ブックマーク / www.axis-cafe.net (18)

  • 自由か、さもなくば幸福か? - おおやにき

    というわけでやっとのこと新著の刊行にこぎつけました(もちろん私がまとまった原稿を書けなかったせいですが)。内容紹介のつもりで以下に目次を掲げておきます。書店での発売は3月12日とのこと。選書なので置いてある屋さんが多くないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 大屋雄裕 『自由か、さもなくば幸福か?:21世紀の〈あり得べき社会〉を問う』 筑摩選書、筑摩書房、2014/3。 はじめに 第1章 自由と幸福の19世紀システム 1 近代リベラリズムと自己決定の幸福 2 契約自由の近代性 3 参政権:自己決定への自由 4 権利としての戦争 5 19世紀システムの完成:自己決定する「個人」 第2章 見張られる私:21世紀の監視と権力 1 監視の浸透 2 情報化・グローバル化と国家のコントロール 3 「新しい中世」 第3章 20世紀と自己決定する個人 1 19世紀から遠く離れて:戦争と革命の20

  • あとからひとこと - おおやにき

    雪斎先生が「政治家に会ったら、尋ねてみれば興味深い。 「貴方は、政治家として誰に憧れ、誰に倣おうとしているのか」。」という話を書いていて大変に得心したのだが、さて「好きな政治家は馮道とシュペーアです」とかいう私のようなイキモノはどういう扱いになるのであろうか(挨拶)。不吉ですかそうですかまあ政治家じゃないからいいよね。 さてWebronzaのシノドス・ジャーナルに「正当性と正統性」「予測可能性と統治の正統性」という二篇の続き物を書いた。α-Synodosにも載ったのではないかと思う。なんか他の皆さんが震災対応モードなのに対してとてつもなく呑気なことを書いているような気もするのだが、まあ法哲学者の価値はそのあたりにあると開き直っておきたい。で、当該記事では最終的に現政権下で世の中がいかに予見可能性を欠くようになっているかという話をしているのだが、その一例として国立大学がどのような事態になって

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    mxnishi 2011/07/09
    あるある。「「指定様式がまだ公表されていないのですが、とりあえずこの日が締切です」というステキな状態。」
  • 増刷 - おおやにき

    中野剛志(編)『成長なき時代の「国家」を構想する:経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』(ナカニシヤ出版、2010)がもう増刷になったそうです。おや。このには私の原稿(大屋雄裕「配慮の範囲としての国民」)が収録されているのと、巻末の座談会(「第III部 討議 『経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』をめぐって」出席者:中野剛志・松永和夫・松永明・大屋雄裕・萱野稔人・柴山桂太・谷口功一)にも出ているので、当は12月の記事で書くべき話だったのですが多少補足しておきます。 これがどういうかというのは冒頭にも解題があるのですが、まず典型的にはGDP増加率で測定されるような経済成長の実現のみを経済政策の目標にすることは適切なのかという問題意識が編者である中野剛志さんなどにあり、まああまり適切ではないだろうという見通しがあったわけですが、それは特に日の場合は将来の人口減少が予測されているなかで

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    mxnishi 2011/02/11
    これを読む限りでは中野剛志(編)『成長なき時代の「国家」を構想する:経済政策のオルタナティブ・ヴィジョン』は読まなくて良い本かなと思う。
  • 暴力装置 - おおやにき

    いやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基中の基であり、その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。で、日では主として歴史的経緯によりこの両者が相当明確に区別され、かつ現実的にもあまり仲が良かったり悪かったりという話があるわけだが(戦前ならゴーストップ事件が典型ね)、フランスやイタリアにある国家憲兵隊制度や、発展途上国に多い警察軍制度に示されているように暴力としての質に違いがあるわけではなく向きを変えれば同じものであると、そう整理されることになる。 その上で、まあ法哲学的にはゆえに国家は質的に悪であるとする立場と、しかしこの暴力抜きには社

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    mxnishi 2010/11/18
    大屋先生の反応が早かった。
  • 続・岡崎市立図書館事件(1) - おおやにき

    要約:高木浩光氏は、twitterによる・第三者の・不正確な要約をもとに、他人を罵倒してもよいと考えている人のようです。 経緯: 大屋、討論会でパネルとして発言。 参加者の中に、内容を要約してtwitterで発言していた人がいる。ただし欠けている・落ちている部分が必然的にあったほか、不正確な部分もあったと指摘されている。 たとえば以下の展開。

