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  • 白石萬隆 - Wikipedia

    白石 萬隆(しらいし かづたか[1]、1892年(明治25年)10月24日 - 1961年(昭和36年)11月16日)は、日の海軍軍人。太平洋戦争開戦時の第二艦隊参謀長として、南方攻略戦や第三次ソロモン海戦など、第七戦隊司令官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を戦った海軍中将である。 愛媛県出身。海軍兵学校および陸軍士官学校(第26期)を受験し、双方に合格している。海軍兵学校42期。同期生に大西新蔵、三戸寿、小柳冨次らがいる。白石の席次は117名中21番[2]であったが、練習艦隊において好成績を収め、1915年(大正4年)の少尉任官時の席次はかなりの程度上昇した[3]。初級士官配置を終えたのち、水雷学校高等科へ進み水雷専攻士官となる。白石は首席[4]で卒業し、軽巡洋艦「天龍」水雷長、駆逐艦「旗風」艦長、第一水雷戦隊参謀を務めている。当時の第一水雷戦隊司令官は水雷戦術の権威であった有地十五

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  • 宇垣纏 - Wikipedia

    宇垣 纒(うがき まとめ、1890年(明治23年)2月15日 - 1945年(昭和20年)8月15日)は、日の海軍軍人。海兵40期・海大22期。最終階級は海軍中将。陣中日記『戦藻録』が有名。 1890年(明治23年)2月15日、岡山県赤磐郡潟瀬村(現・岡山市東区瀬戸町肩脊)の農家で教師の父・善蔵のもとに生まれる。宇垣一成陸軍大将、宇垣完爾海軍中将は近郷同族だが、縁戚関係はない[1]。岡山中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第24期)を受験し、双方に合格している。ちなみに陸士の合格成績は12番だった。1909年(明治42年)9月11日、海軍兵学校40期に成績順位150名中第9位で入校[2]。同期に大西瀧治郎、山口多聞、多田武雄ら[3]。1912年(明治44年)7月17日、海軍兵学校を成績順位144名中第9位で卒業し[2]、少尉候補生となる。 1918年(大正7年)12月、海軍大尉に

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  • 小松輝久 - Wikipedia

    小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年〈明治21年〉8月12日 - 1970年〈昭和45年〉11月5日)は、日の皇族、華族、海軍軍人。海軍中将従二位勲一等侯爵。北白川宮家出身。皇族時代の名と身位は輝久王(てるひさおう)。 伊勢神宮大宮司の小松揮世久は孫にあたる[1][2]。 小松輝久と家族(昭和初期) 北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。 1906年(明治39年)、一般受験を経て海軍兵学校第37期入校。入学時の席次は180人中122番(または166番)[3][4]。同期生に井上成美大将、岩村清一・小沢治三郎・草鹿任一・桑原虎雄各中将など。 当時の皇族は天皇の許可により無試験で陸軍士官学校(及び陸軍幼年学校)や海軍兵学校に入校可能であったが、以前から海兵入学を希望していた輝久王は特別扱いを拒否し、能久親王妃富子

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  • 醍醐忠重 - Wikipedia

    醍醐 忠重(だいご ただしげ、1891年〈明治24年〉10月15日 - 1947年〈昭和22年〉12月6日)は、日の海軍軍人、貴族院議員。 海軍中将。爵位は侯爵。後陽成天皇の男系九世子孫である。 来歴[編集] 誕生~海軍少尉[編集] 1891年10月15日に、東京市麹町区元園町で公卿華族(清華家)の醍醐侯爵家の嫡子(三男[1])として生まれる。父・醍醐忠敬は戊辰戦争において奥羽鎮撫副総督を務めたが、1899年に家督相続に絡む怨恨によって甥(忠敬の兄忠告の子)の格太郎に射殺された。この事件が大スキャンダルに発展してしまい、これが原因で醍醐家は没落、忠重は公卿摂家の一条家に引き取られて養育された。賀陽宮恒憲王は忠重の従兄弟にあたる。 1897年東京市麹町尋常小学校(現・麹町小学校)に入学[2]。1900年に学習院初等科第三学年に転学し卒業。同年8月18日に侯爵家を継承し、侯爵となる。1906

