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ブックマーク / littleboy.hatenablog.com (9)

  • 1989年はテレビバラエティの転換期だった! 「1989年」テレビ年表 - てれびのスキマ

    今月2月17日、ついに新刊『1989年のテレビっ子』が双葉社より発売になります! 正式には「たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記」という長ーいサブタイトルが付きます。 1989年のテレビっ子 -たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン、その他多くの芸人とテレビマン、そして11歳の僕の青春記posted with amazlet at 16.02.07戸部田 誠(てれびのスキマ) 双葉社 売り上げランキング: 35,275 Amazon.co.jpで詳細を見る ページ数400ページになる単行です。 内容はそのタイトルどおり、1989年をめぐるテレビに出る人、テレビを作る人、そしてテレビを見る人のノンフィクションにして、青春群像劇です! つい先日、担当編集とともに約

    1989年はテレビバラエティの転換期だった! 「1989年」テレビ年表 - てれびのスキマ
    nakakzs
    nakakzs 2016/02/08
    少し触れられているけど、ゴールデンと同様にJOCX-TV2(フジ深夜帯)の存在が大きかったのではと思う。
  • 「60歳でテレビからは一線を退く」 明石家さんま、大いに語る。 - てれびのスキマ

    (※一部修正しました) 千原ジュニアをゲストに招いた『さんまのまんま』ではジュニアが手土産として「吉興業の後輩たちからの質問」持参。に対してさんまが真剣に己の芸人像を答え、その内容があまりに濃密だった*1ためか、この番組では異例の前後編(関東圏では6月25日と7月2日)に分けての放送となった。この一問一答はあまり各媒体などでインタビューを滅多に受けたがらない*2明石家さんまの数少ない貴重すぎるインタビューとなるはずなので記録しておきたい。 さんまさんはネタ帳はお持ちなんでしょうか?(じゃぴょん 植村からの質問) ネタ帳は持ってないなぁ。年に一度、コントライブやってるからレポート用紙とかには書くけど。今俺が見ても分からへん。口頭で次の日に説明するから「ジミー、植木屋」とか書いてあるだけで、1年経ったら「なんや?」ってなる。 だからネタ帳はないね。 ―――コントはどうやって作るんですか?全部

    「60歳でテレビからは一線を退く」 明石家さんま、大いに語る。 - てれびのスキマ
  • 江頭2:50、いわきへ行く。 - てれびのスキマ

    前回のエントリ「その時、芸人たちは何を語ったか。」でも少し触れましたが、江頭2:50は原発事故の風評被害で物資が届かないと問題になっている福島県いわき市に自らトラックを運転して救援物資を届けにやってきてくれました。 いわき市民としてその報を知ったときは嬉しすぎて涙が出ました。しかし、最初の報はミクシィ経由のTwitter情報ということで、まだ信憑性という点で疑問が残っていました。それでも、エガちゃんだったらやってくれてそうと思わせてくれる実績と伝え聞く人望があったのでそれだけでも僕は胸がいっぱいになっていました。程なくして、北野誠らが裏を取りその噂が真実であることが判明しました*1。結果、新聞報道に至りながらも人は「恥ずかしがり屋だから」とコメントは出していませんでした。 そして、4月1日。 ようやく自身唯一のレギュラー配信番組『江頭2:50のピーピーピーするぞ!』で待望の人による証言

    江頭2:50、いわきへ行く。 - てれびのスキマ
  • ナインティナイン矢部浩之の決断 - てれびのスキマ

    11月27日。134日ぶりに『めちゃイケ』に復帰した岡村隆史。 その放送を見た水道橋博士はTwitterでこうツイートしている。 時代に選ばれた人がエースの役を担う。身を削りながらも労も厭わずマウンドへ立つ。我々はもし自分だったらと思いを馳せながら観客席から応援を送る。俺の代わりに彼はやってくれていると信じながら。エースの帰還。泣いて笑う。土曜日8時の大河ドラマのエースナンバーは受け継がれている。 2010-11-28 01:21:01 via web 生やさしい感動路線と言うなかれ。そう思う貴方は若く、人生を点に過ぎないと思っている。大多数の平凡な人生の代償行為を小さいおじさんは笑いに殉じて無私の精神でやってきた。あらゆる喜怒哀楽を飲み込むものがお笑いでしょう。 2010-11-28 02:58:57 via web これらを受け相沢さん(@aizawaaa)はこうツイートしている。 エ

  • 「愛方大好き芸人」爆笑問題編 - てれびのスキマ

    先日放送された『爆!爆!爆笑問題』60分SPは、ブラックマヨネーズを招いて興味深いトークを展開していた。 特に後半、ブラックマヨネーズがホスト(聞き手)役に周り、爆笑問題をインタビューした「ブラマヨの部屋」のパートで「相方の好きなところ」を聞いたあたりが非常に面白かった。 以前『検索ちゃん』でも「田中裕二を愛しています!」と叫んだ太田は田中の好きなところを淀みなく語る。 基的には全部好きですよ。長いじゃないですか、出会ってから。 もう30年くらいになります? 大学で出会って、そりゃ好きな部分、時期によって変わるじゃないですか。 好きだったところが嫌いになったり……。 要するにちょっと派手な「わぁーい」ってやるノリのヤツだったんですよ、もともと。 そういうのが、あ、コイツ面白いなって思って最初は友達になるんですけど、段々友達になって(親密に)なっていくと、それが嘘っぱちだ、薄っぺらだという

