歴史の表舞台で活躍した貴族の裏には、太政官の実務部門である「官底」に詰めて、資料を黙々と作る実務官人たちの姿があった――。深夜に寒くて暗い外記局の官底で、膨大な書物を検索していた下級官人は、一体何を思っていたのか? 「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』の著者・倉本一宏氏が、特別に書き下ろしたオリジナルエッセイを公開します! 古記録だけに基づいた叙述 永年の念願であった『平安京の下級官人』という本を、やっと書き上げた。平安京に生きた「下衆(げす)(下司)」と呼ばれた下級官人や、さらにその下部で下級官人に従属している階層の人びと、さらには「下人(げにん)」と呼ばれた庶民について、貴族や皇族、天皇によって記された古記録(こきろく)だけを使って、その真の姿を明らかにしたいと、随分前から願っていたのである。 今回、9世紀末の『宇多天皇御記(うだてんのうぎょき)』から
平安時代の「王朝文学」に描かれた、平安貴族の優雅な生活――しかし実際は、王朝貴族たちは政務や儀式の遂行に追われ、そして下級官人たちは、官職や昇進の上限を定められた過酷な人生を歩んでいた……。平安時代の庶民や下級官人は、日々どのような暮らしを送っていたのか? 倉本一宏氏が「平和で優雅な時代」の苛酷な日常を描き出した最新刊『平安京の下級官人』から、「はじめに」の全文を特別に公開します! 「平安時代は優雅だった」という誤解 あれはそう、もう20年以上も前、Yahoo!のアンケートで、「生まれ変わるならどの時代がいいか」というのがあった。その結果は、1位が平安時代で、コメントの一つに「お姫様として生活したい」というものがあり、2位が幕末で、同じく「坂本龍馬と友だちになりたい」というものがあった。 私はこの結果を見て、啞然とした。実際には、たとえ平安時代に生まれ変わったとしても、ほとんどの人は地方の
以下の資料に記載がありました。 〇『ビジュアル・ワイド江戸時代館』 小学館 2013年 〇『苗字と名前を知る事典』 奥富敬之/著 東京堂出版 2007年 〇『苗字と名前の歴史』 坂田聡/著 吉川弘文館 2006年 〇『日本人の名前の歴史』 奥富敬之/著 吉川弘文館 2018年 〇『日本人なら知っておきたい名前の由来、名付けのいわれ』 大野敏明/著 実業之日本社 2013年 〇『国史大辞典 4』 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1984年 〇『日本人の姓・苗字・名前』 大藤修/著 吉川弘文館 2012年 1.所蔵資料の内容確認 〇『ビジュアル・ワイド江戸時代館』 小学館 2013年 p342 「男子の名前」の項目あり。 「「〇右衛門」「〇左衛門」「〇兵衛」といった名前が多い。朝廷の官位(官職と位階)名に由来しているが、官位を授かっていたわけではなく官位に準ずる名前で箔をつける意味があっ
シーボルトは、1826年と1861年の2度江戸に参府していますが、2回目は海路を使用したため、小倉には立ち寄りませんでした。 一度目の参府の際、シーボルトは小倉に一泊半滞在しています。『シーボルト年表』によるとその時に行ったのは、石灰についての観察、ガン・カモ・ツルなど渡り鳥の捕獲、小倉藩の使者の来訪を受ける、小倉の市場、海峡の深度調査、コンパスや錘による観測、海峡渡航などです。 また、『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そして日本』には、さらに診察を受けに来た人を治療したという記述もありましたが、講演を行ったという記述はありませんでした。 複数の資料を調査しましたが、質問の回答となるような記述は見つからず、シーボルトが講演したという資料は提供できませんでした。