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  • ヒラヌマ - Wikipedia

    「ヒラヌマ (Hiranuma)」は、第二次世界大戦の太平洋戦争において米軍によって報告された、日海軍が保有したとされる戦艦[1]。 しかし「ヒラヌマ」なる艦名は日海軍の命名慣例から大きく外れており[2]、同名の艦船は当時の日海軍に存在しなかった[注釈 1]。 また金剛型戦艦の「霧島 (きりしま、Kirishima) 」を攻撃したり[注釈 2]、「ヒラヌマ」と共に戦艦「榛名(はるな、Haruna) 」を撃沈したという報道もあった[注釈 3]。 「ヒラヌマ」とは、1941年(昭和16年)12月10日の南方作戦にともなうフィリピン攻防戦で、アメリカ合衆国が報道した架空の日戦艦[注釈 4]。 12月11日時点のマニラ発の発表では、ルソン島北部沖合で霧島型戦艦にアメリカ陸軍爆撃機が爆弾3発を命中させたというものだった[注釈 2]。ところがワシントンのヘンリー・スティムソン合衆国陸軍長官が「

  • 大井篤 - Wikipedia

    大井 篤(おおい あつし、1902年(明治35年)12月11日 - 1994年(平成6年)12月27日)は、日の海軍軍人。海兵51期・海大34期。最終階級は海軍大佐。 大東亜戦争(太平洋戦争)中に海上護衛総司令部参謀を務め、戦後に『海上護衛戦』(日出版共同、1953年)を上梓したことで知られる[1]。 1902年(明治35年)12月11日、医師の二男として山形県鶴岡市(現)に生まれる[2]。荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)を経て、1920年(大正9年)8月26日に海軍兵学校に入校し、1923年(大正12年)7月14日に卒業した(兵51期)。入校席次は11位/293名、卒業席次は9位/255名。兵51期の同期生には樋端久利雄(首席)、小園安名、山祐二、実松譲、工藤俊作らがいる。 海軍少尉候補生として練習艦「浅間」に乗組。8月26日、近海航海に出発し11月6日、帰着。11月7日、

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  • 新見政一 - Wikipedia

    広島県広島市安佐北区出身。農業・醤油製造業の新見千五郎の二男として誕生。の澄子は小林躋造海軍大将の妹。旧制広島県立忠海中学校より海軍兵学校第36期入校。席次は入校時200名中35番、卒業時191名中14番。同期生の水戸春造海軍中将は、中学同窓である[1]。新見は海軍砲術学校高等科を修了し、同校教官を務めた砲術専攻士官であり、またオックスフォード大学で国際法を学んだ日海軍有数の知英派である。 駐英武官補佐官在任中に第一次世界大戦の戦史研究を行い、帰国後『海軍中央軍令機関整備ノ意見書』及び『持久戦ニ関スル意見書』当局に提出した。これは日においても次期世界大戦は総力戦となること、また艦隊決戦(英語版)は生起しないことを説き、大営は政戦略一致の機関であること、また海上交通線防御の対策が必要であるというものであった。周囲からは異端児扱いされるが、太平洋戦争の推移は新見の見解が現実であったこと

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  • 入佐俊家 - Wikipedia

    入佐 俊家(いりさ としいえ、1902年(明治35年)4月26日 - 1944年(昭和19年)6月19日)は、日の海軍軍人(海兵52期卒)。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少将[1]。 経歴[編集] 鹿児島県出身。郵便局長・入佐俊祥の息子として生れる。鹿児島二中を経て、1924年(大正13年)7月、海軍兵学校(52期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1928年(昭和3年)12月から翌年11月まで第19期飛行学生として学んだ。 日中戦争時から陸攻隊を率いて多大な戦果をあげ、その技量と用兵から陸攻の神様 海軍の至宝と言われた。常に指揮官先頭を実践し、部下からも上司からも絶大な信頼を寄せられた。 鹿屋空飛行長で太平洋戦争開戦を迎え、南方進攻作戦に活躍、その後、海軍兵学校教官として内地へ帰還するが、1944年(昭和19年)3月、再建された機動部隊(第一機動艦隊)の第六〇一海軍航空隊司令兼

