を誰が責められよう(反語)。私自身が質疑において指摘した通り、権利主体性の終期がいつなのか、権利消滅後の無主物と国家との関係も不分明である。所有者の死によって無主物となったものを国家が管理するというのだが、従って所有権は消滅していると考えると、残された家族が自宅などを再取得するために国家に金銭を支払うとすることの根拠が不明である。おそらく金銭を念頭に置いているのだろうが、無主物となった死者の財産を一定の条

    mxnishi
    mxnishi 2008/08/20
    相続について
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