広島県安芸高田市の石丸伸二市長は16日、6月20日告示、7月7日投開票の東京都知事選に立候補する意向を表明した。17日に広島市内で記者会見し、正式発表する見通し。
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1945年8月6日の原爆投下により壊滅した広島で、直後から救援に当たった陸軍船舶司令部の作戦命令書が現存していた。佐伯文郎司令官の命令を筆記し、9日正午に下達された第53号(34~36号は欠落)までの50通が確認できた。惨禍の状況や救援の動きが時間を追って浮かび上がる一級の史料だ。防衛省防衛研究所が保管している。 いずれも「極秘」の印が押され「船防作命」と記された文書の第1号は、この記述から始まる。 「本六日〇八一五(注・午前8時15分)敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ…」。続々と構内へ避難してきた「患者ヲ似島ニ護送スルト共ニ」「主力ヲ以(もっ)テ京橋川ヲ遡江(そこう)シ救難ニ任セシムヘシ」などと、午前8時50分に命令が出ていた。 司令部は爆心地から約4・6キロの現広島市南区宇品海岸にあり、甚大な打撃を免れた。広島城跡の中国軍管区司令部、各行政機関や医療施設が炎上する中、佐伯司令官=当時(
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