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  • 中澤佑 - Wikipedia

    中澤 佑(なかざわ たすく、1894年(明治27年)6月28日 - 1977年(昭和52年)12月22日)は、日の海軍軍人。海兵43期、海大26期。最終階級は海軍中将。戦時中は特攻作戦を承認し強く推進した責任者でもある。終戦時には部下に「俺は死ぬ係じゃないから」と発言したことで知られる。 [1] 生涯[編集] 1894年(明治27年)6月28日、長野県諏訪郡豊田村(現諏訪市)で農業・染色を営む父・忠助のもとに生まれる。中澤宗家は代々諏訪藩右筆だったが、明治維新により帰農した。父・忠助は豊田村村長も務めた。旧制長野県諏訪中学校を経て1912年(大正元年)9月9日、海軍兵学校第43期に100名中71番の席次で入校。1915年(大正4年)12月16日、96名中19番の席次で卒業、海軍少尉候補生。装甲巡洋艦「吾」乗組。練習艦隊近海航海出発[注 1] し、1916年(大正5年)4月3日に帰着。4

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  • 海軍兵学校卒業生一覧 (日本) - Wikipedia

    海軍兵学校卒業生一覧 (日)(かいぐんへいがっこうそつぎょうせいいちらん(にほん))は、海軍兵学校 (日)の卒業生・修了生の一覧である。なお、原則としてWikipediaに記事が存在する人物を掲載する[1][2]。 各人名の表記方法の意味については次の例示を参照のこと。なお同期、同階級については五十音順に配列する。 戦時の戦死、戦病死、自決、殉職 2階級昇進 関行男 1階級昇進 広瀬武夫 昇進なし 志摩清直 平時の自決、殉職 佐久間勉 法務死 醍醐忠重 卒業生[編集] 1期[編集] 2名。 少将:森又七郎 大佐:平山藤次郎(首席) 2期[編集] 山権兵衛海軍大将。正装。 大将:日高壮之丞・山権兵衛 中将:有馬新一(首席)・植村永孚・河原要一・松永雄樹・ 諸岡頼之 3期[編集] 大将:片岡七郎 中将:内田正敏・上村正之丞 少将:桜井規矩之左右 少尉補:雪下熊之助 4期[編集] 大将:

  • 豊田貞次郎 - Wikipedia

    豊田 貞次郎(とよだ ていじろう、1885年(明治18年)8月7日[1] - 1961年(昭和36年)11月21日[1])は、日の海軍軍人、政治家、実業家。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男[1]。海兵33期首席、海大甲種17期首席。 生涯[編集] 海軍軍人時代[編集] 旧制天王寺中学校より東京外語学校英語科を経て海軍兵学校に入校し第33期を首席卒業。同期に卒業順位第26位の豊田副武大将がいるが、大分県出身の副武とは兵学校入学まで面識がなかった他人同士である。苦労人の副武と天才肌の貞次郎はタイプこそ正反対だが、将官に昇進する頃は「両豊田」と呼ばれ、将来を嘱望された。日露戦争が終わったばかりの1905年(明治38年)11月に第33期は卒業し、東南アジア方面へ遠洋航海に出た。少尉~中尉時代は「香取」「弥生」「千歳」に乗艦、砲術・水雷学校普通科をは

