「特攻」が語られる際、取り上げられるのは、その作戦の理不尽さや戦果の多寡であって、どのような経緯でこの作戦が採用されたのかについて触れられることは少ない。 実は、昭和19(1944)年10月25日の最初の特攻、敷島隊の突入の1年以上前に、航空機や特殊潜航艇による体当たり作戦が具申されていたのだが、海軍は「搭乗員が必ず戦死するような作戦は採用できない」として却下していた。 ところが、75年前のある日の出来事をきっかけに、特攻作戦は一気に加速し、多くの若い搭乗員が海原に散ることになった。その出来事とは、海軍上層部の大失態による手痛い敗北だった。 一部始終を見ていた東京帝大出の主計科士官 いまから75年前の昭和19(1944)年2月17日から18日にかけて、中部太平洋における日本海軍の一大拠点・トラック島(現・チューク諸島。環礁と248もの島々からなるが、当時はこれらを合わせてトラック島と呼んで