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ブックマーク / crd.ndl.go.jp (10)

  • 遠賀川流域(北九州)が舞台となっている文学はありますか。 | レファレンス協同データベース

    自館OPACで「遠賀」「遠賀川」のキーワードで検索。9の分類の資料、『流域紀行』『筑豊ああ遠賀川』『筑紫の山脈・遠賀川、炭鉱の町に生まれて』を確認しました。 国立国会図書館のリサーチナビの「物語のキーワードから文学作品を探す」(https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-101124.php )より、いくつかの検索ツールを試した後「青空文庫」の全文検索にたどり着き「遠賀川」というキーワードで検索しました。(参考資料①~⑥がヒット) また、『流域紀行』より火野葦平の『燃える河』という作品にも遠賀川が出てくることがわかりました NDC 文学 (900) 参考資料 ①『定山頭火全集 第3巻』種田 山頭火/著 春陽堂 1973 ②『骸骨の黒穂』 夢野 久作/著 角川書店 1980.2 ③『放浪記』林芙美子/著 ④『私太平記

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  • 昔の人名「ざえもん」は誰も(庶民)が自由に付けても良い名前なのか、官位だったのか知りたい。 | レファレンス協同データベース

    以下の資料に記載がありました。 〇『ビジュアル・ワイド江戸時代館』 小学館 2013年 〇『苗字と名前を知る事典』 奥富敬之/著 東京堂出版 2007年 〇『苗字と名前の歴史』 坂田聡/著 吉川弘文館 2006年 〇『日人の名前の歴史』 奥富敬之/著 吉川弘文館 2018年 〇『日人なら知っておきたい名前の由来、名付けのいわれ』 大野敏明/著 実業之日社 2013年 〇『国史大辞典 4』 国史大辞典編集委員会/編 吉川弘文館 1984年 〇『日人の姓・苗字・名前』 大藤修/著 吉川弘文館 2012年 1.所蔵資料の内容確認 〇『ビジュアル・ワイド江戸時代館』 小学館 2013年 p342 「男子の名前」の項目あり。 「「〇右衛門」「〇左衛門」「〇兵衛」といった名前が多い。朝廷の官位(官職と位階)名に由来しているが、官位を授かっていたわけではなく官位に準ずる名前で箔をつける意味があっ

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  • 旧安川家住宅に関する資料はありますか | レファレンス協同データベース

    安川家(松家)は明治42年(1909)北九州市戸畑区の明治専門学校(現九州工業大学)を学校創立。 同時期に安川敬一郎邸と松健次郎邸が建設されそれぞれ北九州市指定有形文化財・国重要文化財となっている。 安川家住宅は広大な敷地に敬一郎(明治末)・三男の清三郎(大正末)・孫の寛(昭和前期)、三代の世代交代に伴う増改築によって建設された建築群。現存する建築は明治43年(1910)頃若松安川邸より移築された大座敷、明治45年(1912)建築の蔵2棟、家督を譲った後大正15年新築された敬一郎隠宅、寛邸として昭和13年(1938)に建築された邸。(邸は昭和40年代以降に大部分が取り壊され玄関周りの二階部分と大座敷。隠宅へ続く廊下のみ現存する。) 和風・洋風・モダニズムの異なる建築様式を一つの敷地に備えており、明治期から昭和にかけて地方財閥の邸宅の変遷をめぐることができる重要な建築である。(『福岡

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    nakuramayumicom
    nakuramayumicom 2021/09/07
    旧安川家住宅
  • シーボルトが江戸に参府した際に、小倉(福岡県北九州市)で講演を行っていたかどうか知りたいのですが、そ... | レファレンス協同データベース

    シーボルトは、1826年と1861年の2度江戸に参府していますが、2回目は海路を使用したため、小倉には立ち寄りませんでした。 一度目の参府の際、シーボルトは小倉に一泊半滞在しています。『シーボルト年表』によるとその時に行ったのは、石灰についての観察、ガン・カモ・ツルなど渡り鳥の捕獲、小倉藩の使者の来訪を受ける、小倉の市場、海峡の深度調査、コンパスや錘による観測、海峡渡航などです。 また、『ケンペルやシーボルトたちが見た九州、そして日』には、さらに診察を受けに来た人を治療したという記述もありましたが、講演を行ったという記述はありませんでした。 複数の資料を調査しましたが、質問の回答となるような記述は見つからず、シーボルトが講演したという資料は提供できませんでした。

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  • 日本の三大美人とは誰か知りたい。 | レファレンス協同データベース

    『尊卑分脈(脉)』に、藤原道綱母が「朝第一美人三人内也」との記述があり、『尊卑分脈』成立時には道綱母が朝三美人の一人と言われていたらしい。しかし他の二人が誰なのかまでは不明。 江戸時代には、明和三美人、寛政三美人などがある。 『尊卑分脈』では、道綱母の記述があることは確認できたが、他の二人についても記述があるのかどうかまでは調べきれなかった。インターネット上では、他の二人について小野小町、額田王、光明皇后、衣通姫など様々な説が見られたが由来は不明である。 江戸時代には、鈴木春信の浮世絵に描かれた笠森お仙と 柳屋お藤、蔦屋およしが江戸三美人(明和三美人)として、喜多川歌麿に描かれた富豊雛、難波屋おきた、高島おひさが寛政三美人 (当時三美人、高名三美人)としてもてはやされた。 『名数数詞辞典』では、152pに「三美婦 さんびふ 日古・中世の代表の美女三人。光明皇后・衣通姫(そとほりひめ

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  • 江戸時代のリサイクル(特にゴミ)についての資料はないか。また、統計的数値がわかるものはないか。 | レファレンス協同データベース