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    mxnishi 2010/10/05
    怖いねぇ。
  • 岡崎市中央図書館事件 - おおやにき

    呼ばれたので行ってきました。パネル討論会「「岡崎市中央図書館ウェブサーバ事件」から情報化社会を考える」(主催:ESD21(持続可能なモノづくり・人づくり支援協会))。会場は中京大学の八事キャンパスなので、あまり普段と代わり映えがしないな。パネリストは4名で、他はまあ図書館系と情報系の方だったので、法律系としての機能を期待されているのかなあと思ってみたり。いや実定法学者でもないので多分に不安が残るところなのですが。 でまあ述べた内容ですが、この件で図書館側・ベンダー側・警察側に問題があったというのは多くの人が言っていることだし、まあベンダーの問題点って否定できないよねえと素人ながらに思うのでそのあたりは他に任せて、逮捕されてしまった開発者の行動にも「問題」(ベストプラクティスではないという意味でのね)はなかったかという点と、警察・図書館の行動にも「問題」はあったがその背景にある事情というもの

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    mxnishi 2010/10/03
  • 自由への問い - おおやにき

    出ました。大屋雄裕「自由か幸福か、あるいは自由という幸福か」加藤秀一(編)『自由への問い8 生:生存・生き方・生命』岩波書店、2010、pp. 195-217. 最終巻ですな(編成でも刊行順でも)。 内容は個人攻撃です。というか正確には安藤馨のような統治功利主義を我々が受け入れざるをえないのか、一定の限界線がそこにあるのかという問題を考えたもので、『自由とは何か』の最後の部分でフィクションとしての個人というコンセプトに私が執着した理由がどこにあるのかをやや詳細に論じたものということになります。 でただその、「おまえの議論は神の視点である」というのが安藤氏人にとってダメージと感じられるわけではなく(多分「そうですがなにか」で終わり)、逆に私の反論というのも(『法解釈の言語哲学』の基礎になっている)唯我論的な反実在論に依存しているので、結局ぐるりと回ってお互いの立脚点と議論の地平を確認しまし

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    mxnishi 2010/08/07
    加藤秀一(編)『自由への問い8 生:生存・生き方・生命』岩波書店は買い。
  • 参院選・おまけ - おおやにき

    ええと千葉法相が死刑執行に踏み切ったそうで、当に何を守りたくて何してんのかわかんなくなってきたわけですが(「2人の死刑を執行 千葉法相になって初、自ら立ち会う」asahi.com)。 民主党の枝野幹事長は執行命令に法相が署名したのは24日だと明らかにしたそうですが(MSN産経ニュース)、いや参院議員としての在職期間内だろうがその資格を失ってからだろうが法的には法務大臣であることに変わりがない以上どうでもいいことだし、政治的に落選によって正統性が傷ついた状態であることにも変わりないので差はなく、何が言いたかったのかねえ。たとえば内閣不信任決議を受けて首相が衆議院を解散した場合、当該内閣は総選挙後に特別国会を召集するのに伴って総辞職するまで法的には現職に留まっているわけだが、だからといってその期間に(最低限やらざるを得ないレベルを超えて)大赦・特赦だの条約締結だのバリバリやったらまずいと思う

  • 個人情報とプライバシ - おおやにき

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    mxnishi 2009/07/11
    「従来の「秘密の保護としてのプライバシ」という考え方から「とにかく個人を特定できる情報すべての利用目的特定」という考え方に変化してきてい」る件について。
  • 雑感 - おおやにき

    さあこれで年度末まで少し原稿を書く余裕ができたぞと思ったら次々とアポイントメントを入れられている件(挨拶)。忙しさに取り紛れて書き忘れていたのですが、名古屋大学法科大学院(大学院法学研究科実務法曹養成専攻)で私が開講している「情報と法」が、2009年度は南山大学法科大学院との共同開講科目になります。まあ私にとっては別に学生さんによその人も一定数混ざるかもしれないというだけのことで、授業も従来通り名大で一度やるだけなのでいいのですが(でも授業時間は(より遅い)南山に合わせるので45分遅れ)、これに伴い南山・名大の双方で履修に事前手続が必要になるようです(講義開始日にいきなり教室に来ても履修が認められません)。つまりその、LSの授業なので人数が一定数を超過するとまずいということらしい。履修希望のある人がここを見ていたらご注意ください。さて。 民主党・小沢代表の秘書が逮捕された件。まあ体の進展

    mxnishi
    mxnishi 2009/03/24
    この件については追っていないので、ほぉん、くらいしか云えない。けど面白いなぁ。
  • 陰謀論 - おおやにき

