宜野湾市史によると、区画整理事業に合わせて用地を確保した。市史には、60年代の普天間飛行場は使用頻度が少なく、地元紙が「閉鎖がうわさされている」と報じたと記されている。72年の日本復帰時に日米が在沖米軍各施設の使用条件などを取り交わした「5・15メモ」では、普天間飛行場への住民の出入りは「米軍の活動を妨げない限り許される」とされ、当時の子どもたちは近道のため基地内を通って通学していた。 しかし市発行の冊子「宜野湾市と基地」によると、70年代に日本本土やハワイなどからヘリなどが次々と移駐。滑走路や格納庫、駐機場の再整備もこのころ進んだ。 騒音や危険性が増し、80年ごろ移転計画が浮上した。だが、当時25億円と言われた用地取得費の補助について、国は「そういう制度はない」と難色を示し、移転先の候補だったキャンプ瑞慶覧の一部敷地も、米軍から「代わりに今の校地を米軍に提供すること」などの条件が付けられ