    下記資料を紹介。 『大江戸リサイクル事情』石川英輔/著 講談社 1994(210.5/イシカ) 『大江戸えころじー事情』石川英輔/著 講談社 2000(210.5/イシカ) 『大江戸暮らし』大江戸探検隊/編著 PHPエディターズ・グループ 1999(382.1/オオエ) 『ごみの文化・糞尿の文化』技報堂出版 2006 (518.5/コミノ) 『大江戸ファンタジー』沢田真理/文・絵 パロディー社 2002 (382/サ)*子ども向け 『衣住にみる日人の歴史4』 あすなろ書房 2002 (382/イ)*子ども向け 1.「江戸」「リサイクル」をキーワードに自館所蔵検索すると『大江戸リサイクル事情』がヒット。著者の石川英輔の『大江戸えころじー事情』も関連する内容。 2.NDC210.5(江戸時代),518.5(ゴミ関係),382.1(風俗-江戸時代)の棚をあたる。 →参考文献①p144に「ごみ

    江戸時代のリサイクル(特にゴミ)についての資料はないか。また、統計的数値がわかるものはないか。 | レファレンス協同データベース
  • 平安時代の十二単の女性は、トイレはどのようにしていたのか。 | レファレンス協同データベース

    十二単の女性は、「おまる」のような容器を使っていた。平安時代の寝殿造は、トイレである「(御)樋殿」に、排せつ物を入れる容器である大便用の「しのはこ(清筥・尿筥)」、小便用の「おおつぼ(虎子・大壺)」を置いていた。『便所のはなし(物語ものの建築史)』(谷直樹著 鹿島出版会 1986年)によると、十二単のお姫様が樋殿に入るときは大変だった。まずお供の女が姫の打掛をとり、袴を脱がせ、長い髪を前に回して帯の間に挟む。つぎに清筥の背後に長い取手のあるT字型の支えを据え付け、ここに十二単の長い裾を掛ける。姫は裾を掛けたまま、側面は衣装で包み隠し、清筥の上にしゃがんで用を足した。 1.トイレの歴史から調査。 (1)『すまいの火と水:台所・浴室・便所の歴史(建築の絵)』(光藤俊夫著 彰国社 1984年)p86-87「溲瓶」の項によると、平安時代の十二単の女性は、持ち運び用便器である「樋箱(ひばこ)」を用

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  • 平安時代の裁縫の「ひねり」について。ひねりを用いたのは、布の種類によるのですか。どういう場合に糸と針... | レファレンス協同データベース

    平安時代の裁縫の「ひねり」について。ひねりを用いたのは、布の種類によるのですか。どういう場合に糸と針を用い、どういう場合にひねりを用いたのですか。ひねりは糊を用いたとあります。その糊はどうやって作ったものなのですか。 次の資料を紹介しました。 ○「ひねり」について ①『平安朝服飾百科辞典』あかね会編 講談社 1975 p.709「ひねり【捻】」の項に「単衣の袖口・褄などを絎(く)けないで、ただ捻っておく。」と記載がありました。同ページ「ひねり-ぬ・ふ【捻縫】」の項にも同様の説明があり、続いて「薄物に使用する一種の縫い方。」と記載がありました。同ページ「ひね・る【捻】」の項に「反物の縁を折りまげて絎(く)けずにおく。糊を少々使用する場合もある。」と記載がありました。 ②『平安時代の文学と生活』池田亀鑑著 至文堂 1966 「女子の服装」「87晴装束」に「単(ひとえ)」の項(p.221-223

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  • 平安時代の調味料で「砂糖」の代わりに使用されていたものが知りたい。たぶん果実の甘みだと思うのだが、本... | レファレンス協同データベース

    平安時代の調味料で「砂糖」の代わりに使用されていたものが知りたい。たぶん果実の甘みだと思うのだが、に書かれているか根拠となる資料を探している。その他、もしあれば平安時代以前の甘み調味料も調べて欲しい。 『日生活史』平安時代とそれ以前の甘味料についての記載があった。特に「果物」の甘みを使用した可能性にふれた記載もあった。 『砂糖のちから』p44に砂糖の代わりの甘味料の記載あり。 『新編日品事典』p52に「人類は太古から果物などの自然の生産物から甘味をとっていた」との記載あり。※ただし「日」との記載はない。 『砂糖入門』p9-p10「2 日への砂糖伝播と歴史」に「果物などが甘味料」との記載あり。 『砂糖の事典』p16平安時代以前の甘味料の記載あり。 『日文化史年表』p1102に柿の記載あり。 『日大百科全書1』「あまずら」の言葉からp543「柿」の記載あり。 『飲事典』

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  • 江戸時代の男女の平均身長はどれくらいか。 | レファレンス協同データベース

    事例作成日 2004年07月01日 登録日時 2005/01/26 15:08 更新日時 2023/05/26 12:40 江戸時代の人の身長は、墓地などから発掘された人骨(おもに大腿骨)の長さから推定されています。推定身長を出すための計算式や、サンプルの採り方などで若干の差はありますが、おおむね“男性155~158cm”“女性143~146cm”の範囲内におさまるようです。 (1)『骨は語る 将軍・大名家の人々(*)』(鈴木尚著 東京大学出版会 1985年 4694/1/89)には、江戸時代庶民の平均は“男性157.11cm”“女性145.62cm”とあります。 (*)徳川将軍とその正室・側室や、江戸時代の大名の推定身長なども載っています。 (2)『日人のからだ』(鈴木隆雄著 朝倉書店 1996年 4911/3/96)では“男性155.09~156.49cm,女性143.03~144.

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