    湾岸戦争アメリカの陰謀だと主張していた人に「でもきちんとした根拠が示せなければその主張自体が陰謀になっちゃうんじゃないですか?」と聞いたら「それは違う」と断言されたのだが何がどう違うのか最後まで説明してくれなかった件について(挨拶)。一応世間では哲学者として名の通っている人だったんだけどなあ......分析的思考はできない人だったけど(*1)。そんなことをふと思い出した。 さてその、民主党の小沢党首の公設秘書・会計責任者が逮捕されたという件についてなのであるが、事件自体がどの程度の広がりを持っているのかとか、どの程度の証拠・証言が揃っているのかといったような問題については今後の展開を待つしかないと思う。ただ、この時点で陰謀論を唱えるダメな人は洗い出されたのかなという感じ。 今のところは単に「逮捕」という事実があるだけでその背景情報はほとんど出てきていない。相手の手札がさっぱりわからない段

    mxnishi
    mxnishi 2009/03/04
    ツイッターにも書いたけど、鳩山くんは駄目すぎる。
  • リバタリアンと相続(3・完) - おおやにき

    さて前エントリで指摘した問題に対してあり得る一つの対応は、笠井批判を撤回することである。自己奴隷化の否定は笠井的な主体喪失の論法によればよく、最低限のパターナリズムについては撤回するか、別の根拠から正当化を試みることにすれば良い。いずれにせよ自己奴隷化の論点において結論は一致しているのだから、森村の理論体系にとってそれほどの痛手ではない、ようにも思える。たとえ主体が最後のその瞬間まで存在していたとしても、履行されるときに存在していなければその意思は保護されない。主体なき行為は不能であるということに決めるのだ。 もちろん、問題はただちに考えつく。例えば我々はしばしば、自分自身を受取人とした生命保険を購入する。もちろん三途の川で受け取りたいという趣旨ではなく、自己の相続財産に加算してほしい(遺言相続・法定相続の対象にしてほしい)という意味である。このような契約は上記のスキームでは不可能になるだ

  • リバタリアンと相続(2) - おおやにき

    さて、前エントリでは森村・八島に共通する要素として、死後には保護すべき自然権の主体が存在しないから相続は否定されるという考え方を挙げた。実際に森村は『自由はどこまで可能か』において、相続とは結局財産の所有者に死後の財産処分に対する権限を与えるものであるが、意思のない死者は行為者たり得ないと主張している。そこで問題は、このような発想が(1)妥当な帰結をもたらし得るのか、(2)一貫性を維持し得るかという点にある。後者から考える。 リバタリアニズムについて頻出する論点が自己奴隷化である。リバタリアニズムは自由を極大化し自己所有権を保障すると言うが、では自己を奴隷として売り渡すような契約を結ぶ自由もそこに含まれることになるのか。そのような帰結は道徳的直観に反しており、そのような帰結が導かれる前提=リバタリアニズムは誤っているのではないか。こういう批判に対して、多くのリバタリアンは何らかの根拠から自

  • リバタリアンと相続(1) - おおやにき

    以前に「リバタリアニズムによる相続否定論」と書いたところ「なんでそうなるのか」という質問(意訳)が来たので補足説明を試みようとしたところ結構めんどくさいので弱る(さらにその途中で余計にめんどくさい問題に気付いてしまいさらに弱る)。そもそも私自身はぜんぜんリバタリアンではないので説明に向いているかという問題があるのだが、まあ責任を取ることにしようと思う。 で、まずなんでリバタリアンじゃないと説明に向いていないと思うかというと、前にもちょっと書いたが、リバタリアンって何なのかがさっぱりわからない点にある。というのは一口に「リバタリアン」と言ってもそれが意図している制度構想(具体的にどの範囲の政府を正当だと考えるか)も、その正当化根拠(なんでその立場を取るかという理屈)もばらばらだからだ。とりあえず基的な認識としては左図(森村進『自由はどこまで可能か:リバタリアニズム入門』(講談社現代新書 2