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  • 高柳儀八 - Wikipedia

    高柳 儀八(たかやなぎ のりはち[1]、または たかやなぎ ぎはち、1891年(明治24年)4月17日 - 1973年(昭和48年)12月29日)は、日の海軍軍人。戦艦「大和」第2代艦長。最終階級は海軍中将。 経歴[編集] 佐賀県出身。高柳米吉の息子として生れる。旧制佐賀中学卒を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第25期)を受験し、双方に合格している。1913年(大正2年)12月、海軍兵学校(41期)を卒業。翌年12月、海軍少尉に任官。1920年(大正9年)11月、海軍砲術学校高等科を卒業。戦艦「鹿島」分隊長、駆逐艦「海風」砲術長、砲術学校教官などを経て、1927年(昭和2年)11月、海軍大学校(甲種25期)を卒業した。 軽巡洋艦「名取」・海防艦「浅間」の各砲術長、呉海兵団、重巡洋艦「那智」砲術長、第1艦隊兼連合艦隊参謀、海軍省教育局員(第2課)などを歴任し、1936年(昭和11年)1

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  • 鮫島具重 - Wikipedia

    鮫島 具重(さめじま ともしげ、1889年4月8日 - 1966年9月13日)は、日の海軍軍人。階級は海軍中将。爵位は男爵。 概要[編集] 岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一・南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという[1]。 経歴[編集] 1909年(明治42年)11月、海軍兵学校(37期)を卒業し、翌月に海軍少尉に任官し、同月、養父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年(大正5年)12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「吾」分隊長、「金剛」部隊長、砲術学校教官、「陸奥」副砲長、東伏見宮依仁親王付副官を経て、1923年(大正12年)10月、海軍大学校(甲種

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  • 永野修身 - Wikipedia

    永野 修身(ながの おさみ、1880年(明治13年)6月15日 - 1947年(昭和22年)1月5日)は、日の海軍軍人、教育者。 海軍兵学校28期、海軍大学校甲種8期。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長。海軍の三顕職である連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長を全て経験した唯一の軍人。千葉工業大学の創設発案者[1]。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院(US Army Hosp)へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。 経歴[編集] 海軍兵学校時代の写真 1880年(明治13年)6月15日、高知県で士族(上士)永野春吉の四男として生まれる。海南中学に入学、吉田数馬、田岡正樹(後の東亜同文書院教授)らの薫陶を受け卒業。若い頃は侠気に満ち、清水次郎長に弟子入りしようとした。189

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  • 近藤信竹 - Wikipedia

    近藤 信竹(こんどう のぶたけ、1886年(明治19年)9月25日 - 1953年(昭和28年)2月19日)は、日の海軍軍人。海兵35期首席[1]・海大17期[2]。最終階級は海軍大将。 経歴[編集] 1886年9月25日、大阪府で近藤堅三の次男として生まれる[3]。天王寺中学を経て、海兵35期。入校時の席次は114番、2年次は6番、3,4年次は首席。同期に高須四郎、野村直邦らがいる。1907年11月20日、35期を首席で卒業、少尉候補生となる。1908年12月25日、海軍少尉に任官。 1923年12月1日、海軍中佐に昇進。1924年(大正13年)2月5日、東宮武官(侍従武官兼務)に任命され、翌日には摂政宮・皇太子(昭和天皇、当時23歳)と皇太子妃(香淳皇后)に謁見する[4]。侍従武官として、皇太子や西園寺八郎とゴルフをすることもあった[5][6]。 1926年(大正15年)12月1日、

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  • 樫野 (給兵艦) - Wikipedia

    10トン電動クレーン1組、5トンデリック6、30トン・ヘビーデリック2[12][13] 貨物5,800トン[14] 便乗者260名収容可能[9][注釈 2] 樫野(かしの)は、大日帝国海軍の運送艦[15][16](給兵艦[2])。艦名は紀伊半島南端、大島の東端にある樫野埼に由来する[17]。樫野の全体像を写した写真は無いとされている[2]。 計画[編集] 「給兵艦」とは、武器・弾薬などを輸送する艦のことであり、通常は弾薬暴発防止のための冷却設備等を備える。しかし「樫野」の実際は、給兵艦ではなく大和型戦艦の主砲砲身、主砲塔を運ぶ専用の砲塔運搬艦[18](「重量物運搬船」[19])であった。 日海軍は、大和型戦艦の建造を決定したが、その主砲を「九四式四十糎砲」と呼称するなど口径46センチであることは極秘になっていた。その46センチ砲は呉海軍工廠において製造されるため、同所で建造される1