仕事も充実させたいし、素敵な恋もしたい! 女性にとって永遠のテーマです。 千年以上むかし、平安時代にも、恋と仕事の両立に悩んだ女性たちがいました。 天皇の奥さんに仕えて身のまわりの世話をした「女房」たちです。 高貴な女性が、夫以外の男性に素顔を見せることは「恥」と考えられていた時代。多くの男性と接してバリバリ働く彼女たちは、現代でいうところのキャリアウーマンのような存在でした。出会いのチャンスが多い分、恋に翻弄され悲しい運命をたどることもあったようです。 そんな中、この上なく高貴な男性に次々と愛されながら、エリート歌人として才能を発揮し続けた一人の女房がいました。 彼女の名は「伊勢」。 三十六歌仙のひとりに選ばれ、勅撰和歌集にはかの有名な小野小町よりも多い176首が収められた、平安時代を代表する女性歌人です。 三十六歌仙図屏風(近衛信尹賛)(左隻) 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュ
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夏のおやつといえばかき氷。7月25日は「かき氷の日」です。かき氷は「夏氷(なつごおり)」とも言い、「7(な)2(つ)5(ごおり)」という語呂合わせと、昭和8(1933)年7月25日に、山形市で40.8℃の日本最高気温を記録したことに因み、日本かき氷協会により記念日に制定されました。 最近は、一年中かき氷を味わうことができますが、かつてはごく一部の人しか食べられない贅沢品でした。夏の風物詩、かき氷の歴史をご紹介します! (この記事では、「氷を細かく削ったもの、およびこれにシロップなど甘味のあるものを加えたもの」を「かき氷」としています。) 「夏の氷」は貴重品だった かき氷の歴史は古く、平安時代、清少納言の『枕草子』に出てくる「削り氷(けずりひ)」が最初と言われています。『枕草子』第40段「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の中に、「削り氷に甘葛(あまずら)入れて、あたらしき鋺(かなまり)
『尊卑分脈(脉)』に、藤原道綱母が「本朝第一美人三人内也」との記述があり、『尊卑分脈』成立時には道綱母が本朝三美人の一人と言われていたらしい。しかし他の二人が誰なのかまでは不明。 江戸時代には、明和三美人、寛政三美人などがある。 『尊卑分脈』では、道綱母の記述があることは確認できたが、他の二人についても記述があるのかどうかまでは調べきれなかった。インターネット上では、他の二人について小野小町、額田王、光明皇后、衣通姫など様々な説が見られたが由来は不明である。 江戸時代には、鈴木春信の浮世絵に描かれた笠森お仙と 柳屋お藤、蔦屋およしが江戸三美人(明和三美人)として、喜多川歌麿に描かれた富本豊雛、難波屋おきた、高島おひさが寛政三美人 (当時三美人、高名三美人)としてもてはやされた。 『名数数詞辞典』では、152pに「三美婦 さんびふ 日本古・中世の代表の美女三人。光明皇后・衣通姫(そとほりひめ
日本最古の巡礼といわれる「西国三十三所観音巡礼」を広めるのに貢献した人は二人います。 一人は、奈良時代の長谷寺の住職、徳道上人。 西国三十三所巡礼を最初に始めた人です。 ※ 徳道上人や、西国三十三所観音巡礼の始まりについてはこちらに書きました。⇒西国三十三所巡礼のふるさと 法起院 そしてもう一人、西国巡礼の中興の祖と言われているのが、平安時代中期の花山(かざん)天皇でです。 今でこそ西国三十三所に指定されている札所は有名寺院ばかりですが、徳道上人が巡礼を勧めていたころはあまりにもマイナーでした。 徳道上人が始めてから270年後、廃れかけていた西国巡礼を復活・整備したのが花山天皇なのです。 花山天皇が巡礼を再興させる前は、どこが札所なのかも、はっきりしていなかったんですよね。 そんな花山法皇が隠棲生活を送ったのが兵庫県三田市尼寺(にんじ)にある西国巡礼番街札所、花山院菩提寺です。 花山院菩提
