2020年6月25日のブックマーク (7件)

  • かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛頭脳戦~ 第11話「そして石上優は目を閉じた③」「白銀御行と石上優」「大友京子は気づかない」

    かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛頭脳戦~ 第11話「そして石上優は目を閉じた③」「白銀御行と石上優」「大友京子は気づかない」 [アニメ] 動画一覧はこちら第10話 watch/1591843023第12話 watch/1593064683体育祭もいよいよ中盤戦、応援団...

    かぐや様は告らせたい?~天才たちの恋愛頭脳戦~ 第11話「そして石上優は目を閉じた③」「白銀御行と石上優」「大友京子は気づかない」
    nakayossi
    nakayossi 2020/06/25
    ああああぁ;;
  • 【特別寄稿】イスラエルにおけるコロナ禍──ユダヤ教超正統派と世俗派のあいだで|山森みか

    ゲンロンカフェではこの4月、当時ドイツ在住だった高橋沙奈美さんに、同地およびロシアウクライナの東方正教会におけるコロナ禍への反応と対応についてレポートをいただきました。今回はコロナ禍における世界の宗教を知る企画の第2弾として、イスラエル在住の山森みかさんに、同地の社会状況とユダヤ教についてレポートをいただきます。イスラエルの文化は、日ではそれほど知られていないのではないでしょうか。山森さんの著書『「乳と蜜の流れる地」から──非日常の国イスラエルの日常生活』(新教出版社)によると、「ユダヤ人であれば、好むと好まざるとにかかわらず、宗教と民族は一致する」とのこと。全世界に降りかかったコロナ禍に対して、宗教的慣習が人々のふるまいを大きく規定しているイスラエル社会では、どのような対応がなされたのでしょうか。 6月5日(金)19:00より、山森さんとビデオ通話をお繋ぎし、上田洋子が聞き手となって

    【特別寄稿】イスラエルにおけるコロナ禍──ユダヤ教超正統派と世俗派のあいだで|山森みか
    nakayossi
    nakayossi 2020/06/25
  • 関東のカトリック教区に対する違和感

    長崎のカトリックの神父やシスターが多い家系で生まれ育って、関東にやってきた。 上京してからは毎週教会に行くことがなかったので、 ある時、近所のカトリック教会へ行ってみることにした。 システムはほぼ変わらない(献金の仕方が教会で違うくらい)ので、普通に馴染めていたのだが、 説教だけがおかしかった。 長崎の教会で聞く説教は、聖書の言葉を引用しつつ、「教えを見習って生きていきましょう」というものがほとんどで、 生活の一部として、キリストの教えを考えていたのだが、 関東の説教は、政治が何だ経済がなんだ、とにかく政治に関する言及が多い。 信徒も正平協のような団体に所属していたりする人が多く、 「思っていた教会と違う」感じだった。 あと「キリストを信じている自分」にアイデンティティを求めているような人もおおかった。 よくネットで「キリスト教は〜」と批判的なことをいう人を見るが、 そんなことを言う気持ち

    関東のカトリック教区に対する違和感
    nakayossi
    nakayossi 2020/06/25
    ここらへんは教会によるので、自分にあったところよ探すしかないが、近くによいところがないとつらい
  • 最近ちょっと考えていたキリスト教のこととか: 極東ブログ

    キリスト教でも平信徒には現実的にはそれほど問題にはならないのが三位一体論だろう。難しすぎるからだ。が、これは異端排除のための信条とも関係していて、歴史を知る上ではなかなか避けがたい部分もある。まあ、こんなエントリではそれほど突っ込まないのだが、昨日エル・グレコのエントリを書いてから、映画とは別として彼は正教の信仰だっただろうかとつらつらと考えた。というか最近つらつらと考えていた。個人的には青春が残した課題でもあった。 正教とカトリックの違いは通常フィリオクェ問題(参照)として知られている。エル・グレコなども平信徒だろうし普通平信徒はこうした問題に悩むことはない。が、そういう信仰の話ではないので、ウィキペディアを借りて話を進める。 フィリオクェ問題(フィリオクェもんだい)は、キリスト教の神学上最大の論争のひとつである。ローマ・カトリック教会と正教会の分離、いわゆる大シスマ(東西分裂)の主要な

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    nakayossi 2020/06/25
  • 砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス: 極東ブログ

    1960年代以降に再評価される黙想の祈り(Contemplative prayer)は、英国中世の「不可知の雲」を直接的な源流としているが、それに終始することなく、黙想(Contemplation)を重視したキリスト教信仰の形態として古代の「砂漠の教父(Desert Fathers)」も再考されていた。この再考はキリスト教とは何だったのか、という問題を現代に投げかけている。 「砂漠の教父」に厳格な定義があるのか私は知らない。またこの視点がどのように生まれたかについてもわからない。一般的には、現在のスーダンに面するエジプトで暮らしたアントニウス(Αντώνιος)(251~356)を代表とするように、3世紀を中心としたエジプトの地のキリスト教の教父(Father)を指している。"Father"の訳語には「教父」の他に「師父」もある。現在的な訳語「神父」はない。この時代には現代的なキリスト教の

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    nakayossi 2020/06/25
    アリウス派やサベリウス派は合理主義でアタナシウスは否定神学.その意味でアタナシウスは改革よりも古きを守っただけ.ナグ・ハマディはグノーシス.グノーシスはキリスト教分派というよりキリスト教を取り込んだ思想.
  • 砂漠の教父とコプト教会: 極東ブログ

    砂漠の教父(Desert Fathers)とコプト教会の関係が気になるので、自分なりに少し整理しておきたい。 先日のエントリー「砂漠の教父と黙想の祈り、改革者としてのアタナシウス」(参照)で砂漠の教父に言及した。背景の基構図としては、ローマ帝国の遷都に伴い、ローマ帝国がキリスト教帝国となり、帝国西部崩壊でローマ主教座が独立・分離する以外は、各地の総主教座はコンスタンチノープルの主教座を名誉的な頂点として統合された。現在のエジプトに居住していた砂漠の教父らも基的にはこの構図から、アレクサンドリア総主教座に以降、納まることになった。だが、砂漠の教父とアレクサンドリア総主教座と後のコプト教会の三者の関係は、現在のキリスト教史観からはわかりづらい。この領域は、正教でもプロテスタントでもカトリックでもないためだろう。 コプト教会は東方諸教会の「非カルケドン派」と呼ばれることがある。451年のカル

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    nakayossi 2020/06/25
    両性説も合性説も「二つの本性は、分割されず、混ぜ合わされることなく、変化することなく、結びあわされている」点は一致している。ほとんど違いはないように思う…。
  • 波よ聞いてくれ 第12話「あなたに届けたい」

    波よ聞いてくれ 第12話「あなたに届けたい」 [アニメ] 動画一覧はこちら第11話 watch/1591842183時計はまもなく午前3時30分。番までのカウントダウンに...

    波よ聞いてくれ 第12話「あなたに届けたい」
    nakayossi
    nakayossi 2020/06/25
    よかった