    「愛方大好き芸人」爆笑問題編 - てれびのスキマ
  • 博多大吉が手にしたもの- てれびのスキマ

    先日『ガキの使い』の「TKJ杯」と『情熱大陸』爆笑問題田中編という強力な番組がしのぎを削った日曜23時台。 そのほぼ同じ時間に福岡ローカルでは『ナイトシャッフル』という番組内で、博多大吉をフィーチャーした「情熱大吉」が放送されていたという。 ネットの力で見ることができたそれは、博多大吉の底知れない魅力が伝わってくる上質なドキュメントだったので紹介したい。 番組では博多大吉が上梓した『年齢学序説』を糸口に、人間博多大吉の正体を探ろうとするものだった。 その企画意図を聞いた大吉は即座に「(正体なんて)わかるわけないでしょ」と大吉らしく微笑む。 「読みましたよ。いやぁ、アイツらしいな、と思いましたよ」との感想を問われた華丸は言う。「やっぱり人のこと書いてるわけですから。そういう書いた人に対して、絶対に傷つかせないように、回りくどいじゃないですか。なかなか核心をつかずに(笑)。どうせ『26歳』っ

    博多大吉が手にしたもの- てれびのスキマ
  • 山里亮太・天才の公式(後編) - てれびのスキマ

    (前編)はこちら。 そんな時、出会った笑い飯と千鳥が山里の運命を変えることとなる。 最初は「ガチンコ!」で優勝した足軽エンペラーをバカにしている奴がいるという噂だった。 その噂で反発心を抱いていた山里だが、彼らが、自分も尊敬していたバッファロー吾郎主催の『ホームラン寄席』に出演したという話を聞き、興味を抱くようになった。 そして、実際に目の当たりにした彼らのネタは「正直すごかった」。 実際には、観客の受けはそれほどでは無かった。むしろスベってるくらい。しかし、山里は「おもしろい」と思った。 おもしろいと思う人から、おもしろくないと思われている情けなさ、それを痛感した。ただこの圧倒的な敗北感が、僕には宝になった。 山里はこれまででは考えられない行動力を発揮する。その敗北感を原動力に。 なぜおもしろいのか、を人たちに直接聞くために、先輩の仲介で酒の席を設けてもらったのだ。「どうしたらああいう

    山里亮太・天才の公式(後編) - てれびのスキマ
  • 山里亮太・天才の公式(前編) 2009-12-17 - てれびのスキマ

    いよいよ、間近に迫った『M-1グランプリ2009』決勝。 その進出メンバーに返り咲いたコンビの中に南海キャンディーズがいる。 山里亮太の著書『天才になりたい』は、よく「売れなかった芸人」としてネタにされるが、それとは全く関係なく、中身はとても素晴らしいものだ。 「山ちゃん、時々おもしろいこと言うからお笑いやってみたら」 山里亮太が親友にそう言われてお笑い芸人を志したというのは、よく人から語られることだ。 普通人は「時々おもしろい」と言われたからってプロになろうとは思わない。 しかし、山里は、その「時々」をよりどころにすることで、自分にその才能を信じ込ませた。 そんないくつかの「時々」を集めてできた「偽りの天才」のの製作作業、こいつはすごい。なにがすごいってたいして自信がないものでも、周りからポロッと出た誉め言葉などで小さな自信を張っていってもらったり、些細なことをそこに結びつけたりする

    山里亮太・天才の公式(前編) 2009-12-17 - てれびのスキマ
  • 草野仁が明かすオウム報道- てれびのスキマ

    間もなく最終回を迎える「草野☆キッド」は「さよならスペシャル」と題し、草野仁の人生を自ら語り振り返っていた。 その中で彼が長く司会を務めた「THEワイド」での「オウム報道」について、当事者ならではの臨場感あふれる語り口で話していた。 長くやりました昼の番組の「THEワイド」っていうのはですね、他のどんなニュース番組にも、あるいはどんな情報番組にも負けなかったと思うのは、やっぱり「オウム報道」なんですね。 1995年3月20日に地下鉄サリン事件が起きるんですが、伏線は当然その1年前の松サリン事件です。 すぐに取材を開始して、当時、みなさん覚えてらっしゃるでしょう? あの近くに住んでいた河野義行さんが怪しい、と。 でも、そこに使われて、何人かの命を奪ったのが化学兵器のサリンである、と。 そういうことが分かった瞬間、これはもう、河野さんの(個人でできる)レベルじゃないから、河野さんは疑いの対象

    草野仁が明かすオウム報道- てれびのスキマ
    nakakzs
    nakakzs 2009/09/24
    前にもどっかで書いたけど、おそらくこのオウム事件が、当時インターネットも携帯電話も全然普及してなかったために日本人が毎日テレビにかじりついた最後の時間(事件)だったのかもしれない。
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