十二単の女性は、「おまる」のような容器を使っていた。平安時代の寝殿造は、トイレである「(御)樋殿」に、排せつ物を入れる容器である大便用の「しのはこ(清筥・尿筥)」、小便用の「おおつぼ(虎子・大壺)」を置いていた。『便所のはなし(物語ものの建築史)』(谷直樹著 鹿島出版会 1986年)によると、十二単のお姫様が樋殿に入るときは大変だった。まずお供の女が姫の打掛をとり、袴を脱がせ、長い髪を前に回して帯の間に挟む。つぎに清筥の背後に長い取手のあるT字型の支えを据え付け、ここに十二単の長い裾を掛ける。姫は裾を掛けたまま、側面は衣装で包み隠し、清筥の上にしゃがんで用を足した。 1.トイレの歴史から調査。 (1)『すまいの火と水:台所・浴室・便所の歴史(建築の絵本)』(光藤俊夫著 彰国社 1984年)p86-87「溲瓶」の項によると、平安時代の十二単の女性は、持ち運び用便器である「樋箱(ひばこ)」を用
2019.06.21 おしゃれな直垂(水干)男子たち・・。 カテゴリ:絵巻物 この間から、ちょっと別件の資料探しで、絵巻をちらちら見ていました。 ところが本題とは関係ないところで、「浮気心」が起こるのは、まあ、しょうがないところですが、春日権現験記絵の色んな場面を見ていて、目があちこちします。 この絵巻は、精密な修復がされていて、色彩がとてもきれいなので、資料画像としてもあちこちで目にするのですが、華麗な十二単の女房装束や、市井の庶民なども、なかなかに面白いし、建築現場の様子などでも詳しく、また、建物の構造などでも、よく引用される画像です。 登場人物たちは、それこそ町の底辺から、上は上皇様まで、さまざまな階層の人々が登場します。そういった人物群も面白いのですが、偉い殿上人や高僧などではなく彼らの周辺にいる、お供や、警護の人物たちが、なかなかにおしゃれな服装をしているなと目に留まります。 今
多賀城市とは 1.多賀城市のプロフィール 多賀城市は、宮城県のほぼ中央、太平洋岸に位置し、周辺には、県庁所在地の仙台市や漁港で有名な塩竈市、そして日本三景の松島などがあります。面積19.65平方キロメートルの市域は東西に長く、それを2つに分けるようにして中心部を砂押川が流れ、東部や北部には史跡が点在し、海に近い南部の平野には工場地帯が形成され、西部地区の平野には多くの田畑が広がっています。また、三陸自動車道や国道45号、JR仙石線、東北本線が通り、交通アクセスにも恵まれています。 724年には、陸奥国に市名の由来となった「多賀城」が置かれ、東北地方全体を治めました。その歴史を現在に伝える多賀城跡や多賀城廃寺跡は、大正11年に国の史跡に指定され、昭和41年には特別史跡に昇格しています。このような史跡が市内の各所に点在する多賀城市は、「史都多賀城」のことばに表されるように由緒ある歴史のまちです
医療が発達した現代でも病気はなくなりません。病気とハッピーな気分が結びつく人なんて、この世にほとんどいないでしょう。でも、日本には『病草紙』という、病気をポップに描いたエキセントリックな作品があるのです。 まずはその一部をご覧ください。 「眼病の男」 男性が白内障の治療で目に針を刺され、大量に血を吹き出しています。その隣で、女の人がとっても楽しそうに笑っています。これは非常に奇妙な光景です。想像したただけで痛くて怖い。それなのになんで、彼女は笑っているの??しかもギャラリーが集まりすぎです。 平安時代に描かれた『病草紙』は、まだまだわからないことが多い絵巻です。どうしてこんなにポップに描かれたのか、そして一体誰のために何の目的で描かれたのか・・・。その謎と絵巻に込められたメッセージを紐解いていきたいと思います! ※本記事で使用する『病草紙』の画像は全て、色彩が鮮明な土佐光長の写本を「国立国