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  • サルバドール・エドワード・ルリア - Wikipedia

    サルバドール・エドワード・ルリア(伊: Salvador Edward Luria、1912年8月13日 - 1991年2月6日)は、イタリアの微生物学者。ファージの研究の草分けであり、分子生物学を創始した一人でもある。マックス・デルブリュック、アルフレッド・ハーシーとともに1969年度のノーベル生理学・医学賞を受賞した。 ルリアはサルヴァトーレ・エドアルド・ルリア(Salvatore Edoardo Luria)として、イタリアのトリノでユダヤ人の家庭に生まれた。1935年にトリノ大学医学部を卒業し、1936年から37年にかけては衛生兵としてイタリア陸軍に従軍した。その後、ローマ大学で放射線医学の授業を受け持った。ここでマックス・デルブリュックの遺伝子に関する理論を知り、細菌に感染するウイルスであるバクテリオファージを使ってその理論を検証する実験方法を考え始めた。 1938年にルリアはア

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  • ブラウン・ラチェット - Wikipedia

    ブラウン・ラチェット(英: Brownian ratchet)は、リチャード・P・ファインマンが、物理の講義において熱力学第二法則を説明するために仮構した見かけ上永久機関のようにみえる思考実験上の装置を指してしばしば用いられる用語である。 また、ファインマンのこの機構といくらか類似の仕組みが細胞内のイオンポンプなどで実現されていると考えられるため、それらに対してもブラウン・ラチェットという用語が使われる。ファインマン=スモルホフスキー・ラチェット (Feynman-Smoluchowski ratchet) とも言う。 ファインマンのブラウン・ラチェット。 分子の熱運動によって揺らされる羽根車が、ラチェットによって一方向の運動を生み出し、重りを持ち上げるなら、熱から運動が取り出せることになる。 ファインマンの装置の基部分は古くからあるただのラチェット機構である。このようなラチェット機構は

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  • ベイズ推定 - Wikipedia

    ベイズ推定(ベイズすいてい、英: Bayesian inference)とは、ベイズ確率の考え方に基づき、観測事象(観測された事実)から、推定したい事柄(それの起因である原因事象)を、確率的な意味で推論することを指す[1]。 ベイズの定理が基的な方法論として用いられ、名前の由来となっている。統計学に応用されてベイズ統計学[2]の代表的な方法となっている。 ベイズ推定においては、パラメータの点推定を求めることは、ベイズ確率(分布関数)を求めた後に、決められた汎関数:の値(平均値もしくは中央値など)を派生的に計算することと見なされる。 標語的には、「真値は分布する」、「点推定にはこだわらない」などの考え方に依拠している。 いま、AおよびXを離散確率変数とする。ここで A を原因、X をそれに対する証拠(つまり原因によって起きたと想定される事象)とするとき、 P(A) = 事象 A が発生する

  • 辰巳栄一 - Wikipedia

    辰巳 栄一(たつみ えいいち、1895年(明治28年)1月19日 - 1988年(昭和63年)2月17日)は、日の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。公職追放中にもかかわらず、吉田茂とGHQの橋渡しを務めた。そのとき、吉田にウィロビーを引き合わせた。戦後の連合軍占領中にウィロビーの発案で河辺機関が組織された。 経歴[編集] 佐賀県出身。商業・辰巳兵三郎の二男として生まれる。佐賀中学校を経て1915年5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第21連隊付となる。独立守備隊第4大隊付、陸軍歩兵学校付などを経て1925年11月、陸軍大学校(37期)を優等で卒業し歩兵第21連隊中隊長に就任した。 1926年12月、教育総監部付勤務となり教育総監部課員を経て1928年5月から翌年5月まで臨時第3師団参謀を務め山東出兵に出動した。1930年7月、イギリス駐在に発令され翌月、歩兵少

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