  • 法哲学会レポート(2・完) - おおやにき

    ちなみに何故いつもより早い時期に書いているかというとコメントに促されたからではなく、今年は正月がなさそうだからです。しくしく。 さて八島報告だが、リバタリアニズムによる相続否定論というのは別に構わないのだが、遺贈はどうするのかという質問に対して「考えてませんでした」(超訳・だが「将来の課題として」ってのはそういう意味だよな)と答えられた段階で「ありえねえ」と当に声に出して言ってしまった私を誰が責められよう(反語)。私自身が質疑において指摘した通り、権利主体性の終期がいつなのか、権利消滅後の無主物と国家との関係も不分明である。所有者の死によって無主物となったものを国家が管理するというのだが、従って所有権は消滅していると考えると、残された家族が自宅などを再取得するために国家に金銭を支払うとすることの根拠が不明である。おそらく金銭を念頭に置いているのだろうが、無主物となった死者の財産を一定の条

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    mxnishi 2008/08/20
    相続について
  • 私たちは監視されている - おおやにき

    ようやく無事にクーラーが我が家に来たわけである。新居はLDKがひとつながりなので結構大型のを購入したわけだが、売り場で店員さんの説明を聞いていて仰天することしきり。まあここ7年くらいクーラーなんか買っていないのでその間の技術的な進化に無知だったからということなのだが、なんか最近はフィルタを自動的に掃除してくれるらしい。さらにC社のは掃除してたまったゴミをこちらが捨てなくてはならないのに対しA社とB社のものは室外機から自動的に排出しますとか力説されいいのかそれは。カタログで確認したらC社のものは確かにゴミ捨ての手間が必要なのだが平均すると2年に一度だそうでいいだろうそのくらい自分でやっても、というか別にフィルタ掃除くらい手間だとも思わないのだがどうなのかそのあたり。警察政策フォーラムの質疑応答でも述べたことなのだが、やはり我々は限りなく便利な社会を志向しているのだろうかとなんでクーラー買いに

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    mxnishi 2008/06/22
    監視が「どう考えても善意の産物」であること、について
  • 神は必要か - おおやにき

    というわけで東京法哲学研究会で行なわれた安藤馨『統治と功利』の合評会に行ってまいりました。全体的には、同書の特に理論的な検討の部分に焦点の当てられたコメントが加えられ、著者のリプライ・フロアとの議論にわたってその雰囲気が維持されたので、テンションの高い良い研究会だったのではないかと思います。というか私はメタ倫理回りについては門外漢なので(その一つの理由は私には存在が見えないからですが(だって認識しかないじゃんねえ))、しっかり勉強するつもりで聞きに行って勉強して帰ってきたという有意義なイベントでした。はい。 ところで私から安藤氏に向けられた質問について若干補足しておくと、まず評者である江口先生から安藤にはなぜ功利主義を取るべきかという説明・説得がほとんどないという指摘があったわけです。功利主義の中で取り得るヴァージョンはこれだ、という議論はきちんとなされているが、何故そもそも人々が功利主

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    mxnishi 2008/01/23
    安藤馨『統治と功利』合評会
  • 「一般意思」 - おおやにき

    まだ解放されない(挨拶)。ところで私が普段読まない新聞にこういう記事が載っていたという情報を目にしてついリンクを踏んでしまって不幸になる。ん〜まあこの方が法律について語るわりにはちっとも勉強しておられないという件についてはすでに述べているのだが、しかし来のフィールドに近いはずの社会思想にまでここまで不勉強だとは思わなかったなあ。東京新聞から「【試される憲法】社会学者 宮台真司さん 国家操縦の『憲法意思』大事」。他の部分についてはまあそういう意見もあるだろうという話なのだが、問題は以下の箇所である。 ルソー(仏の哲学者)のいう一般意思だから、日人の大半がそう思っている、と日人全員が思えなければなりません。 それには、国民の八割が投票して八割が賛成するといった圧倒的意思が、示される必要があります。

    mxnishi
    mxnishi 2007/05/15
    ルソーの「一般意思」について
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