恋に説明は必要ない。だけど、モテる男に説明はつく。今回インタビューを依頼したのは、あの光源氏のモデルの一人とも言われるモテ男「在原業平(ありわらのなりひら)」だ。平安と令和、多少のジェネレーションギャップを感じつつも、現代にも役立つ「モテる技術」に関してインタビューを行った。 在原業平プロフィール 平安時代の貴族(825~880年)。父に平城天皇の皇子・阿保(あぼ)親王、母に桓武天皇の皇女・伊都(いと)内親王をもつ貴公子。『伊勢物語』の主人公とされ、あらゆるモテ伝説が残っている。『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とも。 現代においても墨田区の「業平橋」をはじめ、日本各地に在原業平ゆかりの地が残っている。1000年の時を超えて日本人の心を掴んで離さない、最強のモテ男と言えるだろう。 平安貴族・業平に聞く!今すぐできるモテ技術5選 時代が移り変わっても、人を恋する気持ちは変わらない。現
平安時代以前に薩摩・大隅で大きな勢力を誇っていた氏族をまとめてみた。南九州に根を張った大族としては、大蔵(おおくら)・税所(さいしょ)・建部(たけべ)・大前(おおくま/おおさき)などの名が確認できる。 大蔵一族 加治木氏(かじき) 市来氏(いちき) 税所氏(さいしょ) 建部氏(たけべ)/禰寝氏(ねじめ) 大前氏 大蔵一族 かなり古くから土着していたと思われる。大蔵一族の勢力範囲は大隅国桑原郡(現在の鹿児島県姶良市、霧島市の西部)をはじめ、薩摩国日置郡(現在の日置市・いちき串木野市・鹿児島市の一部)など。在庁官人でもあったようだ。 大蔵氏は渡来系の東漢(やまとのあや)氏の後裔、あるいは秦(はた)氏の後裔とされる。名乗りの由来は、国庫である大蔵を管理したことから。江戸時代に薩摩藩が編纂した『三国名勝図会』では「大藏氏は、其先後漢靈帝の裔孫、阿智王の後に出づ」と東漢氏後裔としている。 加治木氏(
2019.06.14 明治の服制改革 カテゴリ:歴史・本など・・ 明治23年に刊行された水野年方の「開化好男子」という絵があります。 上等官吏、法学博士、豪商紳士、医師、代議士、壮士、若旦那、学校生徒の八人が描かれています。そのうち、4人が洋装ですね。 特に上等官吏は大礼服姿の麗々しい立ち姿。 代議士は後ろ向きながらフロックコートの典型的な紳士。 髪型がやや自由すぎますが法学博士は多分洋行帰りなんでしょうね。学校生徒は・・・帽子とカバン以外は、今でもある(減りつつありますが)詰襟の学生服。 医者はこの絵では和装ですが、洋装の医者も描かれています。 こういった、男性の半分が洋服を着ていた?という分明開化の時代ですが、日本人・・とくに新政府の役人に洋服を着せるまでにはとてつもない苦労があった。 そういったことについて、こういった本があります。 「洋服・斬髪・脱刀ー服制の明治維新」(刑部芳則・講
五重塔は日本の仏教建築を代表する美しい木造の建築物です。写真は法隆寺の五重塔で、西暦680年頃に建立され、同じ境内の金堂と共に現存する世界最古の木造建築と言われています。 子供の頃、ある雑誌の一こまに、五重塔が地震で倒れないのはやじろべえだからだという一節がありました。工作でやじろべえを作り、どんぐりを指の位置(支点)より十分に下にしないとうまくいかないということを、経験的に学んでいました。五重塔の庇はどこから見ても階の下までは降りておらず、その話はおかしいのではないかと、子供心に思ったものでありました。 それから50有余年が過ぎ、今度は専門家の眼でやじろべえ問題に取り組みました。昨今、関連の図書が出版され(1)、実際の塔について観測、解析が行われ(2)、(3)、大型模型実験の結果も報告されています(4)、(5)、(6)。それらの公開情報をもとに勉強させていただき、検討しましたところ、地震
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